『寺崎英成日記』では、寺崎が御用掛(天皇の通訳)に就任してすぐに、太平洋戦争開戦時の在米日本大使館の来栖全権大使から、天皇に「ルーズベルト親書」が届いたのかどうかを、寺崎から確認してくれと頼んでいるのが記されている。
歴史的な軽重であれば、大使館館員の失態による遅れた最後通牒(宣戦布告)のことを天皇がどう思っているかを、来栖は最初に聞くべきではないか、と思うのは、我々下衆の者の心配事であるが、実はそうではなかった。
つまりは、外務省筋は最後通牒が遅れた責任を感じていないのだ。或いは、太平洋を挟んでの広大なスケールで行われた戦争指導本部と大使館との阿吽の呼吸の寸劇だったとしか思えない。或いは、忖度した口裏合わせなのかもしれない。
真珠湾の奇襲攻撃は既に決められていることで、完全なる奇襲実現のために最後通牒(宣戦布告)は絶対に遅らせねばならなかった。だから、電報は普通便で、且つ一番最後の14章に交渉決裂を宣言し、それでもなお、遅滞時間の最後の調整は大使館の現場に任されたのだろう。
そこでは、大使館員の寺崎英成の歓送迎会の翌日で人手が減って、タイプの事務員が居ないのに、タイプ印刷にこだわった奥村勝蔵を筆頭に、大使館全体の失態によって、最後通牒が遅れ、結果、奇襲となったが、それは企図した奇襲ではなく、過失の奇襲にしたかったのだろう。
東郷茂徳外相は、戦後の回想の中で、在米大使館の館員の怠慢と過失は明らかであり、1942年8月に、野村大使より先に帰国した井口参事官に最後通牒遅滞の件を質問したが、「自分の管掌外の事で承知しない」とにべもなく返された。
しかし彼は、その後に野村大使とは接触したとは書いていない。また「来栖全権大使とはその後事情を聞く機会があった」とするだけで、何らその内容には言及していない。
結局は、宣戦布告をしない、完全なる真珠湾奇襲作戦を、出先の大使館事務の失態に責任転嫁したお粗末な筋立てと口裏合わせではなかったのかと、戦後の人間たちに非難されても、返す言葉もないだろう。〔以上、2018・12・23「もう一人の外交官」の続編〕
【参考文献】「寺崎英成御用掛日記」『昭和天皇独白録』文芸春秋/東郷茂徳『時代の一面』中公文庫