ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

皇嗣と皇太子の違いについて なぜ秋篠宮は皇太子にならない?

2023-04-22 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 何度も書きますが、みなさん、ちゃんと記事を読んでいただいているのでしょうか?

「王様・・・」の衣装については今時の若者好みという事はわかった上で私はあえて「バブル世代がみると」とつけているんですね。

一々否定するようなコメントは煩わしいのでやめて頂きたいです。

また、ボードワン国王の葬儀についてですが、エリザベス女王は最前列を歩くつもりだったのです。

ところが、「個人的な親しさ」を優先したファビオラ妃のやり方に不愉快になったという事です。

おかしいと言われても実際そうで、女王は亡くなるまでベルギーに行かなかったわけで。

考えてみると「エリザベス女王即位60周年」に行きたいからと言って、手術を早めてイギリスにいった上皇上皇后陛下もメンタルは今上と同じなんじゃないか?と思います。

それと・・・ミルクアレルギーの粉ミルクは、神木隆之介と我が家のジュニアの世代には、ボンラクト(大豆乳)とMA-1しかなかったんです。

うちのジュニアはボンラクトが合わず、MA-1を飲ませたら吐血して、結局半月くらいエレンタールという芋から出来た栄養乳を飲ませていました。

(非常にまずくて嫌がる子も多いけど、ジュニアは仕方なく飲みました)

MAー1は今でも4000円くらいするんですね。当時は売ってる薬局も1つしかなくて、切らしたら大変と何缶かまとめて買ったのですが、2週間で1缶を飲みきるのでどうしようと思って。幸い病院に勤め始めたら安くしかも定期的に購入出来たのでよかったです。

今は安くていい物が沢山あってよかったですね。

ちなみにアレルギーはミルクだけでじゃなくて、穀物アレルギーというのもあります。米がダメで粟やひえを食べさせるんだそうですね。

さて、本題。なぜ秋篠宮殿下は「皇嗣」で「皇太子」ではないのか。本人の意思?

順番を追って行きましょう。

 平成の天皇が退位しようと思った理由は?

一番は健康問題だと思います。

昭和天皇は亡くなるまで「天皇」でしたが、がんを発症されてから、その病気は秘密にされ、倒れてから3ヶ月あまり、毎日体温・血圧・食事等が速報で流れ(それこそコロナの感染症患者発表みたいに)

特に「下血あり」とか「重湯を飲まれた」とかそんなプライベートな事まで発表されて国中が段々暗くなりました。

特に「結婚式の自粛」「宴会の自粛」「お笑いの自粛」等、誰がそれを求めたわけではないけどそういう風な流れになったんですね。

国民はそんな毎日に次第に慣れて行ったけど、当時皇太子だった明仁親王は「何で天皇の健康状態がここまで発表されるのか」と疑問に思った筈。

皇太子と天皇の仲は、正田美智子を妃とした時点から非常に悪化し、テレビの画面からも皇太子がそっぽむいている事に気づくほどでした。

昭和天皇はそんな皇太子に戸惑って、どう接したらいいかわからない印象。

また、不仲になった原因の一つに、大正時代、皇太子だった昭和天皇が「摂政宮」となった事により、貞明皇后が非常に傷つき、政府の陰謀とすら思った事があったと思います。

ゆえに

 天皇は務めを果たす事が出来なくなったら退位すべき

 摂政は国を乱す元になるから設置するべきではない

と考えたのだと思います。

平成後期、天皇は前立腺がんに心臓弁膜症と様々な病気を乗り越えていましたが、終わり頃は明らかに「認知症」の症状が出た為、そうなったら公にあれこれ言われるのが嫌だったんだろうと思います。

また、天皇であるのに皇太子に役割を譲るのはプライドが許せないとか、様々な感情が渦巻いたのではないかと推察します。

が、皇室典範に「退位」条項はありません。

なぜなら「一世一元」といって、一人の天皇が生きている限り元号を変えないというのが明治以降の最も重要な部分だったからです。

政府はスルーしようとしましたが、反日NHKがスクープを流し「退位」は日本中を駆け巡り、とうとう政府も何等かの答えをだす必要性に迫られ。

結果的に「強いお気持ち」とか国民が賛成しているというデマが大手を振るって「退位」したのです。

安倍総理や麻生さんなどは左傾化する皇室を憂えていたでしょうが、マスコミ操作に長けている皇室には勝てなかったんですね。

理を解いても無理だったわけです。

 

 秋篠宮が「皇嗣」になったわけ

政府は恐らく、「退位」を超法規的措置のような形で認めたものの、その後は皇室典範に沿った形で行おうと思ったに違いありません。

天皇の長子を皇太子

・天皇に皇太子がいない場合、皇太弟を置く

となっているからです。

令和の天皇には皇太子がいませんから、当然秋篠宮が皇太弟になる筈でした。

ところが、「秋篠宮殿下は宮号を残したい」とおっしゃったので、では皇位継承1位を表す「皇嗣」をくっつけ「秋篠宮皇嗣殿下」と呼ぼうという事になりました。

 

 なぜ「秋篠宮家」を残したいと思われたか

問題はここですよね。

個人的に「秋篠宮」という宮号は大好きです。

上品でセンス抜群とご結婚当時から思っていましたから。

秋篠宮殿下としては、皇太子が普通に結婚して男子を得てくれたら、自分の所も息子を何人か儲けて「秋篠宮家」を存続させたいと思っていたでしょう。

しかし、番狂わせが。

皇太子家に男子が生まれなかったのです。

昭和天皇も明仁親王誕生までかなり時間がかかりましたが、秩父宮は皇太弟も皇嗣にもなりませんでした。

その理由は、当時の昭和天皇と香淳皇后には希望があったからです。

しかし、徳仁親王家の場合、愛子内親王が生まれてすぐ「第二子断念」と勝手に自分達で決めてしまった。

問題はそれだけではなく「愛子天皇」擁立の動きが始まりました。

皇室典範には「男系男子」が天皇になるとあるのに、「過去に女帝がいた」「男女平等ではない」といいだし、「女帝」でいいじゃないかと雑誌を使って喧伝し始めたのです。

秋篠宮は自分達がどうのこうのと言える立場ではない事を知っていましたから黙っていたのです。

しかし、皇太子妃の「適応障害」から始まっためちゃくちゃな行動は、皇室のあるべき姿を求める者にとっては非常に見ていられない状況。

本来なら天皇皇后が東宮家に対し、厳しく対処すべきだったのに「悪者」扱いされるのを嫌がり、やりたい放題にさせてしまった。

そして、小泉政権時代、あと一歩で「天皇の長子」が・・・となる寸前に悠仁親王誕生となり、皇室典範の改正を阻止したのです。

そしてこの時から小さかった秋篠宮家へのバッシングが、見るも無残な程ひどい状態になって、眞子様はPTSDになられたのです。

「自分達が耐えれば」と思っていた秋篠宮両殿下。しかし、小さい内親王の心を大きく傷つけた。

もし、今上の即位によって「皇太子」だの「皇太弟」などになったら、もっともっとバッシングされるか、暗殺されるかと思い、ぎりぎりの選択だったんじゃないかと思います。

ゆえに「私は別に天皇になろうとしているわけではない」と引いた形になりました。

安倍元総理の暗殺で、宮家はより「左翼」の怖さを感じたろうと思います。

 皇太弟と皇嗣の違い。

一言で言えば「皇嗣」は男系男子であれば誰でもなれるものです。

しかし、皇太弟は「皇位を継ぐ天皇の弟」という特別な立場です。

 皇太弟の立場・・・・ 内廷皇族

             医療費・通信費・旅費無料

             称号がつく(〇〇宮佳子殿下、〇〇宮悠仁殿下)

             御用邸を使う権利がある(葉山・那須・須崎)

             公務の時、警備の数が多くなる

             東宮御所に住む

 皇嗣の立場・・・筆頭宮家と予算は変わらず

          医療費10割、通信費・旅費自腹

          御用邸を使う権利なし

秋篠宮殿下の場合、即位の儀式では東宮しか着る事が出来ない黄丹の袍、皇嗣では異例の「立皇嗣の礼」を行うことで「東宮と皇嗣の中間」の立場となり、そうはいっても、東宮が持つべき権利はないわけです。

126代の天皇の中には宮家からいきなり天皇になった人もいます。

だから本来は立場に拘らなくても、天皇の後継ぎは秋篠宮と悠仁殿下だからいいんです。

海外では「CROWN PRINCE」って呼ばれるわけだし。

多分、人より脳の衰えが激しいだろう今上は「摂政」を置くしかないと思います。(モラハラやパワハラを受け続けると性格も変わるし、人となりまで変わってしまうそうです)

 

とはいえ・・・正直、称号がついた眞子様・佳子様・悠仁殿下を見たかったなと思います。

それに那須の御用邸を散策する宮家も。

東宮御所なんて上皇に取られるとは実は誰も思ってなかったろうにと。

ご結婚されてから、紀子様は散々上皇后に説教され、厳しくされて苦労が絶えず、おまけに週刊誌にはバッシング記事が載り、どれほど悔しかったかなと思うんです。

上皇后は紀子妃に辛くあたっても東宮妃には甘かった。

泣かされた事も多々あったと思うし。

幸せになって欲しいのに、どうしてこうもうまくいかないんだろうと自分の事のように悲しいです。

人間だもの。

ここまで意地悪されたら今上のように「馬鹿」っぽくなってもおかしくないです。無表情で何も考えず、へらへらするしかないというような。

心を病むってそういう状態になる事なんですよ。

あるいは眞子様みたいに自虐的になって、わざと自分が傷つき孤独になるように自分を仕向けるとかね。

でも紀子妃は耐えて耐えて、今は光輝く美しさをお持ちです。

それは大変素晴らしいけど、やっぱり「心からの笑顔」を見たいじゃないですか。

皇后と愛子内親王の二人が存在する限り、一生気を遣って苦労するしかないのかと思うと可哀想だし、悠仁親王のお妃になる人も可哀想です。

一日も早く平安が訪れ、世界に誇る天皇と皇后、そして若き皇太子を見たいです。

 

 

 

 

 

コメント (17)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森暢平の記事は間違っているし大学教授の資格なし2

2022-07-04 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 前回は、後桃園天皇の娘、欣子内親王を愛子内親王になぞらえ、傍系宮家の光格天皇が「婿養子」として天皇家に入った・・・という森氏の考え方を紹介しました。

しかし、あくまでも内親王は「中宮」であって「天皇」にはならないのです。

 江戸期の皇室において正室、側室はほぼ「女御」で統一

 死後に「皇后」に叙される事はあった

ので、欣子内親王は天皇の一人娘という事で、最初から「中宮」でした。

中宮と皇后の名称の違いは何かというと、位としては皇后の方が上に感じます。

平安時代には正式の妻は「皇后」だけど、天皇が本当に好きな女性で身分が皇后と相応ならば「中宮」という感じで覚えておけばよいでしょう。

「皇后」はほとんどなる人はいない。

では先に行きます。

 

欣子の夫は前述した光格天皇(1771~1840年)である。

しかし、困ったことがあった。

何が困ったことなのかしら?とちょっと不思議になりますね。欣子内親王が中宮にたてられたのは1974年の事です。

光格には側室(典侍(てんじ))勧修寺婧子(かじゅうじただこ)との間に男子(寛宮(ゆたのみや)、恵仁(あやひと)親王)があり、すでに15歳だった。

典侍というのは女官の名称で、位が高い方にあたります。しかも天皇の身近にいるので自然に側室になりますわね。

1800年に勧修寺さんとこに寛宮さんがお生まれになったんどす。

同じ年に中宮さんも温仁親王さんをご出産あそばれたものの、すぐにのうなってしまわれたんです。だから・・・

彼は(寛宮)9歳のときに立太子の儀式を経て、皇嗣(次の天皇)の地位にあった。

欣子は若くして得た男子を亡くした後、子供に恵まれない状態が続いた。

そこで側室の子である寛宮を養子として、天皇の後継ぎとした。

ところが自分が出産し、いわば正統の天皇家の子供ができたのだ。

1816年に中宮さんは悦仁親王さんをご出産あそばされたんどす。

 でも、勧修寺さんの宮さんはすでに東宮さんにおなりや。

 今更中宮さんが親王さんを上げられても、次の御代は勧修寺さんの寛宮さんでお決まりや。

ただ、すでに立太子が行われたこともあり、寛宮が後継ぎであることに変更はなかった。

1817年、光格は譲位し上皇となり、寛宮が仁孝天皇となった。

ここまで大丈夫ですか?

系図にするとこんな感じです。

 

1820(文政3)年夏の状況を考えてみる。

光格上皇48歳。皇太后となった欣子41歳、高貴宮4歳。

一方、仁孝天皇は20歳で、この年、初めての子鍠宮(おさのみや)(安仁(しづひと)親王)が誕生した。  

現皇室典範の考え方から言えば、当時の天皇の男系長男なのだから、鍠宮が皇位継承者となるのが筋である。

しかし、当時はそのようには考えられなかった。仁孝天皇はいわば中継ぎであり、本家正統の高貴宮こそ、次の天皇だと考えられたのである。

 ここまでわかりましたか?

へえ、そうなんだ~~と思ってしまう人もいるんじゃないかと思います。

でもここに惑わされてはいけないのです。

仁孝天皇を悠仁親王になぞらえているんですね。そして最終的には愛子内親王の子供が皇位を継ぐ。なぜなら愛子内親王の系統こそ本家正統だからと。

 また今の皇室典範を江戸時代にあてはめて考えるなんておかしいと思いませんか?嘘を見破ったり。って感じです。

 

つまり、天皇本家の流れを汲(く)む女性皇族の欣子の実子高貴宮と、現職の天皇である仁孝を父に持つ鍠宮を比較したとき、高貴宮のほうが貴種性が高いと考えられていたのだ。

それを担保したのが本家の娘、皇太后欣子である。  

皇統が完全に閑院宮系に移ってしまう可能性はなるべく排除し、従来の天皇本家の血統を継ぐ女性として、欣子は重要な存在となった。

 これは完全に間違った考え方です。

 「皇后腹」から生まれた子の方が尊いという考え方自体、中国や朝鮮の考え方なんですね。ゆえに、あちらの国ではいつも正室と側室の間で皇位継承争いが起き、毒殺などが横行するわけです。

 日本の場合、江戸末期になると皇族よりも「五摂家」の方が高位になります。

 また、日本の場合は皇后が、中宮が・・・ではなく、「〇〇家」の後ろ盾という方が力が強いのです。仁孝天皇の側室鷹司茂子は死後「皇后」を贈られています。

 ではなぜ仁孝天皇の子よりも中宮が生んだ子が東宮に?

 単純に言えば「年上」だったからです。この頃は乳幼児の死亡率が高くてとにかく生き延びた者勝ちになっているんですね。

 

  

ところが、高貴宮は1821年に5歳で亡くなってしまう。

42歳である欣子の年齢を考えると、天皇本家系で皇統を継ぐことが難しくなった。

さらに、鍠宮も同じ年に亡くなってしまう。  

加えて、仁孝天皇の正妻(女御(にょうご))であり、鍠宮の生母鷹司繋子(つなこ)も2年後、2回目の懐妊で女児を産む際、生まれた子とともに亡くなってしまう。25歳だった。  

天皇家に残されたのは、皇太后欣子(44歳)、欣子とは血がつながらない義理の息子である仁孝天皇(23歳)だけである。

仁孝がまだ若いのが希望であったが、皇統は危機にあった。  

結局、仁孝天皇は、側室何人かとの間に男子に恵まれそのうちのひとり、煕宮(ひろのみや)(統仁(おさひと)親王、1831〈天保2〉年生まれ)が、のちに孝明天皇として即位し(1846〈弘化3〉年)、皇統は保たれた。  

ただし、仁孝天皇や孝明天皇には本来、天皇本家の血統ではないことに対するコンプレックスが強かった。

 はあ?もう誰はだれやらわからんわ。

大丈夫です。

森氏のいう「中継の天皇の長男」は鷹司繁子がお産みまいらせた安仁親王

でもわずか1歳でのうなってしまわれて。その頃、着袴の儀を迎えていた悦仁親王が東宮さんになるのは自然な流れやったのではないかと拝察します。

前述したように鷹司繁子さんは五摂家出身で死後「皇后」さんを追贈されてます。

決して立場的に皇太后さんと同じくらいやと思います。

 さて、仁孝天皇や孝明天皇が「直系ではない」コンプレックスを抱えていたというのは間違いです。

  歴史を振り返るに、継体天皇、南北朝、直系でない天皇なんてざらにいましたし、何より貧乏な皇室の中で天皇になっても何か得する事があるかしら?って思いませんか?

  むしろ、親王や内親王に生まれて寺に預けられ五摂家に頭を下げて生きなくていい・・・くらいがせいぜいのプライドです。

 森氏が傍系といいますが、光格天皇からずっと直系で繋がっているわけで仁孝天皇も孝明天皇も「男系の天皇」である事に違いはなく、コンプレックスを持つ事もなかったでしょう。

 むしろ、課題は「どうやって皇統を繋ぐか」という事で、仁孝天皇は4つの世襲宮家から猶子を入れて万が一に備えていました。

 

孝明天皇の即位の年、67歳まで生きた欣子は、いわば、天皇本家の実質的家長であり、広い影響力をもった。

皇位継承や側室の序列など皇室内部のことについて、彼女の意向や考え方が決定に大きく反映されたのである。

維新のあとの1870(明治3)年、彼女の陵墓石塔が、前例を覆すような七重塔の形式で作られた。

天皇本家の最後の女性、欣子の存在感は、それほどまでに大きかったのである。

 要は愛子内親王の貴種性が高く、秋篠宮も悠仁親王も先に死ぬぞ・・・と脅しているような文章に見えます。

しかし、実際に女性として位人身を極めたのは、仁孝天皇の娘にして孝明天皇の姉である淑子内親王です。

 淑子内親王・・・閑院宮愛仁(なるひと)と婚約によって「内親王宣下」を受けるもその2日後に彼は死んでしまう。

その当時絶家となっていた桂宮を継承。12代桂宮になる。

1866年、准三宮、一品となり「桂准后宮」と呼ばれた。

孝明天皇の正妃、九条夙子もまた准后ではあったけれど、位としては淑子内親王の方が上です。

なぜにこの内親王が高位を極めたかと言えば、現天皇の姉にして先帝の娘、宮家の当主であったからでしょう。その代わり、一生独身ではあったのですが。

 もはや嫡流が光格天皇になっていた幕末期における皇太后欣子は過去の人というか、知る人ぞ知る「後桃園帝の女一宮」でしょう。未亡人が皇室の政治に口を出す事などないと思いますし、穏やかで静かな老後だったのでは?

 

現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮家の悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。

 何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。

 江戸時代の皇位継承を現代の皇室典範にあてはめて考えたのは森氏である。

 秋篠宮文仁親王は先帝の二の宮で悠仁親王は皇孫です。いわば直系の血筋です。森氏の理論から言えば今上だって「光格天皇の子孫」である事をコンプレックスに思わないといけないのではありませんか?

 秋篠宮を閑院宮と同じく語るのは無茶苦茶でおかしいです。

 

江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。

愛子さまが、天皇家と遠くでつながる男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、愛子さまの継承には正統性が増す。

 つまり、森氏達のような「女系派」が考えているのは、愛子内親王の即位ではなく、その子供の即位なのです。

  愛子内親王が旧宮家男子と結婚しても愛子内親王は「妃」です。その長男はあくまでも宮家当主であって悠仁親王の男子には到底及ばない事を考えるべき。

っていうか、本気で愛子内親王が旧宮家男子と婚姻すると思ってるのか?

 あちらさんも選ぶ権利がありますよ。家柄のよさを誇る旧宮家なら水俣病チッソの会長の孫の血を受け継ぐ嫁は欲しくないでしょう。

 正田美智子さんが皇太子妃になっても、結局旧宮家や旧華族と仲良く出来なかったのはそこにありますからね。

 

今回、強調したいことは、皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。  

コロナ禍が落ち着いた様相を見せるここ1カ月、女性皇族の活躍が目立つ。

江戸時代よりも、男女の関係が近代化している21世紀。

男女共同参画社会のなかで、女性皇族の地位がより高まっていくことを期待したい。

 女性皇族の地位が低かったわけではない=男系継承だけじゃない

これって全然違う論理の展開で論文の末としてはペケを付けざるを得ません。

だらだら書いて結局そこかい?その証拠を並べ立てたつもりが、全然違ってたという事になるのです。

 男女共同参画といえども、独身の承子女王より、出雲に嫁ぎつつもあっさり東京に帰ってきた典子さんより、嫁いで男子を得た綾子さんの方が「元女性皇族として立派にお仕事をやりとげた」という事に違いはないのです。

 男女共同参画といいつつも、雅子皇后は養蚕すら一人では出来ずに家族を巻き込み、仕方なくやる。

公務が嫌いでえり好みし、すぐに「体調の波」を理由に休む。これが男女共同参画時代の象徴には見えません。

 愛子内親王もまた、生まれた時からまもとに学校に通った試しがなく、大学も通えず、成年になっても仕事をしない。これが「男女共同参画」時代の皇族の在り方なのでしょうか?

  

どんな理由を上げようとも、「公務を受けることが出来ない」女性皇族はいらないのです。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

森暢平の女系論は間違っているし大学教授の資格なし1

2022-07-01 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

悔しかったら原稿料で稼いでみろ・・・と言われそうだけれど。

サンデー毎日に掲載の「江戸後期の女性皇族の地位 皇統に重要なのは男系か?」

は呆れてものが言えない程のこじつけが書かれており。

でも、成城大学の教授が書いているんだからそうなんだろうと思う人も多いと思うのです。(私の同僚は絶対信じるだろう)

しかし、いわゆる「愛子天皇派」のいう事って決まっている。

 女帝の娘が即位しているから女系

 天皇が内親王と結婚して婿入りしたから女性天皇でも女系でもいい筈

どっちも間違いです。

皇室典範の解釈も違います。

まず彼の文章を見てみましょう。

現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。

天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮家の悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。

 そんな議論は起きてません。徳仁天皇の次は文仁天皇でその次は悠仁天皇です。

 

 何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。

江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。

  近代にしろ現代にしろ、愛子内親王の正統性はありません。

 男系女子ですが皇位継承権を持っていない

それに尽きるからです。(そりゃ他にもありますよ・・・もにょもにょ)

愛子さまが、天皇家と遠くでつながる男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、愛子さまの継承には正統性が増す。

 愛子内親王が仮に旧宮家の誰かと結婚しても、降嫁するだけですし、皇室典範改正による旧宮家の復帰があるとしても「妃殿下」になるだけです。あくまで投手は「男系男子」です。

 今回、強調したいことは、皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。

前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。

 いいえ、男系継承のみです。「男系継承」と「女性皇族の地位の高低」には関連も関係もありません。

 

今回は、江戸時代後期の女性皇族の地位を、光格天皇の中宮(皇后にあたる)、欣子(よしこ)内親王(1779~1846年)から考えていきたい。

当時の皇位継承を子細に検討してみると、決して男系による継承だけが重視されていなかったことが分かる。

1816(文化13)年2月25日、中宮欣子に男子が生まれた。

高貴宮(あてのみや)(悦仁(としひと)親王)である。

欣子は当時36歳(満年齢に換算、以下同じ)。

彼女は20歳のとき、一度男子を産むが2カ月で亡くし、その後出産していなかった。

当時の感覚で言えば「高齢出産」。それゆえにこの皇子誕生は驚きをもって迎えられた。  

欣子の夫は前述した光格天皇(1771~1840年)である。

しかし、困ったことがあった。

光格には側室(典侍(てんじ))勧修寺婧子(かじゅうじただこ)との間に男子(寛宮(ゆたのみや)、恵仁(あやひと)親王)があり、すでに15歳だった。

彼は9歳のときに立太子の儀式を経て、皇嗣(次の天皇)の地位にあった。  

光格天皇は、閑院宮家出身である。

曽祖父は東山天皇にあたるが、皇位継承が想定された人物ではなかった。

町医者の娘であった女性(のちに大江磐代(いわしろ)と呼ばれる)を母に持ち、その大江の母は、鳥取・倉吉で「餅屋のおりん」と呼ばれ出自も身分もはっきりしない人物である。

 傍系の宮家出身、それも母方の身分に難があった光格が即位したのは、後桃園天皇の一人娘である欣子と結婚することが担保になっていたためだ。

2人の結婚は1794(寛政6)年、光格が22歳、欣子は15歳であった。

誤解を恐れずに言えば、光格は「婿養子」として天皇本家に入った。

 

ここまでさら~~~っと読みましたか?

ええ・・・何が何だかわからないですよね。

いいんです。わからなくて。ただ、「光格天皇」「欣子内親王」「閑院宮家」を覚えて下さい。

森氏の文章に正当な理論をしかける前に、私達は予備知識が必要です。

まず、「閑院宮」から始めましょう。

 

 閑院宮家って?

1710年に新井白石の進言によって創設された「世襲宮家」の4番目です。

 鎌倉期から天皇家はとても貧乏になった

 徳川政権によってさらに弱体化

 天皇の子供は、皇位を継ぐ男子以外は全て寺に預けられ親王宣下もなし。女子も徳川家、貴族に嫁いだ場合を除きみな寺へ。

 直系に皇統の危機が起きた時に即位出来る「世襲宮家」が誕生。

桂宮

伏見宮

有栖川宮

この3つも色々あって、特に桂宮家は何度も断絶しているのですが、4番目の「皇統の危機を救う宮家」として閑院宮家が創設されたのです。

上記の系図を見て下さい。

閑院宮家は東山天皇の子供から始まっています。

後桃園天皇には一人娘の欣子内親王しかいなかった。

俗に「女一宮」と呼ばれ、天皇の一人娘。

森氏はこの欣子内親王を愛子内親王に重ねているのです。

もし、ここで安易に女性天皇が認められていたら、欣子内親王が女性天皇として即位してもおかしくないですよね。

過去に明正天皇、後桜町天皇などがいたのですから。

しかし、天皇になった女性は結婚出来ません。

なぜなら女性天皇に子供が出来ると、皇位を巡って継承争いが起こるからです。

ゆえに、江戸期の女性天皇は弟や他の男系男子が成長し天皇となるまでの「中継」として即位し、譲位後は院になるのが普通でした。

さて、光格天皇は確かに「傍系」の男子ですが、立派な男系男子です。東山天皇からみれば曾孫であるし、後桃園天皇からみても遠い従兄弟くらいの近さです。

他の3家よりはずっと天皇家と血が近かった事。

そして、欣子内親王と年齢も釣り合うことで、光格天皇が即位し、欣子内親王はその身分にふさわしく「中宮」となったのでした。

 

森氏のいう「担保」という言い方は恐ろしく不敬です。

 江戸時代、天皇の妃は一様に「女御」となり、「皇后」は追贈される場合が多い。

 欣子内親王が中宮になったのは、皇族であったから

です。

ただ光格天皇が即位出来た事はものすごく運がよかったんですね。

それというのも、いわゆる「次の天皇」を決める事を始めたのが欣子内親王が1歳の時。

 天皇の血筋に近い宮家出身

 欣子内親王と歳が近い未婚の男子

 法親王になる予定がある

光格天皇は閑院宮家の第6子ですが、長子は既婚、その下は皆法親王になっていたので還俗できず。1歳下の弟は寺に入る予定がない。

そんな様々な条件をクリアできたのが光格天皇だったのです。

光格天皇は後桃園天皇の養子になって立太子せずに即位しました。

この場合、語るべきは「光格天皇は婿養子になったから即位出来た」ではなく、「光格天皇は後桃園天皇の養子となったので欣子内親王を妻とした」になるのです。

 

父親の後桃園天皇からすれば、一人娘を即位させて後に寺にいれるなんて重い運命を送らせるより「妃」として君臨した方がよいと思ったんじゃないかと思います。閑院宮家としてもこれはよい話でした。

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

侮辱罪厳罰化で秋篠宮家を救えるか

2022-06-14 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 1ドルが135円・・・いやーーもうどうしようもないですよね。

現在は少し下がって134円台。14日に日銀が買いオペしたら少しは・・とはいっても原材料の値段は上がる一方。それだけじゃない理由でも上がる一方。

値上げを受け入れているのではなく「仕方なく」買っているのです。

日本の場合は物の値段があがっても給料は上がらないはガチで、それに怒ることもしない国民性もうどうかと思いますが。

国外に生産を頼りすぎていると品物が入って来ない。

だからもう少し国産を増やすべきで、国産は高いというイメージを払拭する為に努力するべきです。

「べき」ばかりだけど、輸入物が高いと言う事は国産にとってチャンスの筈なんですけどね。

さて、侮辱罪が厳罰化さて、SNS投稿者の開示請求もやりやすくなると言う事で、女性週刊誌、文春、新潮などは勿論YAHOOコメントに見られる秋篠宮家への誹謗中傷は止むのだろうか。

これって、韓国の「慰安婦問題」と同じで、こちらがいくら「こっちが事実なんだよ」と言っても聞く耳を持たずに「日本人(秋篠宮家)は謝れ!消えろ」と言っているようなものじゃないでしょうか。

先日の「植樹祭」も、秋篠宮夫妻がやれば「なんでわざわざ赤坂御用地で植樹するのか?」といい、「天皇皇后」がやれば、すっかり同じ事をしているのに大絶賛。

そこにいくら「そもそも赤坂御用地で植樹し始めたのは天皇皇后です」と言っても、ああ聞こえない 秋篠宮家はおかしい、金の無駄遣いばかりしているの1択しかなくなる。

「全国ろうあ協会」の行事に佳子内親王が秋篠宮夫妻と一緒に出ないという事に関しても「親子関係が悪いから。佳子様は殿下と口を利かない」とか、そんな憶測ばかりの記事を出す。

同日に佳子様が障害者ダンス大会におでましになれば「愛子さまは御所にいるのになんで佳子様は外に出るのか?」ととんちんかんな叩きを始める始末。

「れいわ流」は何でも一家で行動するらしく、「公務を分担する事でより多くの公務を受けられる」という秋篠宮家の考え方とは真逆。

あくまでも「歴代皇后」の仕事である「養蚕」を一家でやってしまう伝統破り。

体調不良だ、腰が~~と延期はしてみたものの、それでもやらないわけにはいかなくて仕方なく出てきているというのが現状でしょう。

愛子内親王もいつになったら大学へ行くのか?と思えば、YAHOOコメントする人達にとっては現在は「コロナ禍」にほかならず、外に出る方がおかしいんだそうで。

じゃあ、何で天皇皇后は「琉球」展に行ったのか?

上皇夫妻もお出かけになったのに、愛子内親王は幽閉でもされているのか?

それとも毎日職員とバドミントン三昧なのか?

一度も対面授業に出ないままに卒業しちゃおうという、「皇室特権」を使いまくっている事はスルー。

そもそも高校入学の時点で出席日数足りないでしょ・・だった内親王。

高校でも不登校を繰り返していたのに、推薦入学なんて出来るレベルじゃなかった筈。でも入学させられて・・お気の毒ですよ。

そんな内親王を毎週、女性週刊誌は「決意」と上げで「~なのではないでしょうか」とポジティブな観測気球を上げるけどぜーんぜん効果なし。

今週は香淳皇后例祭があるけど、愛子内親王のお出まし予定はなし。

3年生にもなれば毎日授業があるわけでもないでしょうにね。

 

私は侮辱罪に問うなら、まず渡辺みどり香山リカ、友納尚子を訴えたいです。女性週刊誌3紙も。

かれらの秋篠宮への侮辱の歴史は長すぎる。

かれらのせいで眞子様がどれほど傷つき、心を病んでしまったか。

その責任は大きいと思うからです。

 

特筆したいのは篠原由香という人。

この人は誰の命令でやってるのか?

画像

この人の本気でやるというのは秋篠宮家と上皇后を潰すことだそうです。

これこそ侮辱罪ですね。

 

 

 

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悠仁親王を頂点とした天皇家になる為には

2022-04-14 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

本題からそれますけど、ちょっと書かせて頂きますね。

「宝塚歌劇団」というものに関して、勘違いされているのではないでしょうか。

まず、宝塚歌劇団は1914年に設立された今や「伝統芸能」と呼ばれてもおかしくない「女性だけの歌劇団」です。

小林一三の提唱した「清く正しく美しく」がモットーです。

そして音楽学校は専門学校の分野に入ります。入学出来るのは中卒から高卒まで。合格率は非常に低いと言われる音楽学校で2年間、徹底した礼儀作法と芸を磨き、歌劇団に入団します。

音楽学校に入ってから歌劇団を止めるまで「生徒」と呼ばれます。

じゃあ、先生は?演出家であり、脚本家であり・・・

トップスターは組の頂点ですが、それ以上に大事にされるのが「学年」と呼ばれる序列です。

生徒は入団した時から「研究科1年」で卒業するまで「研〇〇」と呼ばれます。

ですから、いわゆる芸能人とは違います。

以前はよくテレビにも出演していましたが、基本的に外部出演はしませんし、自分達が芸能人という感覚もないでしょう。

給料はものすごく安いです。持ち出しの方が多い程なのでファンクラブなど、支える者が必要です。

一種の「歌劇が大好きなプロに近い素人集団」です。

そして海外の人が異様な目つきで見るというのも間違いで、今や宝塚は世界中にファンを持っています。

悠仁殿下のお妃候補に音楽学校から歌劇団に入った女性がよいと私が思った理由は

 序列意識がきちんとあって守れること

 社交的で礼儀正しく言葉遣いもきちんとしていること

 実はお金持ちの子が多い。家柄のいい子も多い

という事です。音楽学校に入学の時点で恐らく「身元調査」もされているだろうと言う事は公然の秘密です。

東京では感じませんが、関西では劇場にくるおばさま達の会話をよくよく聞いてるとジェンヌを取り巻く世界が「上流の社交界」である事がよくわかります。

ゆえに、こっちから行くと非常に緊張を強いられる事もあるし、服装や身だしなみもめちゃ気を遣うといった事もあります。気にしなければそれでいい事なんだけど、やっぱり・・・ね。

 

宝塚歌劇団の生徒達は、いわゆる「ドレス」「着物」の着こなしが自然とよくなります。アクセサリーなども自分で作るのでセンスがよくなります。

 

どんなに学歴があっても、育ちがよくない人はお妃にふさわしくありません。

その「育ち」をはぐくむのが歌劇団です。

無論、別に歌舞伎界・能・狂言界などのお嬢さんでもいいのです。

多産系であれば。

しかし、絶対にダメなのが

 政治家・官僚の娘

 宗教団体の娘

 営利団体の娘

 キリスト教信者の娘

です。正田美智子氏は「営利団体の娘」であり「キリスト教信者の娘」でした。

小和田雅子氏は「官僚の娘」です。

川嶋紀子氏は「学者の娘」ですね。

昭和・平成と「恋愛結婚でないとダメ」というような風潮がありましたが、令和の今は出会いの機会もそんなにあるわけではないので、「お見合い」にも抵抗が少ないのではないかと思います。

まずは筑附の女子生徒から、それから旧華族や旧皇族の多産系の女子を選ぶか、最終的に宝塚歌劇団も入れて大丈夫という事です。

で、維新のいう「養子」案ですが、これは実際には難しいので、「旧宮家」の当主一家を丸ごと皇籍復帰させ「〇〇宮家」とするのが最も早いと思います。

「女性宮家」というのは、内親王が結婚して宮家の当主になる事で、相手は男系男子でなくてもいいというものですから排除。

その代わり、皇籍復帰した宮家に嫁げば「妃殿下」になる。

 

小さい子を養子にしたら誰が育てるんですか?という話になりますから。

私が以前から提唱している猶子案を誰も言い出さないのが不思議です。

知らないんでしょうかね・・・・

 

 

 

 

コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

維新のいう宮家の「養子縁組」案とは

2022-04-13 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

悠仁殿下も高校に入られた事ですし、紀子様がやらなきゃいけないのは「お妃選び」ですわ。

筑附もいいけど、宝塚音楽学校も視野に入れて欲しいものです。

あそこはブルジョアが多いですし、姿勢と礼儀のよさはお墨付き。ついでにいうなら努力家も多いのです。

今から予科・本科で目星をつけ、歌劇団でどの程度力を発揮するかを見極めつつ選んでは?その為には佳子様と悠仁殿下が一緒に宝塚を見に行くのが一番よろしいのですが。

大正天皇のお妃選びは、お姉さま達の遊び相手として御所に読んで女官達が選んでいくというもの。昭和天皇の場合は貞明皇后によって決められたのですが、昭和天皇の時は

皇族が第一候補で次が五摂家

・戊辰戦争で負けた方の宮家から選ぶ

という事で、久邇宮家の良子女王が選ばれたのでした。

天皇や皇后の意志が反映されずにお妃が決まったのが上皇で、大きな溝になりましたね。

さて、維新の会が評価し、意見書としてまとめた「旧宮家の養子案」ですが、私、これはちょっと意味がわからないのですが。

 旧宮家の誰を?

 何歳で?

 どこに?

 どういう形で?

 皇位継承権は?

この曖昧な「旧宮家の男系男子を養子にする」って意見書は、ちゃんと皇室の歴史をわかっている人の案なんでしょうかね。

今、男系男子が残っている旧宮家は5つほどあるらしいというのはわかっています。その筆頭が賀陽家です。

賀陽宮家は1900年に久邇宮から分かれて創設されました。

今、残っている旧宮家はみんな久邇宮家を祖とするもので、本家も東久邇家も男系男子に恵まれています。

また、宮家に生まれた次男らは伯爵家などに養子に入ったりしていますので、その系統を探せば、さらに男系男子は増えるものと思います。

問題は、それらの中の一体どこからどこまでを選ぶのかという事。

男系男子っていったら竹田さん家もそうだけど、ここは国民の心情的に嫌だと思うし。血筋だけで一斉に「20歳~30歳までの男系男子集まれ」になるのかな?

独身が条件ですか?それとも結婚しててもいいのか?

多分、独身でしょう・・・って事は「10代の男系男子集まれ」になる可能性もあり。

もし、愛子内親王や佳子内親王を旧宮家と縁組させたいなら、さっさとお見合い設定して事を勧めないと、正直本人の気持ちを云々している場合ではないのです。

そこらへん、政府も皇室ものんきすぎるというか、「本人の意思が大事」なんて言っていたら行かず後家になってしまいます。

とはいっても、高円宮家の典子さんみたいに形だけ結婚してやってる事は女王時代と同じでは困るんですけど。

 

承子女王や彬子女王、瑤子女王は大正天皇の家系ですからこの際は臣籍降下がふさわしいかと思います。こっちもさっさと相手をみつくろって・・っていうか引き取り手を見つけて降嫁させないと、一生独身で好き勝手やる事になりますよね。

養子が云々よりも、「女王の義務と権利と生き方」を書面にして出すべきではないでしょうか?

彬子女王のように大学の教授として京都に移住しているなら赤坂御用地はいらないでしょう。別宅も購入しているというし。さらに実の母に対する親不孝な行為及び言動でマイナス100点くらいですから、結婚していなくても自立しているという事で一時金なしで臣籍降下すべきと思います。

承子女王は週に何回お仕事しているのかわからないけど、相変わらず夜に飲み歩いているようで。そういう事が女王に許されるなら一般人と同じでしょ。

今、付き合っている彼氏とさっさとくっつきなさいと思いますけど。

瑤子女王だけは・・難聴を抱えているし社交的でもないようだし、信子妃と一緒なら宮家に残ってもいいのではないかと思いますが。

さて、「養子」というからには、誰かの養子になるんでしょう?

誰の養子になるんですか?

天皇?秋篠宮?常陸宮?三笠宮?高円宮?

それとも、お亡くなりになった秩父・高松を継ぐの?

宮家の養子になると言う事は、祭祀を受け継ぐという事で・・つまり墓を守って法事をやるって事です。

一番の候補は恐らく秋篠宮家でしょうけど、その際、悠仁殿下の弟にするのか、それとも兄になるのか?

常陸宮家の養子になったら、いきなり老人介護ですよね・・・

養子になっておいて宮邸に住まないのはおかしいし。

沢山の男系男子をみんな一律に皇籍復帰させたら宮邸が足りない。

ゆえにやっぱり大正天皇の家系には屋敷を明け渡して貰わないといけませんよね。

天皇の養子になっちゃったら、いきなり皇太子になるからそうはさせないでしょう。じゃあ、愛子内親王と結婚させて「婿」にして皇位継承権1位を狙ってますか?

全然現実的ではないでしょ

 

これだから歴史を知らない人は。

明治にいきなり久邇宮や山階宮などが宮家をたて、そこから次々別れて二世宮家が出来たんですけど、彼らは何をしたか?

留学ですよ!留学! 維新前までは法親王として寺に閉じ込められていたのが突然「宮様」になったものだから自由を謳歌したい!外国行きたい!と言い出す皇族が増えたんです。

で、明治天皇の財布からお金を出して貰ってイギリスやらドイツやらに留学して全然帰って来ないなんて皇族もいたほどです。

また、「こっちの宮家はいや」と言い出したり「養子をとる」と言い出したり、最後は「宮じゃなくていい」とか言い出したり宮内省を困らせた皇族もいるわけで。

当時はマスコミが発達していませんでしたから、国民にその事実が知れ渡る事はなかったけど、今ならスキャンダルです。

特に久邇宮朝融王・・・つまり香淳皇后のお兄さんの婚約解消話は昭和天皇が直々に怒ったという話がある程で。怒ったからって皇族位をはく奪されるわけでもないって所が嫌なんですが。

21世紀の皇室を担うという意味で、品行方正・質素倹約・義務に忠実な男系男子が果たして何人いるかって話ですよ。

それに今は天皇家が倫理的に許されない事ばかりやっているわけで、それなのに養子になる旧宮家の子孫に品行方正を求めるのは無理では?

また、その男系男子が誰と結婚するか。結婚できるか出来ないかもあるし、選ぶお妃候補が小和田家や正田家のようでは困るわけですから。

皇室結婚相談所」でも作って一定の範囲から選ぶという必要性も出てきます。

 

難題ばかりじゃないですか・・・どこがいい案なのよ。

「養子」なんてワンランク置くからダメなんでしょ。

この際は宮家をダイレクトに皇籍復帰させるべきです。

その際、「親王」なのか「王」なのか、親王の子はどうなるのか。つまり何世皇族として復帰させるかが大きな問題です。

・・・東京維新の会には言いたいです。

昭和に生まれて身分とか身位の違いを知らずに育った人が安易に「養子」なんて考えること自体がおかしいのです。

ゆえに上皇后や雅子皇后みたいに「身分を権力」と勘違いしてしまうんです。

もし、本当に皇室を存続させたいなら「親王」になる人とその配偶者に厳しい掟を課す必要があるでしょう。

 

 

 

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王朝を衰退させるもの 2

2022-04-07 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 

 皇后・皇太后・王妃が政治を担った時

④ 同族で殺し合いをした時

 

 オスマン帝国

宝塚で上演された「壮麗帝」はスレイマン1世という、オスマン帝国最大の権力者で領土を拡大した皇帝でした。

しかし衰退の芽はこの時から・・・それというのも、オスマン・トルコと言えば巨大なハーレムを想像しますよね。

ハーレムに入る女性は他国から連れてこられた奴隷の女達。

皇帝の寵愛を受けて皇子を産めば地位は向上しますが、あくまで身分は低いまま。側室で「スルタン」と呼ばれるまでには相当な功績がないとダメらしいのです。

スレイマン1世にはすでに皇后がいましたけど、奴隷のヒュッレムを側室にし、しかも後に正妻にしたものですから、元正妻の子、ヒュッレムの子と皇位継承で揉める羽目に。

奴隷を正室にするのは宮廷の掟破りでした。

この後、兄弟間による皇位争いが続くので皇位を継ぐと同時に弟達を全員殺すというしきたりまで生まれたのです。

なぜこうなったかと言えば、妃達が皇位継承問題に口出しをして自分に権力を集めようと熾烈な戦いを始めたからです。

やがて、アフメト2世の時代、一旦「弟殺し」は止めましたがその代わりに「鳥かご政策」と呼ばれる窓のない牢獄のような部屋に一生閉じ込めるという政策がとられるように。

それというのも皇帝の弟やその子、孫まで利用して自分が後ろ盾となり操ろうとする母后・王妃が乱立していたからです。

確実にオスマン帝国が衰退し始めたのはこのアフメト1世の正妃であったキョセムが在位僅かで亡くなった夫の代わりに帝国に第一の権力者として登場したからです。

キョセムはイスラムの長老達を背景に次々皇帝を立てて母后として権力を握ります。キョセムがいた時代にムスタファ1世・オスマン2世・ムラト4世・イブラヒム・メフメトと皇帝が変わりました。

このように母后が政治の頂点に立つことでどんどん皇帝が無能化していき、さらに継承者も減って滅んでしまうのです。

 

 清朝

清朝といえば西太后というくらい有名ですね。

彼女が咸豊帝の妃になった時から、清朝が滅びの一途をたどる事になります。

清朝は元々満州族、女真族の一族で一夫多妻制。

オスマン帝国のハーレムとよく似ていますが、違うのは妃達の地位がきっちり何段階にも分かれていることです。

一番上が皇后で後宮の経済から秩序まで全てを担いました。

その下に貴妃や貴人がいるのですが、これまたオスマン帝国と違ってそれらの女性達はみな実家を背負って入宮していることです。

ゆえに妃となったからには一日も早く皇子を産み、東宮にして自分は後の皇帝の母にならなければ生き残れないと考えるわけですね。

だから妃同士の争いも大きいし、その子供達も権力争いの犠牲になって死ぬ場合が多いのです。

皇后の地位は確固たるもので例え側室が生んだ子でも皇后がいる限りその方が「母」ですから、側室たちにすれば邪魔な存在ですね。

西太后の夫である咸豊帝は30歳で亡くなり、その弟達が皇位を狙う中でクーデターを起こし、自分の息子を皇位につけ同治帝とします。

睡蓮朝政を始める西太后ですが、同治帝は19歳の若さで梅毒による死去。後継ぎを残しませんでした。

そこで、西太后は妹が生んだ光緒帝を皇位につけ、権力を持ち続けます。

これが「蒼穹の昴」のお話。

光緒帝は清の近代化を進め、明治維新を成し遂げた日本を参考にしようとしますが、西太后は古い清朝のままを望み対立。

光緒帝は最も愛した珍妃を皇后に出来なかったばかりか義和団の乱で井戸に投げ入れられて殺されるという憂き目にあい、最後には西太后によって冷宮に幽閉されて亡くなります。

西太后が最後に後継者が指名したのがラスト・エンペラーの宣統帝ですが、彼は運命に翻弄され子を残す事もなく亡くなりました。その弟溥傑も娘しか恵まれず、清朝は滅んだのでした。

現在も満州族は存在しますし、が大っぴらに言えないようですね。

 

 朝鮮王朝

元々朝鮮王朝はイ・ソンゲという一人の女真族から始まりました。

それまでの高麗王朝とは民族が違うのです。

李氏朝鮮は中国王朝に隷属しましたので、身分も落ちますし文明も逆戻りするような発展の仕方をします。

李氏朝鮮になってから儒教が絶対的な「規律」になり身分の上下、年齢の上下、親子など、とにかく全てに「上下」が付きます。

そしてその後宮もまた清朝などとよく似ているのですが、要は王妃は後宮を束ねる人、王妃並びに妃達は実家をしょって立ち、実家の権力を増大させる為に頑張る存在で、両班達は常に2つ3つの派閥に分かれて権力争いをし、その力の差で王妃が廃されたり、皇子が殺されたりといった事が繰り返されて来ました。

そんな事ばかりやっていると、次第に後継者がすくなくなります。

24代目の憲宗で直系はすたれ、秩序崩壊、派閥争いは激化。

25代目哲宗はいわゆる反逆者で農民に落とされていたのを王に抜擢されたのですが、その裏には安東金氏という宮廷で絶大な権力を持っていた一族の太妃がいて、彼女のおかげで哲宗は王になれたので、彼は終生祖母に睡蓮朝政をゆるす羽目になりました。

安東金氏の派閥からようやく抜けて即位した高宗。

26代目の高宗は傍系のさらに傍系・・・といった家柄。

しかし、彼を牛耳ったのは父である大院君と妻の閔氏。

舅と嫁による激しい権力争いが始まり、日本が開国し日清戦争が始まって日本が勝利しても、朝鮮は立ち位置を中国の属国から離れようとせず、かと思えばロシアに逃げたり・・・閔氏に至っては自分の身の安全を保障する代わりにロシアに領土の一部を明け渡そうとさえしました。

大院君は日本を利用し、自分の手は汚さずに閔氏を殺しました。

高宗はハーグ密使事件を機に退位を迫られ、日本に併合された朝鮮は純宗が後を継ぎます。

けれど彼はどうもヒ素を盛られていたらしいです。

弟の李垠殿下は日本から妃を貰い、長男の晋が生まれた時に里帰りしますが、ここで晋が突然死してしまいます。その後、玖が生まれました。

彼は日本の皇族と同等の扱いで終戦を迎え、アメリカで市民権を取得。

2006年に日本の李王家邸で心臓麻痺で死去。

21世紀になって、傍系のさらに傍系達が継承争いをしているようですが・・・あまり意味がないですよね。

その他、一族皆殺しで滅びたネパール王室がありますね。これはれっきとした殺人事件ですが、犯人は未だに不明。

この流れを見ていくと、22世紀までに滅びそうな王室・・・それはタイじゃないかなと思います。

現ラーマ10世、ワチラロンコン国王は私的には発達障害を持って生まれたのではないかと思います。

数々の奇行が国際的に評判を落としていますし、何度も結婚しては妃の一族を追放、自分はタイではなくドイツに住むという身勝手ぶり。

タイでは近年学生たちによる「王制廃止」運動が起きましたが、見事に潰されてしまいました。

しかし、次代のラーマ11世となる王子もまたほとんどドイツにいるようですしね。

 

日本に置き換えてみましょう。

日本の皇室と世界の王室では役割や意義が違います。

だから、これまで滅んだ王朝の定義が全て当てはまるわけではないのですが、しかし、先例に学び滅亡を阻止する手立てを考える事は大切な事ではないでしょうか。

先に、江戸末期、孝明天皇の後をついだ明治天皇は一人っ子ですぐに後継ぎが必要でした。しかし、昭憲皇太后との間に子は出来ず、側室達の子供も次々夭折します。

ただ一人何とかぎりぎり助かったのが大正天皇ですが、彼は在位が短かったわりに4人の男子に恵まれ(それでも全部皇后腹)皇室の危機を救いました。

続いて昭和天皇は、側室制度を正式に廃止する代わりに、男子が生まれるまで子をなし続けた方です。そして生まれたのが平成の天皇です。

①の継承者がいなくなる・・という危機を乗り越え、②の革命にあたる明治維新や戦後のGHQ政策でも生き残った稀有な存在です。

その背景には近代の明治・大正・昭和の天皇皇后が必死に努力して「国の父母」としての存在感を示した事にあると思います。

中国や北朝鮮などがやっている愛国教育だけでは皇室への尊崇を維持する事は出来なかったでしょう。

 

しかし、皇室に予想外の事が起きます。

それが③と④です。

③に当たるのが、美智子皇后と雅子皇后2代による「陰の天皇」としての権力を振るったことです。

正田美智子は旧皇族でも旧華族でもない、ブルジョワジーから皇太子妃となり皇后となりました。

彼女の「家柄や血筋より学歴、成績」「物申す嫁は新しい時代の鑑」というプロパガンダが見事に成功し、日本は一大教育ママ製造工場になりました。

また、家制度が無くなった事で夫婦1単位が家族になり、「嫁」意識がなくなると同時に家族の繋がりが希薄になっていきました。

美智子妃は常に「悲劇のヒロイン」「庶民的な妃」をマスコミを通してイメージ作りをし、昭和の末期には「香淳皇后から虐められた」とはっきり言わせる程でした。

その陰で次々皇室のしきたりを変えていき、平成となってからは雑誌の見出しを飾る美智子さまの文字は、皇室外交、政治問題、継承問題にまで波及。

一度だけクーデターが起きたけれど、美智子皇后の「悲劇のヒロイン」ぶりに見事に国民は騙されて勝利しました。

美智子皇后の最大の罪は

 皇太子徳仁に小和田雅子を許したこと

 秋篠宮家に産児制限をかけたこと

です。平成も中盤になっていくと、皇室内の価値観すら「美智子さま」に合わせて世間の常識からどんどん離れていき、皇室外交の場でもその非常識は「常識」としてまかり通ってしまう始末でした。

皇太子の役割、天皇役割の一つに「後継ぎを残す」ことが最も重要であったのに、美智子皇后はそれよりも「学歴のある妃」を持つ息子の方がよいと考えたのでした。

結果、皇太子夫妻には8年もの間、子が生まれずやっと内親王が生まれたのですが、この内親王が今や皇位継承の火種を作ることに。

皇太子の心に配慮したのか、美智子皇后は秋篠宮家に産児制限をかけ、やっと許したのは紀子妃が40になる頃。

紀子妃は致命的に滅びの一途をたどる皇室を救いあげるかのように悠仁親王を産みますが、そのような快挙も皇后にとっては「自分の存在を脅かす者」として警戒するばかり。

そのような美智子皇后がなにゆえに天皇の退位に賛同したか。

仮に本当に「生前退位」を天皇が望んでも美智子皇后が反対したら実現しなかったのではないかと思われます。

むしろ後ろからすすめたのは皇后ではなかったかと。

それはもっとも大事な皇太子が天皇になる姿を見たかったことが一番だったでしょう。

 

雅子皇后は皇太子妃になった時から皇室に適応しようとせず、かといって自分の欠点を受け入れる事も出来ず、「嘘」の自分を作り上げました。

つまり「学歴・学力共にご優秀で総理大臣にもなれかたもしれない女性」といういつわりの姿で、そんな女性を妻に出来た皇太子は感謝しろといわんばかりの態度でした。

生まれた内親王に関しても、自分の子の現実を受け入れることが出来ずに「偏差値72で超ご優秀な」という枕詞をつけマスコミを味方に壮大な「愛子天皇」計画をぶち上げます。

皇位継承権は秋篠宮と悠仁親王にしかないにも関わらず、「女性だからって天皇になれないのは不公平」だと皇位継承とジェンダー問題をごっちゃにして、国民を扇動しています。

おまけに雅子皇后には外戚の小和田恒がくっついてコントロールしていますので始末が悪い。

清朝末期、朝鮮王朝末期も真っ青の秩序と伝統が破綻している・・それが今の皇室です。

そして天皇が自分の誕生日で語ったように「壬申の乱」を引き起こして秋篠宮家を潰そうとしている。

 

天皇家の役割は先の「継承」もありますが、さらに「国家鎮護」も大きな存在理由なのです。

あくまで天皇が祈るべきは日本という国の平和と安定であって、個人の国民ではないのです。

それを忘れて「国民に心を寄せる」などと言い募る天皇はもはや庶民と同じでただの人間。

そうなると皇室の行く末も危ないでしょう。

無事に悠仁親王に継承されれば救いの道もあるでしょうが・・・・

 

要は「王朝」の滅ぶ理由は「自己の利益ばかり追求する王族の存在」ということに尽きるのではないでしょうか。

 

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王朝を衰退させるもの 1

2022-04-06 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

私の趣味は宝塚を見る事ですが、他に海外ドラマを見ることも趣味の一つ。

韓ドラ・華流・・・そしてトルコやロシアのドラマまで色々見てます。

勿論宝塚と関係のある王朝の話は大好き。

という事で堅苦しくないお話を聞いてほしいのですが。

絶対君主制からいわゆる産業革命を経て戦争の形が変わるにつれて、色々な国の王室が消えていきました。

国王より権力を持つ大統領が登場し、王室は飾り同然となりやがて衰退していく。

そうはいっても、イギリスのように多々スキャンダルはあれど今もってウインザー王朝が続いている国もあります。

ウインザー朝は恐らくあと2代は安泰でしょうね。

だけど、オランダやスペインなどはちょっとどっちに転ぶかわからない部分もあり。

「君臨すれども統治せず」と紙一重なのは「王室なき国」という事で、いついかなる時に「王室を廃止せよ」と国民が動くかわからない。

ゆえに、あれこれチャリティなどで顔を売ったり人気を博したりする。

今の所、エリザベス女王ならびにケンブリッジ公爵のおかげで王朝は続くだろうと思いますが、少しおバカな王様がいるオランダでは王位継承権1位の姫に尻拭いをさせる始末。

歴史を振り返り、王朝が衰退する原因は何かを考え、今の令和皇室に思いをはせてみましょう。

 王朝を衰退させるもの

① 後継者がいなくなる

いわば自然消滅ですけど。王家を名乗るくらいですから一族は沢山いた筈でそれが代を重ねるうちにどんどん先細っていき、直系が消えて傍系がついでもついに・・・というパターンです。

 スペイン・ハプスブルグ家

代表的な例です。スペインハプスブルク家は度重なる血族結婚によって奇形児が生まれるようになり、男子の出生も減り生まれながらに身体や精神に問題がある国王が続き、やがて後継ぎを残すことが出来なくなって断絶。

そしてスペイン・ブルボン朝が登場します。

 

 バイエルン王家

バイエルン王家というのは、ある意味「呪われた血筋」の家系です。

かの有名なヴィッテルスバッハ家の家系で精神疾患が多いのです。

オーストリア皇后エリザベートもそうですし、その息子であるルドルフもちょっと変わっていたらしい。

でも最も有名なのはやっぱりルードヴィッヒ2世ですよね。

若い頃は恐ろしくハンサムだったけど、王国を継いでからは城作りに夢中。

結婚もせず水死という最期を辿ります。

無能な王のおかげでバイエルンはドイツの1地方になってしまいました。

現在、ルードヴィッヒの弟から始まり現代に至っては傍系の傍系ただ一人残るのみのようです。

 日本にも一時期、天皇家において継承者がいなくなりそうになった時代がありました。それは幕末。天皇家には経済的な余裕がない為に天皇の子は男子は長子以下全て仏門に入り還俗を許されませんでした。

その結果、幕末の孝明天皇 → 明治天皇 → 大正天皇となるのですが、本当に綱渡りで奇跡的に直系が続いているのです。

 

② 革命による衰退

 ブルボン王朝

言わずと知れたフランス革命によって王朝が滅んだケースです。以後、復活しますがさらに革命が起きて共和制に移行します。

でもルイ14世の時代がフランス王家の絶頂ならその衰退はルイ15世の時に始まっており、浪費による支出のしわ寄せが16世にまで波及したと言えるでしょう。

またルイ14世の時に厳しく宮廷の儀式が決められ、それに従う事は莫大な費用がかかりました。そうした事がブルボン家の衰退を招いたと思います。

 ロマノフ王朝

これも革命によって、ニコライ2世一家皆殺しにより絶えました。

ロマノフ家の衰退の根はニコライ二世がアレクサンドラと結婚した事から始まります。イギリス王室に根を持つ血友病が皇室に影を落とし、結果的に政治どころではなくなったわけですね。

 

 イラン皇室

これは私も覚えていますが、1970年代、突如イスラム教のホメイニ師が登場して皇帝一家は亡命を余儀なくされ、今に至っています。

皇帝はイランの近代化に尽力したようですが格差が起きて不満がたまり、それを扇動したホメイニの勝利と言ったところでしょうか。

しかし、今のイランもまた経済格差は大きなもので1970年代よりギリギリと庶民をイスラムの力で締め付ける一方、お金持ちは隠れて好き放題をするという現代。どちらが幸せだったのかと思いますね。

 

 ハプスブルク家

ハプスブルク家の衰退の根は国民から慕われたフランツ・ヨーゼフ2世がヴィッテルスバッハ家の血を持つエリザベートと結婚した為でしょう。

皇室の伝統を守ろうとする皇帝、破ってばかりの皇后。そしてその息子であるルドルフ皇太子は先見の明を持ちながらも父と衝突してばかりで、ベルギー王女との間には娘一人を残しマイヤーリンクで死にます。

女帝を認めていなかった皇帝は孫のエリザベートに皇位継承権を与えませんでした。代わりに大公になったのが甥のフランツ・フェルディナンド。しかし、彼は認められない貴賤結婚をしており子供達には皇位継承権がありませんでした。フランツ・フェルディナンド大公夫妻はサラエボで暗殺され、第一次世界大戦に突入。敗戦でオーストリア帝国は消えてしまいます。

フランツ・ヨーゼフ1世の後を継いだのはカール1世。フランツ・フェルディナンド大公の弟の子で、最後の皇帝です。

現在もハプスブルク家の血筋は続いています。

 

 日本では武家が政権を取っても皇室をなくそうとはしませんでした。明治維新になってからは皇室に日の光を当てました。戦争にまけても皇室はなくなりませんでした。まさに稀有な万世一系の歴史を持っています。

 

あの時、あの人があの人と結婚しなかったら・・・とか、そんな事を思わせるものもありますよね。

 

 

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇皇后が抱えるコンプレックス

2022-03-28 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

最近、本当に荒らしが多くて。

それだけ、筑附と記者会見のバッティングが悪影響だったのだろうと思います。宮内庁長官の「私のミス」ですら許せない事なんでしょうね。

ところで陛下から悠仁殿下への言葉って・・・どこでそんな報道が?

聞いた事ありませんって。

人は誰でもコンプレックスを持っています。

持っていない人などいません。

要は、生きる道に置いてそれをどう克服し、昇華していくかが問題なのです。

コンプレックスとプライドのせめぎ合いとでもいうんでしょうか。

また、理想の自分になれない、本当はすごい自分を理解してくれないという思いはしばしば他者への罰として表現される事があります。

ひきこもり、家庭内暴力、他罰的な言葉や行動・・全部、他人から見ると、己をわかってないとか、自分の欠点に向き合ってないとか、あるいは前向きに生きられないとか言われますが、当の本人は最高に頑張っているつもりなわけで、なのにまわりがちやほやしてくれないと沸点に達してしまうみたいな感じでしょうかね。

 

今上夫妻には、生まれながらに内面に傷を負っているというか、その傷を隠したままちやほやした結果、「自己課題評価症候群」に陥ってしまい、少しでも自分以上のものが現れると叩きのめしたくなる衝動があると思います。

一種の病気というか、これも発達障害なのかなと・・・・

 

 今上の場合

徳仁親王は、皇太子夫妻結婚1年目に生まれると言う非常に幸運な人生から始まりました。

生まれながらに「未来の天皇」になる事が確約された子です。

また美智子妃にとっては地位をゆるぎないものにする絶対的な存在。

しかし、この徳仁親王は生まれた時にちょっと酸素不足に陥ってしまったのです。

それが影響したのかどうか・・・スポック博士の育児書片手に奮闘する美智子妃が思い浮かびます。

外遊が多かった頃、「ナルちゃん憲法」なるものを作り、見る人によって育て方が違わない様に細かく指示を出しました。

今考えると「そこまで指示する?」という程細々していて、守るのが結構大変だったろうと思うのですが、長男でちょっとマイペースな徳仁親王を護る為に必要だったのでしょう。

浩宮は蝶よ花よと育てられた親王です。

皇位継承者の誕生に悪戦苦闘した近代皇室にあって、早々にその悩みを解消してくれた存在だったからです。

弟が出来てもその存在意義は変わりませんでした。

でも、恐らく皇太子夫妻は徳仁親王に一抹の不安を抱えていたのではないかと思います。

知能的な事や感情的なことで期待通りに育ってない事に非常に不満を抱えていたのではないかと思います。

弟の礼宮が「美智子妃から生まれてない」という噂が散々流布された背景には、利発で研究好きな礼宮へのマイナス印象を受け付けるという目的があったのかもしれません。

小さい頃ならともかく、礼宮が成長するにつけ感情の豊かさや物覚えのよさはすぐにわかったろうと思いますし、紀宮もまたそうであったのなら、「皇位継承権のトップ」にいる浩宮が一番「愚」になってしまう。

歴史的に見ると、こういう時の母親は「賢い弟」を溺愛するか、愚鈍な兄の為に邪魔な弟達を排除するかのどちらかです。

皇太子夫妻は後者を選んだようで、当時の週刊誌には

浩宮は将来天皇という重い立場になるから甘くし、礼宮は将来は自由な宮家になるから厳しくそだてる」というおかしな理論を展開し、何度も皇室番組でそれは取り上げられました。

普通は「将来重い立場になるからこそ厳しく」だと本当は国民も思っていた筈なんですけど、国民的人気ナンバーワンの美智子妃の考えですから、誰も何もいいませんでした。

皇太子はどうかというと、この人も「やっと生まれた皇太子さま」としてまさしく蝶よ花よと育てられた口ですし、厳しくされた分、子供には甘くしたいとでも思ったんじゃないでしょうかね。

浩宮の空気の読めなさというのは大きくなるにつれて明らかになっていき、その度に「礼宮の実の母は・・・」という都市伝説が息を吹き返す。そして雑誌には「ご優秀な浩宮さま、やんちゃな礼宮さま」という言葉が躍ったわけです。

浩宮自体、うすうす感じていたでしょう。

弟に背丈を越され、彼女を越され、学歴まで越され・・・それでも独身の間は、マスコミが「お妃は誰に?」と騒いで持ち上げてくれたし、柏原芳恵が好きと言ってもブルック・シールズのファンだと言っても好意的に受け取られたし、イギリスに留学した時はほとんど遊んでいるエピソードしかないけど、わざわざそこに皇太子夫妻がかけつけて花を持たせ、留学の成果として「テムズとともに」を出して彼的には面白いエピソード満載のつもりだったでしょう。

しかし、もしこんな本を悠仁親王が書いたら「国民の税金でわざわざオックスフォードまで何をしに行ったのだ?」と言われるようなものです。

 

一方の礼宮は学習院の大学こそ政治学科でしたが、大学院に入る時に自分の研究を本格化させやがて開花させていきます。

「テムズ川の交通史」が研究対象なのか?と思われた浩宮が「交通史」から離れ、川からも離れ「水」そのものが研究対象だと言い出し、小学生並のスピーチをするのです。

昭和時代は、両親の助け、マスコミの助けもあり学友にも恵まれ「皇族」らしい生活を送っていた浩宮ですが、弟へのコンプレックスはたまる一方だったのでは?と思います。

礼宮は大学で早々に川嶋紀子嬢と出会い、恋愛してプロポーズして昭和天皇にも喜ばれ、おまけに紀子嬢は現代まれにみる可愛い、そして品のいいお嬢さんだったから。

紀子ちゃんフィーバーに恐れをなしたのは浩宮だけでなく、当時の天皇皇后、そして高円宮家でしょうか。

結婚するとすぐに眞子内親王に恵まれたし、紀子妃はライフワークとして手話があったし、秩父宮妃のお気に入りでこれまた早々に結核予防会の総裁職を務め、即位の大礼には筆頭宮家の妃として先頭を歩きました。

皇太子となった浩宮のプライドは黄丹の袍に袖を通した時くらいでは?

なぜ自分は背が低いのか?

なぜ自分は髪の毛が薄いのか?

なぜ自分は女性からあまり好かれないのか?

なぜ自分は勉強があまり得意じゃないのか?

こんなコンプレックスを持つ兄が考える事は一つ。「邪魔な弟を排除」です。

今年の誕生日会見で「壬申の乱」に言及した時は「本音かな」と思いましたよ。

天智天皇は正室との間に子供が出来ず、宮廷での信頼度も低かった。弟に意地悪して額田王をとってみせたけど、所詮、蘇我腹の正室から男子が生まれている弟にはかなわないって事です。

悠仁親王の姿にかつての礼宮を見てしまったのなら、そりゃあ憎しみも募るなあと。

秋篠宮や悠仁親王を見るにつけ、自分の凡庸さを実感する事になるわけですからね。

殊更に悠仁親王の文才にケチをつけるのは、同じ文系なのに自分は一度も賞を取った事ないし、称賛されたこともないから。

筑附入学にケチをつけるのも、自分は結果的に学習院の外には飛び出せなかったのに弟一家はあっさりと飛び越えてしまったという事です。

歴史が好きだけど論文書くほどの腕はなく、母君のように歌も詠めず、理系の事はちんぷんかんぷん。

そんな彼のコンプレックスを刺激しつつ助け船を出したのが小和田恒だったわけですね。

小和田氏のおかげで「水の総裁」を得て、「水の研究」と肩書に枕詞がつくという経験をして、もうそういう快感から逃れられないのかもしれません。

60をとうに超えた今上には今更己を振り返り「所詮、自分は結婚生活も天皇としての仕事も何もかも自分一人で解決できない愚鈍な人間だった」と認めるわけにはいかないし、そんな頭もないでしょうから。

自分なきあと娘の事ばかりを心配する秀吉状態なんでしょうね。

だったら本当は秋篠宮家を頼るべきなのに、それすら出来ない・・秀吉より愚かだなと。

 

 皇后の場合

小和田雅子さんは3人姉妹の長女。

妹二人は双子でした。

もし、週刊誌のいうように、生まれた時から福田元総理に「将来、皇太子妃に」と言われていたのなら、それこそ「超優秀」でないといけない娘でした。

しかし、実際の雅子さんは妹達よりお勉強がちょっと出来ない子で、何かあるとすぐに逃げ出す、親に始末してもらうという人でした。

だけど外交官の娘としてのプライドだけは一人前でお手伝いさんに上から目線で怒鳴ったり、外務省時代も食堂のおばさんに「(時間外だけど)珈琲くらいだせるでしょ!」と怒鳴った経験があります。

趣味はスキーとか野球選手のおっかけくらいでいわゆるミーハーで、おおよそ芸術や教養とは無縁の生活を送っていました。

田園調布雙葉からアメリカの高校に留学して、そこからゲタをはかせてもらってラドクリフ・・のちのハーバードに入り(父が教授)そしてマスコミに大きく取り上げられた「外務試験に合格」

本当は父が外交官ならその娘は大抵合格するといわれていたけど、とにかく週刊誌を使って「超ご優秀」と持ち上げられた。

確かに学歴は立派なものかもしれないけど、社交下手でアメリカで友人を作れず、壁の花になっていたのは事実で、外務省に入って国費留学してオックスフォードに行ったのはいいけど、ただ一人修士論文を出せなかった人。

ハーバード → 東大 → オックスフォードと渡り歩いたけど彼女にとって特別な研究目的もなく、暇があれば海外旅行してスキーしてとバブル真っ盛りの普通の女性でした。

結婚する前から外務省北米二課ではお荷物状態で、その理由は完璧に社交下手。日本語がうまく操れないから相手を思いやったり、気遣ったり出来ないんですね。

婚約発表後、せっかく与えられた「通訳」の花道も、途中で投げ出して泣いて去るという事件を起こし。

でもプライドだけは超一流でセレブ生活に憧れるのも超一人前だったから、浩宮の誘いには断らずにしょっちゅう会って、「好きでもないのに何で会うの?」と聞かれれば「好奇心」と答える。

つまり雅子さんにとって一番居心地がよかったのは「皇太子のお気に入り」

「皇太子妃候補の筆頭」である自分で、本当に妃になる事ではなかったんですよね。

そういえば婚約会見の言葉も「棒読み」で、始終下を向いて原稿を丸暗記していました。それも全然何を言っているのかわからない文章。

原稿ですらそうなんですから、アドリブになると途端に頭がパニックになるんでしょう。

一語文で「好き」「嫌い」「うん」「そう」とかは言えるけど、それをうまく繋ぎ合わせて文章にしたり、敬語や謙譲語を使っていくというのが全然ダメなんです。

結婚早々、学習院の同窓会に行ってすでに壁の花状態。会話が出来ずにやがてそういうものから去っていく。

東京サミットの晩さん会でも紀子妃が海外要人に囲まれて会話を楽しむ中、一人どこかの国の夫婦に論戦しかけて撃沈し、あとは独りぼっちで歩く姿が残っていますし、トランプ大統領が来た時も天皇とトランプ夫妻の会話に入って行けずに、紀子妃に助けられるシーンがありました。

相手をたてるとか、空気を読んでわきまえることが出来ない雅子さんは次第に軋轢を生みます。

そして愛子内親王の誕生です。

本当は男子を産むはずだった・・・でもそうでなかった・・・小和田氏は幻滅している。

小さい頃から父親の助けなしには生きていけない雅子さん。

社交が苦手、優秀と言われること自体にコンプレックスを感じていたろうに、誰も本当の彼女を見ずに理想の姿ばかり追い求めている。

趣味もない、好きな研究もない、娘はごゆっくり。

なのに秋篠宮家は3人の子に恵まれ、それぞれ個性的で皇族として違和感なく生きている。

それに比べて、自分の方は「よきにはからえ」夫と、びくびくしている側近、全然理想通りに育たなかった娘。

 

そのうち彼女は「自分が主役の時はうまくやれる」事に気づきます。

自分がど真ん中にいて主役なら何をどう言ってもマスコミは持ち上げるし、自分がルールになるのだという事。

皇后になってからはまさに開き直ってこの手に出たでしょう。

ドレスがテーラードでおかしい?私がルールよ。馬は嫌だから車に乗る。

リモートすればどこにも行かずに済む。

元々意地悪な性格の雅子さんは、他人に嫌がらせすることですっきりするのもわかりきっている。

そういう時だけコンプレックスが和らぐ。

順番が違う」「色被りした」「学習院以外に行きやがって。今に見てろ」状態ですよね。眞子様の事についてはまさしく「ざまあみろ」でしょう。

うちの愛子の方が偉いのよ」とマウントとることで生きがいを感じる。

もうすぐ還暦のこの人に己を振り返り「自分は本当に他人を傷つけてきてしまった。申し訳ない」とか「本当は何も出来ない私」を認めろといっても無理ですよね。

 

秋篠宮家はなんだかんだ言っても天皇家からするとコンプレックスを刺激する存在ですし、眞子様を潰しただけでは飽き足らないのでしょう。

むしろ自由を手に入れた眞子様に嫉妬しているかもしれません。

 

コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

男系継承を確固たる基軸に安定的な皇位継承の提言5

2022-02-15 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

ここまで皇室の現状や問題点、皇室典範の欠点などを書いてきましたが、21世紀の皇室がここまで権威を失墜し、また陰で皇族の思うがままにやれるような世界になってしまった理由は、日本の主権である国民にきちんと「天皇とは何か」という事を歴史を追って教えてこなかったからです。

