玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

二人の人生(前)

2019-01-25 20:22:28 | 近現代史

太平洋戦争を直近の緊迫する対米交渉の切り札として、野村大使、来栖全権大使を支える為に寺崎英成はワシントンの日本大使館に赴任した。寺崎は、兄のアメリカ局長の寺崎太郎と「マリコは元気ですか」との暗号で日米交渉の情報を伝え合っていた。傍受したFBIは寺崎をスパイとみなしていた。

片や、奥村勝蔵は大使館の一等書記官として赴任していた。そして、真偽のほどは定かではないが、最後通牒を手にしながら、前日の寺崎の送別会で人手が足りない中で、しかも、タイプに不慣れな奥村が手間取ったばかりに、太平洋戦争開戦の最後通牒が間に合わなかったということになっている。

敢えて、この二人を比較するならば、この時点では、スパイのような活発な動きをする外交官として、断然、寺崎が優位に見えてくる。裏を返せば、奥村は貧乏くじを引いたということに為ろう。

ところが、戦後になると、昭和天皇とマッカーサー元帥との会見の第1回と第4回を奥村が通訳し、第2回と第3回を寺崎が通訳した。この二人の戦前・戦後を跨っての、官僚人生の奇遇を感じないではいられない。

この時、第4回の会見の後に、「カルフォルニア州を守るように日本を守る」と言う会話を外電に漏洩したという責任を取らされて、奥村は懲戒免職となる。

実は、この4回の会見は、寺崎が病に倒れたので、奥村が代役で通訳をしたのである。どう見ても、寺崎がツイテいて、奥村がまたも貧乏くじである。

しかし、人生とはわからないもので、寺崎は妻と娘が渡米し、独り身の中で、1951年に病死してしまう。片や、奥村は1951年のサンフランシスコ講和条約の締結の後、晴れて独立国となった日本の吉田茂政権下で外務次官に復権した。

がしかし、紆余曲折はあったものの、奥村勝蔵は、官僚の最高地位に登りつめても、「天皇の思召しを聞かないと死ぬに死ねない」との言葉をのこし、1975年に死去した。この二人の人生の総括は実に難しい。<12・26付「二人の役回り」関連>

(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする