奥村勝蔵(1903~1975・9・26)は、死の床につきながら、天皇の思召を聞かないと死ぬに死ねないと言ったそうである。これを、研究者の中では、第4回「昭和天皇・マッカーサー会見」の遺漏事件の失態を指している、ということになっている。
奥村の心の葛藤を察して、入江相政侍従長は、昭和天皇に拝謁した。「奥村には全然罪はない。白洲〔次郎〕がすべて悪い…」と仰せられた、と『入江相政日記』(1975・9・10付)にあった。
ここで、突然、白洲次郎が出て来たのである。外務官僚奥村勝蔵の胸には、実際にはどの失態に対して、どんな葛藤があったのか、なにがなんだか解からなくなってしまった。
そもそも『寺崎日記』では、1947年4月9日付で「陛下は吉田白洲のラインに疑念を持たるゝなりと云う」と記されている。これは、第4回の「昭和天皇・マッカーサー会見」の開催日の1947年5月6日の前の日付である。
どちらにせよ、随分と時間が経って、小出しに、しかも、前後の脈絡もなく、突然、気まぐれのように世の中に天皇のお言葉として、あくまでも断片として出てくる。
なんか不思議で、且つ、或る意味でだらしのない圀家でもある。それは、意地悪く云えば、民主主義を一応標榜している圀であるためであろうか。
でも、これじゃ国家のまともな「歴史」はつくれない。浅田次郎氏は「歴史と史実は違う。歴史とはその国の人々の共通の記憶、つまり起こった事実の捉え方です」と言う。
全くつながらない、継ぎ接ぎだらけの断片のお言葉で史実や事実を追うことはできない。この圀にはまともな近現代史が無いのだ。いや、創らせようとしていない、というのが正しいかもしれない。
【参考・引用文献】豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫2008年/「寺崎英成御用掛日記」『昭和天皇独白録』文藝春秋1991年/浅田次郎『日本の「運命」について語ろう』幻冬舎2015年