戦前は子供の頃から歴代の天皇の名前を覚え、教育勅語を覚え、「天皇陛下は日本でもっとも偉い人」と習って来ました。

かといって、実際に国を動かしていたのは政治家であり、政治の具現化、あるいは正当性を示す為に天皇が利用されたと言えるでしょう。

けれど、国民にとっての天皇は「国の父」である事に代わりはなく、また天皇もそうふるまって来たので戦後の混乱期も皇室が廃止される事無く、国民は巡幸を喜んで受け入れたのだと思います。

 

では天皇とは古代からどんな存在だったのでしょうか。

 古代~天武天皇まで

奈良県の纏向という所にヤマトの民が一つの集合体を作り、海外との交易も行っていた所に、大陸から海を渡って来たのが人達がいました。

彼らは「鉄」の流通を巡って熾烈な争いを繰り広げました。

元々そこにいた人達、後から来た人達、日本海側にいた人達。

当時は中国も朝鮮半島も似たようなものでした。

しかし、ヤマトは争いをやめます。

「天皇」という全ての民の「象徴」を作り上げ、同じ「神」をそして神の子孫として祀ることで統一を計ったのです。

天皇は「神」を祀り、国の安泰を祈る存在。

そして天皇の下には蘇我氏や物部氏という「政治」を行う者らがあり、「天皇による政治」としての形を取りながら実際は蘇我氏や物部氏に政治をゆだねていたのです。

乙巳の変により、天智天皇の「皇族に政治を取り戻す」運動があり、天武天皇により「皇族による政治」が実現しました。

 持統天皇~称徳天皇

「皇親政治」を行ったものの志半ばで亡くなったのが天武天皇。それまで「オオキミ」「スメラミコト」と呼ばれていたが天武の時に「てんのう」という呼び名になりました。

天武天皇の二人の息子、大津皇子と草壁皇子の跡目争いには母の持統天皇が深くかかわり、結果的に大津は自害。しかし草壁も亡くなり、母である持統天皇が即位。

しかし、この女帝誕生にみなが喜んだわけではありません。

持統は批判をかわす為に高市皇子を太政大臣に任命。度々、吉野を行啓したりしてアピール。

多分この頃、庶民側からすると「天皇さま」はあっちこっちに寺を建立したりする人程度の認識ではなかったかと。

持統時代には、養老律令が発令され、皇族の範囲が決められました。

初代から5世孫までは皇族、あとは臣籍降下します。

持統の後をついだ文武天皇は、父の草壁が皇位についておらず身位からして「王」とみられますが、生まれた時から「皇子」で日本で初めて立太子した人です。

そしてこの頃より強力に権力を発揮し始めたのが藤原氏。

文武天皇には蘇我系の妃が二人いましたが、どちらも藤原氏によって降格されられ、皇子達の身分も取り上げられました。

藤原氏は宮子という娘を文武の後宮に入れ、夫人としました。

そこから生まれたのが聖武天皇です。

文武天皇も早く亡くなり、聖武天皇が成人するまで、元明・元正と2代の女帝が続きました。

この2代を「女系」とみる向きもありますが、元明天皇は天智天皇の娘、元正天皇は天武天皇の孫、立派な男系女子で、元明は未亡人、元正は独身でした。

藤原氏としては何が何でも聖武天皇を天皇にしたい。

その為には宮子より身分が上の妃は全て排除し、その子達も排除し、女帝を立てることで他の皇子に皇位を継がせないようにしたのでしょう。

聖武天皇はいわば藤原氏の「傀儡」でした。

それまで「皇后」には皇族出身の女性以外はなれなかったのに、民間から初の「皇后」に藤原家の光明子がなったのです。

光明皇后に関しても反対の皇族は多かったけど、いわゆる「優秀」「慈愛」伝説を流して回りの口をふさぎ、さらに皇后専門の部署紫微中台」を作り、藤原仲麻呂を長官として権力を振るいました。

聖武天皇には安積皇子という息子がいたのですが、天皇が行啓中に突如亡くなり、跡取りは光明皇后が生んだ阿倍内親王が孝謙天皇として即位しました。

恐らくこの頃は、上皇となった聖武が大仏を作るというので予算を使いまくり、人手を使いまくり、庶民からはあまりよく思われていなかったのではないでしょうか。

光明皇后&孝謙天皇は藤原仲麻呂という「男」を間に皇位継承者をあっちからこっちに変える・・というような事をやり、結果的にクーデターが発覚、幾人もの皇族が殺されたり、庶民に落とされたりしました。

この頃、自ら臣籍降下をする皇族が後を絶たず・・・というのも、下手に皇族でいると「謀反」の疑いをかけられて殺される危険性があったんですね。

やがて、孝謙天皇は淳仁天皇天皇に位を譲り、道鏡と恋に落ちます。

それを淳仁天皇に意見されたら怒って島流しにし、自ら重祚し称徳天皇となります。

ここから暴走が始まり、道鏡を天皇にしたいと言い出し、それは和気清麻呂によってぎりぎり防いだのですが、宮中ではあっちこっちでクーデターや謀反が起こり、大変な状態でした。

「女帝はもうこりごり」というのが政府の意見だったでしょう。

 

 平安~鎌倉

平安時代は藤原氏全盛期で後宮では藤原氏の権力争いが繰り広げられました。

女性達の身分も「女御」の上が「皇后」だったのに、天皇の意思で「中宮」という別枠の立場が設けられるなど、天皇は天皇で密かに藤原氏への対抗心を燃やしていたのかもしれません。

皇族はどんどん増えたので「親王宣下」「内親王宣下」をされなければ皇族にはなれませんでした。

やがて武士が台頭し、鎌倉時代になると天皇家は一気に貧しくなります。

即位の礼も出来ない程貧乏だった天皇もいます。

もはや「天皇」は権威付けでしかない存在になりました。

 室町~江戸時代

政治が武士に移ってから「天皇」「皇族」は恐ろしく遠い存在になりました。

京都やその周辺にいる人はともかく、関東以北、九州などからしたら「天皇って誰?」状態でしょう。

それでも細々と時の権力者である足利氏などに頼って権威の裏付けとなり、面目を保っていたと思います。

後醍醐天皇が「建武の新政」を行うも夢物語と化し、戦国時代に入るともはや京都はズタボロ状態。

さらに悪いことに徳川家が権力を握ると「禁中公家諸法度」で天皇と皇族から権威すらはぎ取って京都に閉じ込めてしまいます。

徳川家康と仲が悪かった後水尾天皇は紫衣事件や、春日局の参内など皇室のしきたりと無残にも破る徳川家に怒り、娘の明正天皇に譲位。

明正天皇は母を徳川和子とする女帝。

しかし女帝は独身を貫く必要があり、また和子が生んだ皇子も亡くなり、天皇家に徳川の血は残りませんでした。

 

 幕末~戦前

幕末になると、天皇が幕府側や尊王派に利用され、利用する時代になります。

江戸時代は皇族の数が本当に減ってしまいました。

鎌倉期にも皇族が減ったので「永世宮家」を作ったのですが応仁の乱などで全て滅び、江戸時代には「世襲宮家」として3つ、伏見・桂・有栖川という3つの宮家が出来たのですが、当時は天皇の子は長子以外全て出家させられ、皇族に戻る事はなく、より皇位継承者が少なくなったため、新井白石の意向で「閑院宮」家が作られました。

伏見・桂・有栖川・閑院は世襲宮家と呼ばれ、その長子はすぐに親王宣下を受け、断絶しそうなときは天皇の子が養子に入るしきたりでした。

それでも何度も断絶しかかったのが桂宮家です。

幕末、幕府や尊王派は出家していた天皇の子供達を「還俗させるから」と言って味方にう引き入れ、明治維新後は、「久邇宮家」「山階宮家」が創設され、さらに断絶した有栖川と桂を除いた伏見、閑院から分家などして最終的に11宮家まで増えました。

 

時の権力者である伊藤博文らは、自分達が学んでこなかった皇室の歴史を振り返り、その経緯を調べ、女帝が立つときの政治状況などを踏まえ「皇位は男系男子」とすると決めたのです。

勿論、明治天皇も負けてはいません。

正式な皇室典範が出来上がるまでに宮家をどんどん増やす事を了承し、そして伊藤の意向を聞いて、皇族や華族の序列、義務などを受け入れました。

さらに、生活を洋風にする事も受け入れ、ランプやセントラルヒーティングに嫌々ながら従い、パンも食べました。

明治時代に大きく変わったのは後宮です。

江戸時代には天皇の妃はおおむね「女御」で、「皇后」になる事はまれでした。というかそういう名称を使う機会もなかったのです。

孝明天皇の妃、九条夙子は女御→准后→皇太后→太皇太后となりました。

それまで後宮の女性が表に出ることはなかったのですが、西洋では「夫婦同伴」が基本なので、様々な公務に明治天皇と昭憲皇太后は揃って出席。

さらに江戸時代までの制度を一新し、女官制度が出来ました。

また、服装も「洋装令」によって冠婚葬祭全てに洋装を用いる事が決められました。

(それを破ったのは美智子妃。美智子皇后です)

昭憲皇太后は、「大津事件」の時、自ら筆をとってロマノフ家に詫びを入れたり見舞いを送ったりと細々と気を遣い、さらに赤十字運動に啓発されて日本赤十字設立に寄与し、国際赤十字に10万円を寄付。国際赤十字委員会はこれを元に「昭憲皇太后基金」を設立。

華族女学校やお茶の水などの設立にも寄与。

さらに、国威発揚の為、当時の日本の主産業である「養蚕」を御用地内に設け自ら蚕を育てた。

勉強熱心で「進講」を受けるのも好きだったようです。

明治天皇が始めた「菊見の会」は現在の園遊会。

つまり、今の皇室の儀式のほとんどが明治時代に出来上がり、それを継承して来たのです。

皇后の主な仕事の後ろには偉大な思想と女性の地位向上目的があったのです。

それを名目だけ受け継いでやったふりをしているのが現在の皇后です。

 

つまり、国民の中で天皇は常に「神様を祀る人」「祈る人」「仏像を作る人」そして明治なってから改めて「現人神」という思想が生まれたのです。

 

戦後、天皇が人間宣言をしてから、天皇が存在する意義に迷い、何をしたらいいのかわからない時代に突入。

それが昭和30年代以降です。

昭和天皇も香淳皇后もそこにいらっしゃるだけで潜在的に頭を下げてしまう程のカリスマ性がありましたが、皇太子は最初から人間でしかも平民の娘を妃としました。

「元皇族」「元華族」の権威のない妃を持った皇太子はひたすら「マイホーム」を演じることで「人気取り」に走り、皇太子妃の美貌は大いに役に立ったわけです。

平成時代は「被災地訪問」と「深い反省のもと慰霊の旅」をする事で目に見える「祈りの天皇皇后」を装ってきたわけですが、令和になるとそれすらなくなり、もう何をどうしたらいいのかわからない状態なのです。

 

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする