ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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男系継承を確固たる基軸に安定的な皇位継承の提言4

2022-02-10 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 皇室典範の改正について

現在の皇室典範には

・皇族の範囲

・皇族の結婚の規定

・皇族の臣籍降下の規定

・皇族の義務と権利

・皇族に対する罰則規定

などが一切記されていません。

 皇統は男系男子によって継がれる

 天皇の子・孫・曾孫・・・直系優先

 皇族は皇室会議を経て臣籍降下出来る

 天皇は退位出来ない

 皇位は天皇が崩じた時に継承

 皇族女子は婚姻と共に臣籍降下

 皇籍から離れた元皇族は身分を復する事ができない

 天皇が成年に達しない時、あるいは国事行為が出来ない時は摂政を置く

現上皇はあっさり「退位出来ない」を破ってしまったので、今や皇室典範などあってなきがごとしと言えるでしょう。

そもそも「一世一元制」が施行された背景には、江戸時代までに何度も改元があって複雑化、なので明治になり一人の天皇に対し元号は一つとなったわけです。

また、「上皇」の存在は、過去の歴史から見ると「二重権威」の存在で天皇VS上皇の権力争いに発展しかねないから、退位は出来ない筈なのです。

上皇がどうしても国事行為が出来ないというなら皇太子を「摂政」にすれば典範通りだったわけです。

しかし、上皇は「摂政」を嫌がった。

その背景には、大正天皇の頃、病弱な天皇に代わり政府は皇太子を「摂政宮」として公務に当たらせました。その事に対し、大正天皇の后である貞明皇后が不快な思いをしたことが根底にあると思っています。

昭和天皇を否定することで存在意義を示してきた上皇が、素直に「摂政」を認めたら父に負けるとでも思ったのでしょうか。「摂政ではダメなんだ」と言い切ったようです。

じゃあ、昭和天皇が老齢に達していた頃はどうだったかというと、昭和天皇は戦後、全国行幸して以来、皇居においでになり、国事行為など以外は那須で植物の研究に打ち込んでいらした。海外もアメリカに一度行ったきりです。

その代わり、「代行」として皇太子夫妻が日本中、世界中を回っていたわけですね。

自分が前面に出るのはいいけど、潔く引っ込むことが出来ないというのが上皇で、結果的に今、天皇は何かあれば仙洞御所に挨拶に行く、つまり立派な「二重権威」になっているのです。

しかし、天皇や宮内庁はそれに気づいていません。

もしかすると、今上はまだ皇太子のつもりかもしれませんが。

 

ゆえに秋篠宮も皇太弟ではなく「皇嗣」などというおかしな称号を貰い、内廷外皇族のままにおかれました。

今の皇室は「皇位継承者」への敬意を欠いています。

本来であれば、皇太弟の秋篠宮家は東宮御所に居を据えて、内廷皇族として眞子様達は「〇〇宮」という称号を受ける筈です。

男系男子が2人もいる宮家が他の宮家と同等に扱われることがおかしいのです。

話がそれましたが、そのようなわけで、現在の皇室典範は天皇の「意思」によっていくらでも変更可能な脆弱な存在である事は確かです。

さらに、天皇の義務についての条項はあっても、皇后及び皇族の「義務」と「権利」についての条項はありません。

特に皇后が日本赤十字の名誉総裁であったり、養蚕をしたりというのは明治以降の慣例でしかなく、理由もなく止める事も出来るし、やらないでいる事も出来る。

皇室会議が招集される事も滅多になく、皇族の配偶者に関する規定もなければ、皇族が何か悪い事をした時の罰則すらない。これはかなり異常です。

イギリスのように、ヨーク公のスキャンダル公にされ、特権がはく奪されたり、サセックス公爵のように王族扱いもされなくなるというような自浄作用もない為、今の皇室は「本人の倫理観」に頼っている。これは大きな問題です。

皇室典範は、明治22年に正式発布されるまで2年以上、時間をかけて作られました。

その指揮をとったのは伊藤博文でしたが、その当時から「女帝を認めるべきか」「女系はどうなのか」などと様々な事を調べたのです。

なぜかと言えば、伊藤を始めとする新政府の面々は本来は皇室とは縁遠い出身であり、皇室とはどういうものかよくわかってなかったと思います。

皇族が減り、ご自分一人が皇位継承者だった明治天皇と、皇族を増やし過ぎず減らし過ぎず天皇の考えとすり合わせて様々な事が決められました。

その結果「皇位は男系男子が継ぐ」と決められ、最初は維新に貢献した法親王達を還俗させて宮家を作る事を許可し、そこから内親王と婚姻する事で枝葉の宮家が出来・・

けれど、最終的には「養子をとってはいけない。後継ぎのいない宮家は廃絶」という事になり、有栖川宮家は廃絶し、高松宮が祭祀を継承する事になりました。

最初は永世皇族制をとっていたけど、枝葉の皇族は「2世皇族」に処し5世までで臣籍降下する運命になりました。

最終的に

 宮家の長子は後継ぎ、2番目以降は華族

 皇族男子の婚姻は皇族・5摂家・大名華族から

 皇族女子は外国人と婚姻してはならない

と決められ、慣習として「皇族・華族男子は軍に入ること」が定められ、皇族女子は嫁ぐ事で血の継承を求められましたし、また福祉や赤十字分野での活動も求められました。

戦後の皇室典範に欠けている所はそこで

 「すべきもの」の規定を定めるべき

男子であれ女子であれ、宮中祭祀や天皇の補佐などの規定を設けるべき

例えば、令和になって天皇皇后は正月に歌を詠む事をやめてしまいました。

そのような「しきたり」をどのようにして守るか、守る気のない人に対してどのような罰則を与えるか、そういう細かい部分を「補足」として付け加えるべきと考えます。

また天皇皇后及び皇族の健康状態についてつぶさに国民に報告しなければならない。

 「してはいけないこと」の規定を定めるべき

例えばですが国民を欺いてはいけない、騙してはいけない、脅してはいけない等々の規定を作ることで、一方の民間に対しても「皇族を憶測で貶めてはならない」などの要求が出来るようになるのではないでしょうか。

 

女性天皇を認めるとか認めないとか言う前に、目の前の皇室が明らかに典範を無視した動きをした事、それを許してしまった政府と宮内庁と御当人たちに責任を問うべきと考えます。

 

 

 

 

 

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男系継承を確固たる基軸に安定的な皇位継承の提言 3

2022-02-08 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

私の第一の提言は「皇室への立ち入り調査」と「皇室典範」の見直しです。

 

 「皇室」への立ち入り調査の必要性について

現在、皇室にある財産は宮内庁の管理になっていると思います。

しかし、その宮内庁の人達がどこまで真剣に「皇室財産」を護ろうとしているのか、また分不相応の財産の取得を阻止出来ているのか疑問に思います。

要するに現在の宮内庁職員が信用できないという事になるのですが、その理由は「現在の宮内庁は官僚たちの異動先の一つにすぎず、皇室が何であるか、どういう存在かわからない人達の集まりである」ゆえに「イエスマン」に成り下がっている。

また、小和田雅子氏が皇室に入ってから、外務省からの人事異動が多くなり、実質的に雅子皇后の実家である小和田家の範疇に成り下がっている。

これを一気に解決する事は困難と思われます。

しかし、皇室の財産=国民の財産=国家の財産である以上、それを護る人材には「信用」が一番である事はいうまでもありません。

ここは、「第三者委員会」を立ち上げ、過去30年に渡り皇室のメンバーの収支決算をすべきではないでしょうか

 

 今上夫妻の東宮時代の収支決算の必要性

元皇太子一家は、雅子妃の適応障害以降ほぼ毎年那須・須崎・奥志賀と静養を繰り返してきたわけですが、御用邸以外で使われたお金の流れ、特に学友一家や妹一家を伴っての遊園地や動物園への旅行、ワゴン車の使用、食事会の費用など、どこまで東宮家が持ったのか、それは正しかったのかを精査すべきです。

 2008年に起きたヤフーオークション事件

・2008年3月頃、「トプカプ宮殿」と「菊栄」の名前で皇室関係の品がヤフーオークションに出品され始める

・2008年10月30日 大型掲示板で話題となり宮内庁や警察への通報がなされる

・宮内庁 → 宮内庁から出たものではない

・写真撮影場所が同一である為、「トプカプ」=「菊栄」

・値段の付け方が素人で商標登録なし

・銀座ファイブ仙壺堂のブログで出品された内親王の着物と同じものを発見

・本来流出する筈がないものまで出品され騒ぎとなる

・トプカプが一瞬で削除

・振袖 内親王」250万円。「明治宮殿の奥御殿でご着用になっていたもの」

・昭和天皇 御冠 宮中装束」79万8000円。「明治時代以降、天皇陛下が宮中祭祀、特に節折の行事において、御小直衣という御装束をお召しの際におかぶりになるもの

他数多く出品。

結果的に迷宮入りになって今日に至る

 

 宮邸の広さや調度が身の丈にあっているか

 降嫁された内親王や女王などの宝飾品の保管の仕方

 皇后のセカンドオピニオン 

 それぞれの公務の数、こなし方を精査

あまりにも細々しすぎているような気もするのですが、要は「公」と「私」の区別を重視するならこれくらいきちんとしなければ、悠仁殿下がご結婚されたときに、妃殿下が困ると思います。

戦後、全ての裁量を宮内庁に任せきりにして、政府がみないふりをしている間に、

自分勝手な解釈で公務をしたりしなかったり、祭祀をないがしろにしたりする事が日常茶飯事になっている現実。

これを正さないうちは皇室に未来は訪れないでしょう。

 

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男系継承を確固たる基軸に安定的な皇位継承の提言 2

2022-02-05 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

有識者会議においては、現在の皇位継承の順位を変える事無く、どちらかというと悠仁親王即位後の事を念頭に置いて物事を決めようとしている節があります。

勿論、敬宮愛子内親王には元々皇位継承権はありませんので、どんなにマスコミが「女帝」と書き立てても内親王が皇位につくことはありません。

・女性が結婚しても皇族として身分を保持ー配偶者及び子は皇族にならない

・旧宮家から現宮家への養子案

・旧宮家の復帰

確かに皇位継承の事だけを考えると、これらの案も考えていかないといけない問題ではあります。

しかし、それよりも今、政府がすべきことは「令和の皇室」を正しい道へ戻し、皇室が一丸となって皇嗣家と悠仁殿下を支えていく組織作りではないでしょうか。

その為には、政府と皇室の立場をはっきりとさせるべきです。

平成の天皇皇后が30年の間に行った「皇室改革」の骨子は以下の3つです。

 天皇皇后の「お気持ち」「強いご意思」による強権発動

・ 憲法にも皇室典範にもなかった「退位」を実現させたのは「天皇の強い気持ち」

・ 強い気持ちを持って退位しても東宮御所に住むことを希望。

・ パラオの慰霊訪問では宿泊施設がない事を理由に政府が止めたが海上保安庁の巡視船を改造してまで行った。

 

2 戦後の自虐史観をベースとしたお言葉

・ 平成の最後の方の「戦没者追悼式」では「深い反省」という言葉が何度も出て来る。

・ 平成13年の誕生日会見で「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」と発言。

・ 週刊誌などで度々報じられて来た「天皇の訪韓希望」はただの飛ばし記事ではなく、ご本人達は本気で「日本が悪」と考えて来た。

 

3 皇后の権力強化による「陰の女帝」で物事を決める

・ 秋篠宮家に産児制限をかけたこと

・ 皇室の伝統を覆したことや「伝統は時に苦痛」と発言したこと

・ 皇室日程にはなかった「お慎み」の乱用

  皇室外交におけるティアラや勲章を体調次第で外す

 

1に関しては、これは天皇と日本政府というものの関係を根本から崩すものです。

天皇が行うべきは国事行為が主であり、即位や退位に関して政府を通り越してスクープされるなどという事があってはならないのです。

なぜなら日本国憲法においては「主権在民」であるから。

そして天皇は即位の礼で「日本国憲法を守る」と誓いました。

にも関わらず、自らそれを破り「退位しないといけないのだ」とお気持ちを表明しました。

勿論、それを実行するには陰で色々動いた人達がいたでしょう。

彼らは政府の頭の上を飛び越えてマスコミを使ってスクープし、政府が「そんな事は聞いていない」と言っても協議する間もなく国民感情を操り、政府がそれを認めざるを得ない形になりました。

さらに政府を驚かされたのは、上皇となったあとの「仙洞御所」です。

今上は吹上御所に、そして秋篠宮家は皇嗣として東宮御所に住むものと政府は思っていたのに、いきなり「思い出の多い東宮御所に住みたい」というお気持ちが発動され、東宮御所は仙洞御所にする為に改築され、その為の仮御所として高輪の旧高松宮邸を改修する羽目になりました。

しかも、当初の予定では卓球台など余計な施設を造る計画もあったそうで、さすがに予算が多すぎると削られたのですが。

最初から香淳皇后が住んだ大宮御所にしてくれたら、それほど多くの予算を必要としなかったでしょう。

パラオ訪問他、いわゆる「慰霊の旅」は多くの国民の支持を集めているように見えますが、それがすなわち「強い気持ち」だけで作られたスケジュールであり、しかも誰に対しての「慰霊」なのかという点が政府との見解の相違を生み出しているものと思います。

 

2に関しては、天皇の「お言葉」を政府が精査する事無く勝手を許したら案の定「深い反省」という言葉が飛び出した結果です。

平成時代の天皇は、終戦時に12歳という多感な歳であったことや、バイニング夫人に教育をうけたせいで、父である昭和天皇への戦争責任を強く感じており、自らはその後始末をしているというような考え方であったと思われます。

美智子皇后に関してもキリスト教の家庭で育ち、聖心女子大を出るに至って強く自虐史観が植え付けられたものと思います。

そして日本の政府は50年以上もその自虐史観の中にどっぷりとはまり、自らの国を責め続けて来たのです。

しかし、天皇はどこの国の天皇であるかという事を考えた時、「日本は悪い事をしたから深い反省をしながら生きて行かなくてはならない」と戦没者の前で言葉にするのは間違っています。

日本には忘れてはならない4つの日がある。6月23日の沖縄戦終結の日、8月6日の広島原爆の日、8月9日の長崎原爆の日、8月15日の終戦記念日」と黙とうしつつ「深い反省」をしているのはおかしいではありませんか?

そしてここに3月10日の東京大空襲が入らないのにも違和感を覚えます。

 

3に関しては、正直「証拠を見せろ」と言われたら、平成が始まった時からの週刊誌を全て網羅し、一つ一つ精査する必要があります。

しかし、悠仁殿下が生まれた時秋篠宮殿下が「お許しがでたので」とおっしゃったのは事実でしょう。そして雑誌によると佳子内親王が生まれた時、雅子妃より先に出産したとバッシングを受けた時も黙っていながら、3回目の懐妊を「紀子ちゃんがまたバッシングされたら可哀想」と言って暗に止めた事から、実際に産児制限をかけたのは皇后であると言っても過言ではないでしょう。

また、紀子妃の懐妊がわかると体調を崩し静養を断念するとか、秋篠宮に次ぐ皇位継承権を持つ悠仁殿下を「末の悠仁」と読んだ事も、いわゆる「匂わせ」として存在しています。

皇室の「奥」の権限は皇后にありますが、例えば宮中晩さん会などの行事は政府にとってとても大事な外交行事です。新年祝賀の儀もまたそうです。

そこに「首が痛いので」とティアラやネックレス、勲章さえ外して登場する皇后の姿は、国益に反するものでした。

雑誌等では、天皇の心臓手術以来「皇位継承順位を決めるのも皇后」と言われる程、つまり天皇が何も発言しなくても「皇后さまのお気持ち」優先のような考え方が広まりました。

 

政府が上記の出来事に対して、何も言えずなされるがままになってしまった背景には、総理大臣始め政府側の「皇室への無関心」があります。

・皇室予算が適正に使われているか

・天皇皇后及び皇族が分をはみ出さずに暮らしているか

・天皇皇后及び皇族が国益に叶った発言や行動をしているか

・天皇皇后及び皇族の「公務」がどんなものではあるか把握しているか

これが全くなされていません。

「はい、内廷費3億円、皇族費〇〇円」と支給したらそれっきり。

「あとは宮内庁がやればいい」とほったらかした結果、今上が東宮だった時のオランダ静養も阻止できなかったし、様々な浪費をさせてしまったのは事実でしょう。

有識者会議は、皇位継承問題を語る前に、「平成・令和」の皇室予算の使われ方を今一度計算しなおし、どこまで無駄遣いを許して来たかを確かめ、天皇皇后及び皇族方に対して注意をしなくてはなりません。

眞子様の結婚の時の様に「一時金はいりません」と言われたから「じゃあ、あげません」などというのは無責任です。

また、皇族の暮らしぶりや財産についても精査する必要があります。

つまり、有識者会議が行わなければならないのは、「天皇皇后及び皇族とは」日本国にとってどんなメリットがあり、彼らはどんな形で貢献してくれるのかをはっきりさせなければならないのです。

教育、思想、金銭感覚、日々の行動全てに目を通す、あるいは目を光らせていなければ早晩皇室は亡びるでしょう。

倫理観を皇族に任せきりではいけないのです。

天皇や皇太子の口から「人格否定発言」や「深い反省」という言葉が出ないようにすべき。

また、皇室に残る文化遺産、宝飾品や装束の数々、調度品などをもう一度洗い直して公開できるものは全て公開すべきと思います。

出来ない場合はなぜ出来ないのかを明らかにすべきです。

 

私は皇位継承を語る前に皇室への政府の立ち入り調査及び「皇室典範」の見直しを提言いたします。

 

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男系継承を確固たる機軸に安定的な皇位継承の提言 1

2022-02-04 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

現在、日本有識者会議において「安定的な皇位継承」についての議論が進められ、3つの提案がなされているようです。

1 女性皇族が婚姻後も皇族として残る(但し配偶者と子は皇族にならない)

2 旧宮家の男子を現在ある宮家の養子になる

3 旧宮家をそのまま復帰させる

 

1と2は実現、3は1と2がうまくいかなかった場合に実現するという事です。

これら3つの案が提出された背景には

・ 将来、悠仁殿下一人になってしまう皇室において、何とか公務の担い手を作りたい

・ 皇族の人数を一定数確保したい

という理由があります。

そしてその根本には「日本には皇室が必要だ」という思想です。

大和朝廷が開かれて以来2000年の間、日本という国に「天皇」がいなかった事がありません。

天皇が政治の中枢にいた時代を経て、現代にいたるまで一度として天皇不在の時はなく、しかも「男系」でなかった事はありません。

女帝は8人10代いましたが、全てが男系女子であり未亡人もしくは未婚の女性で、再婚、結婚した事はありません。

では天皇とは日本にとって何なのか。

私は有識者会議がこの点をあまり重視していないのではないかと思います。

勿論、「天皇は日本の象徴である」と憲法に書かれており、通り一遍の歴史を見ればその存在は歴史的に貴重で必要だと考えるのは当然です。

つまり、天皇は「人間国宝」「無形文化財」のようなもの・・ととらえているのではないでしょうか。

なぜなら憲法における「象徴」の意味を国民も総理大臣も、当の天皇ですらわからないからです。

日本が太平洋戦争に負けると決めた時「国体」の維持を最優先に考えました。

つまり天皇と皇族を日本という国の根本、柱と考えていたのでしょう。

たとえ国民が助かっても天皇がいなくては国の柱が折れて、復興はならない。

勿論、戦後の国民の努力や意欲の行く先が見えないと考えたろうと思います。

GHQは皇室の存在意義がよくわかりませんでした。

けれど、とにかく「ヒロヒト天皇は国民から深く慕われている」と思ったのでしょう。

昭和天皇一家とその兄弟を残し、11もあった宮家を臣籍降下させました。

その場合の一時金についても、宮家当主が軍人だった場合には支払われない事になり、宮家は突如世間に放り出されたのです。

そしてGHQは天皇を「日本の象徴」つまり、旗のようなものと位置づけました。

主権はあくまで国民にある。じゃあ、天皇は?日の丸のようなものだ・・というわけですね。

以後、戦後教育の中で「天皇は日本にとってどういう存在なのか」という事はおざなりにされ、ただ試験の問題に出される答えのように「象徴」という言葉だけが一人歩きして今に至っているのです。

 

現在、有識者会議や総理大臣に至るまで全て戦後の教育を受けて来た人達。

彼らにとって「天皇」「皇室」はどこか触れてはいけないもの、下手に触れたら政治生命が断たれるくらいの気持ちでいるのではないでしょうか。

ゆえに、戦後、新しい皇室典範を作ったけれどそこにある欠点や補足を見直す事もせず、残された天皇一家と宮家のなされるがままに動いて来たというのが真実です。

ほったらかしにされた天皇家は政治と距離を置きつつ、独自の路線を歩まなくてはならなくなった。

それは戦後に作られた憲法と皇室のしきたりや伝統のすり合わせです。

その件については後に詳しく書きますが、21世紀、令和の時代に来て「すりあわせ」が不可能になり、突如政府に丸投げされたのが「皇位継承」問題なのです。

ゆえに、有識者会議のメンバー及び政府の面々は、何となく

皇族が減ると公務の担い手がいなくなる

・悠仁殿下になにかあったら皇室が滅びる

として、慌てて策を考え始めたのですが、そこを突いたのが左派政党による「女帝」「女系」の実現です。

21世紀の多様性に当てはめて天皇家を考える。女性に皇位継承権がないのはおかしいという耳に心地いい理屈です。

それに真向から反論できる保守系はあまりいないのではないかと思います。

 

私は、ジェンダー問題と皇位継承の問題は別と考えます。

そして、あらためて「日本にとって天皇とは何か」という事を鑑み、男系男子による皇位継承を提唱いたします。

 

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雅子皇后の娘なら天皇になれるという理論

2022-01-07 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

本題に入る前に。

まず「海棠」についてですが、確かにバラ科のリンゴ属ですが私が言いたかったのは、数々のドラマの中での「海棠」の扱いが桜のようだという事なんです。

奈良時代なら「梅」が一番だったかもしれませんが、今、日本人が最も好きな花は桜ですし、海棠が満開の雰囲気は桜のようです。

愛新覚羅溥儀の弟溥傑夫妻は、戦後は中国で暮らしましたが家には大きな花海棠の木があったと言われています。その意味は「梅」でも「薔薇」でもなく、何となく浩さんの故郷日本の桜を思わせるからだったろうと思っています。

 

また学習院の日本語学科についても、私が言いたかったのは実際の日本語学科がどういうものかというより、なぜ愛子内親王はそこに入ったのかという事です。

いわゆる「歴史好き」なら史学科へ行けばよかったのに。

しかしながら、学習院の日本語学科は帰国子女や外国人にも門戸を開いていると書いています。基本的な日本語の歴史から文学を紐解く崇高な学問である事は確かでしょう。

だったら内親王はその原点でもある「和歌」をきちんと作らなければならない筈ですよね。

個人的に、天皇家と学習院側で折り合いをつけたのが「日本語学科」と思っています。

なぜなら出席日数だけでも内親王は大学進学できる立場ではありませんでした。

今、アンチや左翼は悠仁親王が筑波に入れば「裏口」と騒ぎ立てていますが、愛子内親王こそ裏口中の裏口で、本来なら学習院女子大への進学がせいぜいと思われます。

現に三笠宮家の女王は女子大に入ったりしています。しかし内親王は試験を禄に受けておらず、出席日数もないのに偏差値72ばかり一人歩きして、それでもぎりぎり2月になって大学への進学が決まりました。

学習院なら裏口でも忖度でも何でもいい・・・というのは学習院に対して失礼ではないかと私は思うのですが。

多分目立たない・・・出欠に拘らないで行けるのがそこしかなかったんでしょう。

他の日本語学科の方がそれを認められるとか日本語学科がそうであると言っているわけではありません。

ただ愛子内親王の場合、他の学科は受けられなかったという事です。

さて、今週の女性セブンだったかな。

雅子様ついに決断。愛子に天皇の自覚を・・・・」というタイトルが付きました。

またテーミス1月号には「愛子内親王擁立へ宮内庁が動き出した」とタイトルが。

どちらも今の所、訂正がないので宮内庁や雅子皇后側からするとこれらは気に入らない記事でもないし誹謗中傷でもないという理解なのでしょう。

また、成年式の愛子内親王のドレスのジャケットがテーラードカラーだった事を「雅子さまに敬意を表してだったのでしょう」と書かれています。

私は本当に驚くと同時に「皇室の内部崩壊」を見ている感じがして嫌な気分になりました。

どうして、マスコミはそこまで「雅子様」を上げ報道し、忖度するのか。

そもそも、皇位継承権のない愛子内親王がなぜ天皇になれるのか、それをなぜ雅子皇后が決めるのか。なぜ宮内庁が雅子皇后に忖度して動くのか。

あまりにもおかしくないですか?

 

 皇統は何によって決められるのか

それは皇室典範です。

皇室典範には

 天皇の子供・孫・・

 男子であること

これが決められています。

週刊誌は「皇室典範なんて明治以降に決められたもの、江戸時代までは女帝がいたんだから愛子様だってなれる」と書きました。

江戸時代までがどうとか関係ないんです。

今の法律が大切なのです。

そんな事を言い出したら戦後の憲法も民法も「意義なんかない」って言われたらそれまでじゃないですか?

「ジェンダー」がどうのこうのという思想もありません。

天皇の子や孫で男子でないと天皇になれないのです。

天皇の子や孫に男子がいなかったらどうなるか?

 過去の天皇に遡って男子を見つける

のが正しいわけです。

「天皇の娘なんだから天皇になれる」という考えはないのです。

でも、私はマスコミの報道の中に感じるのは愛子内親王が天皇の娘であるという事実よりも「雅子さまの娘だから天皇になれる」と思い込んで書いているんじゃないかということ。

何でそんな事に?

これには上皇夫妻が関わっています。

昭和の時からそうでしたが平成になっても「美智子様」のネームバリューは一番。

平成後期になると何でもかんでも「美智子様の決意」「美智子様の慈愛」と書くようになります。

大事な物事を決めるのは常に「美智子さま」だというわけですね。

今だってそうですが「美智子さまは陛下の娘である愛子さまを天皇にしたいとお考えです」と堂々とマスコミに書かれています。

なぜ美智子さまは愛子内親王を天皇にしたいかと言えば、徳仁さんの娘だからなんですけど。でも美智子・雅子・・いわゆる「母」の思いの方が典範より重いとマスコミは解釈しているのです。

ではどうして「雅子さまの娘」であれば天皇になれると考えるのか。

それは

 雅子さまは元々ハーバード大を出た才媛

 雅子さまは外交官だった

 雅子さまは成績がよく偏差値が高く語学力が高い

要するに「頭がいい女性」だから「皇太子妃にふさわしい」「皇后にふさわしい」と言われたわけです。

(実際はハーバードは父のコネ、外務省職員であって外交官ではなかった。語学力の高さを示す証拠は一つもない)

そんな雅子さまの娘である愛子内親王は

 偏差値72

 とても成績がよく頭がよい

 語学堪能、文章力がすごい

 リーダーシップがある

って事なんです。頭のいい母から生まれた頭のいい娘ゆえに天皇になれば「皇室外交」に貢献するだろうと・・・マスコミの論調はこれです。

残念ながらここに父である天皇の姿は薄くて消えそうです。

今や皇室を支配しているのは雅子皇后で、雅子さまの気持ちが乗れば公務もするし、人とも会うけどそうでなければ一切出てこない。

では

 天皇の子・孫

 男子

はいるかと問われれば、それは秋篠宮殿下と悠仁親王です。

ところがマスコミは「秋篠宮家は皇室に反抗的」「自由過ぎる教育」で皇統にふさわしくないと言うのです。

眞子内親王・佳子内親王の進学先がICUだったこと

・悠仁親王がお茶の水大学付属であること

・眞子さまが小室圭と結婚したこと

この3つを持って「皇統にふさわしくない」というのです。

おかしくないですか?

何でそんなに学習院に拘るのか。

「愛子内親王の20年」を読めばわかる通り、最初に「学習院なんかいかせない」と言っていたのは雅子妃の方です。

幼稚園も慶応だ青学だと散々言われたけど、全部お断りされ、留学も出来ず。

結果的に学習院に入学するも「いじめ事件」により、学校と雅子妃の立場が大逆転し2年かけて雅子妃は学習院を自分の思い通りの「忖度」学校に仕上げてしまいました。

学習院の売りは「皇族が入る学校」ですから、そこを内親王や親王が避けたとなれば、名誉に傷がつく。そこを突いたんです。

学習院にずっと通わせてやるから不登校でも成績不良でも大学、大学院まで行かせろ」と。

秋篠宮夫妻はお二人とも学習院育ちで母校に愛着がないわけがない。

紀子妃は常盤会お墨付きの妃殿下でしたし。

それなのに結果的に学習院から離れなくてはいけなくなったのは、一重に愛子内親王が入学し、「学校の在り方」を変えられたからです。

それを「(皇族のくせに)自由過ぎる」と斬るマスコミは狂っています。

自由過ぎたのは「叱らない子育て」を徹底的にやりまくり、学校と学友に迷惑をかけまくった天皇一家です。

秋篠宮家程、厳しく子育てをした家庭はないでしょう。

もし、愛子内親王が生まれていなかったら、もし皇太子妃が雅子妃でなければ、宮家への誹謗中傷もなく眞子様も佳子様も悠仁親王ものびのびと学問を追求出来た事でしょう。

特に眞子様はPTSDを患う程心を傷つけたりしなかったと思うし、佳子様も好きなスケートやダンスを続けられたかもしれない。

話を戻しましょう。

優秀な雅子さまの娘だから天皇にふさわしい」と言われている愛子内親王。

元明天皇と元正天皇を例に挙げて「女帝が娘に継承させた事例もある」とか書くマスコミ。

へえ、じゃあ雅子さまは「女帝」なのか?

今や徳仁天皇よりずっとずっと上の立場にいて偉くて権力があって誰も逆らえないんだあ。

何でそんなに権力があるんだろう。

そりゃ背後に「小和田恒」「大鳳会」「共産党」「某学会」というお金があって、手段を選ばない人達がいたら、お金をばらまいてどんなことでも「誣告」出来ます。

結論。

皇統を決定するのは

・天皇の子・孫・・・

・男子

である事であり、優秀さとか成績は関係ありません。

もしそんなものが関係あったら確実に徳仁親王は天皇になれなかった。

無論、上皇もそうです。

「血筋」が全ての皇室をヨーロッパの王室になぞらえるのもナンセンスです。

ヨーロッパでは王室が国民の人気を保っていないと、明日にでも「王室なしでいい」という結論に達します。

もし、雅子妃がイギリスの王太子妃だったり王妃だったらハリーとメーガンくらい嫌われて「王室反対派」が大勢を占めて王室はその歴史に幕を閉じるでしょう。

そうならないようにケンブリッジ一家は頑張っているんです。

サセックス公爵やヨーク公爵のスキャンダルを何とか払拭する為に働いているようなもの。

日本は「天皇」という存在意義を知らない人が多いし、自分には関係ないと思っているから、だからこそ徳仁親王が皇位を継承出来たし、雅子さんも皇后になれたのです。

そんな分際で「賢さ」「社交術」を駆使して一年中働きづめの秋篠宮家を皇統から追い出そうなんて100年早いわ・・・と言いたいです。

 

日本人は雅子皇后の真実に目を向けるべきです。

彼女の人生がどれ程「嘘」にまみれているか。

本当は語学力もなければ社交術もなくファッションセンスもなく、何より「空気が読めない」人だということを。

 

 

 

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女性宮家は必要なし

2021-06-20 21:28:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

宮本隆氏とやら・・・荒らしなのかな、削除すべきか?と思ったけどとりあえず承認しました。

あなたのコメントはいわゆる反日的皇室ブログの方に承認して貰った方がよろしいのでは?世の中にはそういうブログが沢山あるので。

中にはブログ主の本心がわからず、こちらに引用される方もいらっしゃいますが、大抵の皇室ブログは反日です。

つまり「将来的に皇統を雑系にして権威を失わせよう」というものです。

 皇統の男系継承は皇位継承争いを避ける為の施策

何度も書きますが、日本の天皇というのは「合議制」の象徴です。

朝鮮半島や中国大陸において数々の部族・民族の衝突を繰り返し、武力で抑えつけ王なり皇帝なりを立てた歴史とは違い、どの部族・民族にとっても共通の「神」の存在、それが天照大神であり天皇はその子孫。

国民統合の象徴なのです。

ゆえに実際の政治は蘇我氏や物部氏、藤原氏だったりが行い、天皇はひたすら「皇統」を繋げ、祭祀に精進するという存在でした。

表向き、どの部族の安泰をも祈る存在とでもいいましょうか。

男系に拘った理由は「父が天皇であること」を基本にしなければ、誰が天皇になっても構わないという思想が生まれる事を恐れていたからです。

継体天皇のように、何代も遡ってさえ男系男子に受け継がれた歴史は、その子孫たちにとって文書として明確化しなくても感覚として「男系でいくことが天皇家の存在意義」と思ったことでしょう。

無論、女帝も存在しましたが、彼女達の父は必ず天皇であり、天皇のなったのちには絶対に再婚及び出産しないという前提つきです。

女帝が子供を産んでそこに皇位継承権を与えれば、より皇位継承争いに拍車をかけることがわかっていたからです。

(その点をもっと納得したいなら中国ドラマ「ミーユエ」を見るといいでしょう)

 

男系・・・古代から中世においては父は天皇、母は蘇我氏もしくは藤原氏。武士社会になると五摂家の姫が妃となり、例え側室が生んだ親王であっても構わないことになります。

明治時代になり、イギリスやドイツなどの王家を参考に伊藤博文らが、西洋にならって今まで影に隠れていた妃達を公務に引っ張り出します。

勿論、皇室典範を作るにあたって「女帝」も考えたのです。

イギリスにはビクトリア女王がいましたし、女性差別の国と思われたくなかったからですが、結果的に「男系男子」と決まりました。

その理由は「女帝の夫」が政治に加担するのを防ぐ為・・と言われて来ましたが、私は違うと思います。蘇我氏や藤原氏をみれば天皇の后の実家が権力者になるのは自然な事だったからで、それが女帝の夫だからダメというのは理屈に合わない。

私が何かでちらっと読んだのは「過去に存在する女帝は全員即位後に出産せず、独身を通した。近代の女性にそれを求めるのは酷だ」という考え方からです。

 

 過去に女性宮家は一つだけ

江戸末期に桂宮家を継承し、「女性宮家当主」となった淑子内親王。

彼女がなぜ桂宮家を継ぐことになったか。

それは江戸時代の皇室制度と大きな関りがあります。

江戸時代になると天皇及び皇族の数を抑えないと経済的に成り立たなくなりました。厳しい禁中ならびに公家諸法度でぎりぎりに締め付けられていたからです。

しかし皇室としては皇統維持の為「世襲宮家」4家を存続させないと、何かあった時に怖い。

そこで、伏見宮・桂宮・有栖川・閑院の4家を定め、天皇の弟達によって継承されました。

桂宮家というのは度々断絶してはふっと復活する不思議な運命を持った宮家です。

そして当時の天皇家では例え天皇の子であってもすぐに親王・内親王になれるわけではありませんでした。

淑子内親王は、閑院宮愛仁親王との婚姻が決まった時点で「内親王宣下」を受けました。

しかし、そこに悲劇が起きます。なんと、閑院宮愛仁親王が婚約2日後に亡くなってしまったのです。

その当時、貴族の娘の嫁ぎ先は宮家、貴族、大名家。でも内親王は身分が下の者との結婚は望ましくありません。

ちょうどその時、桂宮を継承していた節仁親王が死去。

淑子内親王はその桂宮家を継いだのです。内親王宣下をしたばかり、婚姻がダメになった女性、父天皇としては可哀想に思ったんでしょう。仏門に入れてしまうよりは宮家の当主として大事にされた方がよいと。

淑子内親王は準三后、一品内親王の厚遇を受け、弟・孝明天皇の正室だった九条凪子よりも上位に置かれました。

(当時、天皇の子達は五摂家より立場が下ですから異例です)

今でいうなら眞子さまが、亡き桂宮家を継承していくようなものです。

しかし、彼女は生涯独身でした。

 

 明治以降11宮家

幕末の混乱と明治時代になり「天皇」中心の世の中を整える為、宮家が増えていきます。

その中でも明治天皇は策士で、なかなか男子が生まれず不安だった事で、ご自分の内親王を次々宮家の次男などに嫁がせ、宮家を創設させました。

つまり内親王は宮家の当主ではなく、あくまで「妃」の立場なのです。

中韓の後宮と違って、日本の場合、皇后以外の女性達に序列があまりなかったというか、明治天皇の場合、お子様の死亡率が高く序列云々と言っている暇がなかったと思いますが。

と、同時に宮家にも古いと新しいはあっても、序列があるわけではありません。

とりあえず伏見宮家が「長老」として存在していましたが、発言力があったかどうかは不明です。

明治天皇の4内親王が宮家に新しく創設された宮家に嫁いで「妃」となり、昭和天皇の長女、照宮茂子内親王も久邇宮家の長男に嫁いで東久邇宮家を創設。

 

 天皇の存在意義は国家安泰を祈る

天皇というのは、日本にとってとても霊的な存在と言えるでしょう。

天皇はことあるごとに「祭祀」を行い、国家安泰を祈りました。

大仏を作ったり国分寺を作ったりしたのも、全て「平和が長く続くように」との祈りの為です。

飢饉が起これば祭祀、戦が起きれば祭祀。全て祭祀です。

和歌を詠むのも、その延長にあり、歴代天皇は沢山の和歌を詠んで来ました。

明治・大正・昭和・平成もそうです。

しかし、今上も皇后も歌会始以外に和歌を詠んでいません・・・っていうか、かなりいい加減なものしか提出していません。

美智子上皇后はクリスチャンですし、今上夫妻は某宗教団体の信者と言われます。この3人に共通しているのは「宮中祭祀」を科学的でないと思っているところです。

神に祈ること、その対象が天照大神であること、八百万の神々であることが科学的でないと考える根拠は、経典がないからですよね。

キリスト教には聖書が、某学会には「朝夕のおつとめ」が。

そして、大きな勘違いをしていること、それは「天皇と国民の距離感」が大事だと思っている部分です。

天皇、皇室は国民と同レベルであってはいけません。

もっと高い所で、祈る姿を見せさえすればいいのです。

祈らない天皇・皇后がいくら公務で地方へ行っても、一時的な人気獲得しか出来ず、永遠に尊敬されないし、信仰も得られないでしょう。

 

 有識者会議が不必要なわけ

まず「皇室の安定的な存続」の為に女性宮家や女帝・女系が必要という考え方は間違っています。

このような事態を招いた責任は、まず平成の天皇皇后にあります。

皇太子にふさわしい妃を貰っていたら、仮に不妊であっても早くから治療に積極的に関わることが出来たでしょう。

また、秋篠宮家に産児制限をかけなかったら、悠仁親王に兄がいたかもしれない。

さらに遡れば、昭和から平成への代替わりを利用して「旧皇族」の復帰を画策していれば、秩父・高松・三笠・常陸の4家に特例的な養子・あるいは猶子を迎え入れることが出来たかもしれません。

つまり、4家を21世紀の「世襲宮家」とすることで皇統を安定させることが出来たかもしれないのです。

有識者会議は皇室の歴史を深く考えたり、研究したりすることなく、ただ体制の側に立ったり、小和田家の意思に従ったり・・・そういう傾向で集まっているにすぎないのです。

天皇の仕事は祭祀と国事行為であり、これは誰も代行する事が出来ません。

つまり女性皇族が何十人いても無駄なのです。

 

 皇統の安定を図る為の施策とは

 三笠宮家の2女王、高円宮家の女王らを一時金を与えて臣籍降下させる

 高円宮家の公務を洗い出し、国益に不都合な部分は切る

 百合子妃・信子妃・久子妃の住まいを一か所にする

これでかなりスリム化出来るのではないでしょうか。

 皇室典範を改正し「女性のみが残った場合」「親王が生まれた場合」何世までを皇族とするか範囲を限定させる。

 秋篠宮家に旧皇族から猶子を得る

 秋篠宮を今上の猶子とし、皇太子に格上げ。秋篠宮家の内親王と親王に称号を与える → 内廷皇族とする

 上皇夫妻の住まいは高輪にそのまま、赤坂東宮御所は秋篠宮家に。眞子内親王・佳子内親王の御殿、悠仁親王の御殿を別棟に作る。

 上皇夫妻は天皇の下に置き、誕生日等の祝いには参内すること。また内廷外皇族とする。

 悠仁親王の高校入学と同時にお妃選考に入り、20歳までに婚約。大学卒業までに結婚。

 眞子内親王・佳子内親王のお相手は旧皇族に限り、宮家創設可能とし、お二人は「妃」として残る。

 皇后と愛子内親王は公務を免除する代わりに那須御用邸で暮らす

 

正直、平成時代に倫理崩壊したジェンダーな皇室を元に戻す為には相当な努力が必要です。眞子さまにはあっさりと結婚を諦めて貰い、一生独身でも構わない覚悟を持って頂きたい。

今行わなければ皇室は断絶します。

宮内庁も政府も、はっきりいってどうでもいいやと思っているんだろうなと。

ただ政治的に利用したい一心でしょう。

そういうものに乗らない勇気が今は必要です。

 

 

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2020年の皇室

2020-12-28 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 皇室にとって2020年は戦後最大の危機ともいえる1年になりました。

皇室経済や、皇室の意義を改めて考えるきっかけとなった事は喜ばしいのですが、それに対してなんら対策を打ち出さなかった宮内庁の怠慢、そして今上夫妻の「自分が一番可愛い」態度が今後の皇室に暗い影を落とすでしょう。

 

年明け、新年一般参賀や歌会始めなどは正常に行い、危ないと言われていたけど天皇誕生日の参賀や祝宴までやってしまった後で「自粛」生活に入り、一時期は動静がわからなくなってしまいました。

そもそも皇后が歌会始めで「災いを」と詠んだことに大変びっくりしてしまい、去年から続く令和の災害、今度は何が起こるんだ?と心配していたら、最終兵器のようにコロナが襲って来たのでした。

歌は言霊です。

皇族がこの「言霊」を信じないで「関係ないわよ」と言ってしまったらもう国は終わりだなと。

けれど、皇嗣家による済生会病院への手作り防護服の話題は国民にとても幸せな気持ちを与えてくれました。

いち早くオンライン公務を取り入れた皇嗣家では、外に出ないで様々な活躍をし始めました。

しかし、天皇家では「宮内庁の反対」とかで、オンラインに進まず、一々人を呼びつけて恐ろしいくらいの距離をとっての「進講」が公務代わりとなりました。

皇后の「養蚕」は結果的に「なんちゃって」に終わり、その後、言い訳するかのように愛子内親王の気持ち悪い蚕の写真を使って「養蚕に熱心」アピール。

何でそこまで熱心にアピールするんだろうと思いましたが、一度こだわりだすと気になってしょうがない。何が何でも誉め言葉が欲しかったんだろうと思います。

雅子皇后は自粛になって公務がなくなった事による適応障害」とかわけのわからない言い訳が続きました。

夏の終わりには一度「英国から来春には来てほしい」要請を受けますが、呪いなのかイギリスのコロナは広がるばかり。

 

春に学習院大学に入学した愛子内親王はオンラインのみで授業を受け、登校したのは今のところ1日。

もう19歳だというのにいつまでも小学生のような印象しか持てませんけど。公務見習いもなく、平日はきっと遊んでいるんだろうなと思いつつ。

 

延びに延びていた立皇嗣の礼が行われた11月。

皇嗣夫妻の立ち居振る舞いの素晴らしさと仲の良いご夫婦ぶりが際立ち、これで一安心・・・と思われた時に「眞子さまのお気持ち」が発表されたのでした。

元々「何等かの説明を」と皇嗣殿下がおっしゃっていたので、立皇嗣の礼が終了するのに合わせて出されたのでしょうけど、この「眞子さまのお気持ち」はまさに爆弾発言。日本中が驚き、失望した瞬間でした。

けれど結果的にこれがKKへの最後通告になった事は事実。政治家や宮内庁長官まで発言するようになっても逃げ続けるKKに退路は断たれたと思います。

これが眞子さまの真意なのかどうかは別として、かなり「結婚」そのものが出来ない雰囲気になってきたのは事実。

皇嗣殿下の誕生日発言「憲法に則って言えば結婚を認める。けれど婚約は別」という言葉がさらに謎めいた決めての一手となり、回りも真剣に考えざるを得ない状況になっています。

天皇と皇嗣の繋がりも日々疎遠になっていく様子が見てとれます。

長男であり溺愛されてきた筈の今上はまるっきり上皇夫妻には関心がないみたいですし。コロナ禍における家族関係を見直さないといけませんよね。

 

2021年、どこまで今のような状態が続くかわかりませんけど、皇室の在り方も変わって行くのだろうと思います。

希望としては、もっと国民に寄り添って欲しいと思いますが早々に上皇夫妻の引っ越しなどが控えておりそれは無理かな・・・

 

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どうして愛子様は天皇になれないのか2

2020-10-17 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

皇室典範を改正したら愛子様に皇位継承権が出来るんでしょう?」

何でそこまでする必要があるの?秋篠宮殿下も悠仁殿下もいるよ」

でも、悠仁殿下は結婚できないかもしれないし、子供が生まれないかもしれないし

何でそう思うの?」

だってヤフーニュースで書いてあったよ。だから今のうちに女性天皇・女系天皇を決めておいた方がいいって」

悠仁殿下が何歳かしってる?」

え?知らない」

まだ14歳だよ。14歳の少年が結婚できないとか子どもが生まれないとか、よくそんな残酷な事、言えるね」

でも、皇室ってすごく厳しいところだから、悠仁殿下と結婚したい女性はいないだろうってみんなが

あなたは悠仁殿下と結婚したい?」

えーーやだーだって厳しいんでしょ」

何が」

しきたりとか伝統とか。確か美智子さまも雅子さまもそれで苦労したって。うちのお母さんなんて美智子さまは虐められたって言ってるし」

それは全然違うんだけど、話が長くなるから今はおいておいて。伝統としきたりと言えば歌舞伎・狂言・茶道・華道・宝塚・相撲に神社に御寺・・みんなしきたりや伝統があるけど、嫁のなり手がないとは聞かないよ。歌舞伎なんて絶対に男子を産まないといけないし、相撲部屋のおかみさんだって旅館のおかみさんだって大変だよ。地域のしきたりや伝統を守らなくちゃいけないし。皇族だから厳しいというわけではないですよ」

そうかなあ。じゃあ、何で美智子さまや雅子さまは苦労したの?」

適応能力がなかったのと、プライドが高すぎて誰かに教わるって事が嫌で嫌で仕方なかったからでしょ。紀子様は学生時代に秋篠宮殿下と出会って恋愛結婚したけど」

庶民には関係ないっか」

そうそう。今現実に男系男子が2人もいるんだから、わざわざ皇室典範を改正してまで女帝を出す必要はない」

でもやっぱり悠仁殿下が・・・」

それはその時考えればいいのよ。それに愛子様は結婚できるって保証ある?

え?わからない」

上皇陛下の娘だった黒田清子さんは35歳まで結婚出来なかった。最後はお兄様である秋篠宮殿下のお友達と結婚したくらいよ」

ああ・・そうなんだ」

とにかく愛子様には皇位継承権はないし与える必要性もない

女性宮家は?これも雑誌で見たけど将来、悠仁殿下が天皇になったら他に誰もいなくなるから女性宮家を作って女性皇族を皇室に残すって」

女性宮家という言葉は元々ありません。民主党が勝手に作った名前。女性宮家というのは女性が宮家の当主になることで、それは皇位継承権を与えるのと同じ意味だから、創設の必要性はないの」

悠仁天皇を誰が支えるの?沢山の公務があるでしょう?」

天皇のお仕事というのは天皇しか出来ないもので、いくら周りに女性がいてもしょうがないのよ。今、妃殿下方が行っている公務というのは明治の昭憲皇太后が始めたものが多いし、他に企業などから「妃殿下を旗印に」という事で依頼があって成り立っているの。女性皇族がいなくなったら依頼がなくなるだけで別に誰も困りません」

そういうもんなんだ

もし天皇の仕事を代行できるとしたらそれは皇太子、摂政のみです。もし今の天皇が病気になって国事行為を代行するとしたら皇嗣の秋篠宮殿下か、その時悠仁殿下が成人していたら悠仁殿下しかいない」

随分、皇室における女性の地位は低いんだね」

またその話?皇位継承とか天皇と男女同権は関係ないのよ。歌舞伎は男性しか出来ないし、宝塚は女性しか出来ない。でも、それは男女不平等ですか?」

それは違うけど・・・・」

それでも明治天皇の后である昭憲皇太后は養蚕を奨励し、紅葉山に養蚕所を作って自ら育てたり、女子教育に力を入れたり、赤十字活動を支援したり、当時としてはありえないくらいキャリアウーマン皇后だったのよ。そういう方が残してくれた公務を雅子さまは全然やらない。男女平等を論じる前にまず、自分の目の前にある公務を引き継ぐべき」

やってないんだ」

雅子様は皇太子妃時代、養蚕所に手伝いにも行かなかったし、赤十字活動も一切やってないし、新年から始まる皇室の伝統的な行事もほとんど出てない。園遊会ですら出ない。やることやらないで「キャリアを無視した」というなっていうの」

つまり、雅子さま自身が男女平等っていいつつ何もしてないというわけ?」

その通り。紀子様は若い時に秩父宮妃から結核予防会の名誉総裁の仕事を受け継いで今に至るし、聴覚障害にも関心を持ってろうあ協会とかから公務の依頼が沢山来るし、おまけに愛育会のお仕事も三笠宮百合子さまから受け継いでいるのよ。学生結婚してコツコツ子育て・公務・勉強を続けて博士号を取って。

二言目にはハーバード大っていうけど、雅子様は学士ですから。それにお妃というのは勉強が出来ればいいわけじゃないと思う。社交上手で機転が利く賢い女性であることが大事」

紀子様ってすごいんだね

そうなのよ。なのに雑誌は嘘ばかり書いて紀子様を貶める

どうしてなの?

昨日も言ったけど雅子さまのお父さんを始め、日本が嫌いで日本の象徴が立派じゃ困る人達がいっぱいいる。そういう人達が盛んにフェイクニュースを流してイメージを悪くしようとしてる。だからお願い。ヤフーニュースは信じないで。事実を見極める目が必要だよ。流されて間違った方向に行って、それを将来国のせいになんかしたら、それはすっかり半島の人達と同じ行為だから。自分の国の歴史を正しく理解して言うべきことは言う。それはとても大事なことだと思う」

難しいねーーーとりあえずニュースを見るたび、あなたに聞くわ。フェイクかどうか

そうして頂戴」

 

 

 

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なりふり構わなくなって来た愛子女帝擁立派

2020-07-13 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 今までだって反日系愛子女帝を擁立するようなブログは多々ありました。保守系を気取った実は「愛子女帝派」のブログもあります。

また、全く事実と違う皇室話をさも事実のように垂れ流す、しかも皇室に関係があると思わせるようなブログ主すらいます。

何でそこまで愛子内親王を女帝にしたいのか。

彼らにどんな徳があるのか?

逆になぜ秋篠宮家をそこまで貶めるのか。何がそんなに憎いのか?と思います。

しかし、今回堂々とネットニュースで「愛子さま皇太子への道」というサイトが紹介され100人の関係者がいると紹介されてしまいました。

これで興味を持った人がアクセス数を延ばし、そして賛同する人もいるでしょう。

何というか、まるで新興宗教みたいなサイトで「愛子内親王が皇太子になれば国民は幸せになれる」みたいな論調なんですね。本当に恐ろしいことです。

 秋篠宮家へのバッシングが始まったのは雅子妃誕生後

浩宮時代から徳仁親王のお妃選びは難航していました。

候補に上った女性達が次々結婚したり、スキャンダルを起こしたりでうまくいかない。

それと並行するように、「難しい外交官試験を突破した小和田雅子」はFOCUSにも取り上げられ次第に名前が知られて行くようになり、やがてお妃候補の一人になります。

しかし、昭和の頃は宮内庁も真っ当で「チッソの孫娘を入内させれば大変な事になる」という事で相手にしませんでした。

反日の外交官である小和田恒氏がどこから「娘を皇太子妃に」という野望を抱き始めたかはわかりません。一説には福田元首相あたりと繋がっていたからとも。

彼らは1970年代に吹き荒れた「反天皇制」グループで、本来なら娘を入内させるなんて考えない筈ですが、敵の真っただ中に娘を送り込むことで、内部から崩壊させるという手を思いついたのかもしれません。

小和田雅子入内 → 男子出生 → 小和田家の孫が皇太子から天皇になる → 彼らにリベラルを植え付け反日に導き、やがて皇室は終了する → その頃は小和田家は誰も残っていない

そんな図式が浮かび上がります。

小和田雅子自身の意思はともかく、計画としてはエレナ女王のパーティに手書きで小和田雅子を入れ、皇太子を誘惑するところまではうまくいきました。

しかし、当の本人は全然そんな気はないし、宮内庁も相手にしない。

そこでマスコミを使って執拗に小和田雅子を追いかけ、あたかも「お妃候補」にずっと残っているかのような印象操作をしたのです。

たとえ小和田雅子が「私は皇太子妃になりません!」と言っても、それすら「お妃候補」の証拠になるという具合に。

何より皇太子徳仁が小和田雅子を気に入ってしまった。

そこにあるのは「愛」ではなく、彼女の見た目と学歴だったろうと思います。

それというのも、1989年に弟の礼宮が川嶋紀子嬢と婚約したのですが、この紀子嬢が国民だれもが愛さずにはいられない程可愛らしく清貧でありながら上品、そして何よりも礼宮と深く愛し合っていることがわかった。

国民は「紀子ちゃんフィーバー」を通して「憧れのプリンスとプリンセス」のラブラブな生活を満喫していました。

これに危機感を覚えたのが小和田家です。

そこで「紀子様は堕胎経験がある」「川嶋家が東宮家に怒鳴り込んだ」などとあらぬ都市伝説を流し中傷を始めました。

若くて絵になり、公務も祭祀もきっちり行う、おまけに早々に懐妊して眞子内親王を出産。国民的人気が高い秋篠宮家に対抗策を打ち出さなくてはなりません。

「見た目と学歴重視」は美智子皇后の考えでもあります。

血筋を追えばコンプレックスが刺激される。ゆえに「頭がいい。美しい」が全ての后の条件を上回り、皇太子はそれに従ったまでです。

ハーバード出身、東京大学に学士入学しオックスフォード大に留学。外務省勤務だった雅子妃のキャリアは美智子皇后好みでした。

しかし、マサコ妃は根本的に「皇太子の役割」を理解せずに入内し、自分の思う通りの生活が出来ない事に不満を持ち、能力不足も重なり次第に仕事をしなくなります。子供を産むなんて考えられない・・・というような状態です。

その間、秋篠宮家には佳子内親王殿下が生まれ、このままでいけば男子誕生も間もないと思われました。

ここから本格的なバッシングが始まり、秋篠宮家はどんどん隅に追いやられて行きます。

 秋篠宮家に手を差し伸べなかった宮家

秋篠宮家の行く末を本当に考えてくれていたのは秩父宮妃だけですが、宮妃の死後、高松宮妃も三笠宮家も高円宮家も常陸宮家も秋篠宮家を支える側には回ってくれませんでした。

特に高円宮家は東宮家と組んで便宜を図っていました。

宮家が何ゆえに秋篠宮家に目をかけなかったか。

その原因は継仁親王と美智子妃の存在です。

彼らは「美智子妃入内」の頃からの恩讐があるのです。

昭和時代は、昭和天皇と香淳皇后のおかげで何とかその絆が立ちきれずにいたものの、平成になってその糸は切れました。

宮家としては美智子皇后のやることなす事全部「掟破り」でしたし、それに追従する天皇にもあきれ果てていたでしょう。そしてその子供である徳仁親王もまた同じ愚を重ねたのです。

「皇室の藩屏」たる宮家や旧皇族・旧華族を完全に敵に回した余波は、紀宮の婚姻の遅れにも影響を与え、現在の眞子内親王・佳子内親王の婚姻にも影響があります。

血筋と家柄こそがもっとも重要な皇室にあって「美と知」がそれを上回る価値があると言い切った平成の天皇と皇后の在り方は、徳川家や宮家の正当な血筋を持つ皇族からしたら相容れないのです。

プラス「お金」と言われたらもっとです。

 

 愛子内親王を皇太子にすることによって皇室の形を変えようとする勢力

なぜこのように「愛子内親王を皇太子に」とかいうサイトが堂々と紹介されたりしたのか。その大きな原因は「天皇の退位と皇嗣誕生」にあります。

 天皇は退位してはならない

これは皇室典範の条項にある文ですが、明治に作られた旧皇室典範で決められました。

江戸時代以前、天皇が「幕府」への抗議の為に退位するという件が多々あり、その度に改元したり、争いが起こったりしたので、明治政府は近代的な世の中では「改元は一天皇一度きり」「天皇の退位は認めない」としたのです。

その代わり、天皇が病気や重篤な精神病になった時は「摂政」を置くと定めました。

 「摂政」に悪印象しか抱かなかった上皇

大正天皇の時、身体の弱い天皇は末期になると政務を行えなくなりました。そこで政府は皇太子を「摂政宮」として天皇に代わり政務を行わせます。

摂政宮というのは、ほぼ天皇と同等の地位にあることです。

これにいい感情を持たなかったのが貞明皇后と言われています。つまり、大正天皇はまだそこまで重篤ではないのに、政府の「大正天皇おろし」により無理に皇太子を摂政にした・・・傀儡にされたと思ったらしい。

大正天皇はとても家庭的な人で、側室も持たず、子供達にも優しく、その分おおらかというか西洋風の生活を好んだりしました。そういう甘さが他の皇族の反感を招き、伏見宮を覗いてほとんどの皇族から見下されていたようです。

真実はわかりませんが、「摂政=政府のいいなり」という考えが平成の天皇の頭の中に刷り込まれていたのは確かでしょう。

認知症疑いをもたれていた天皇は譲位を考え始めます。

色々噂はあります。美智子皇后が生きている間に息子の晴れ姿をみたいと思ったとかね。

でも、とにかく平成の天皇は自分の体調が悪くても「摂政だけはだめだ」と思ったのです。そこには戦前の日本を思い出させるものがあったからでしょう。

天皇の「戦前否定」は相当なもので、昭和天皇との不和もここから来ているのです。

また摂政を置き、皇太子をその地位につけるとボロが出て廃される恐れもあると思ったのかもしれません。

退位出来ない地位に押し上げることが父の愛とでも思ったのでしょうか。

 

 皇室典範に「皇嗣」「上皇后」の言葉はない

徳仁親王の即位により、秋篠宮殿下は「皇嗣」になり、美智子皇后は「上皇后」になりました。

なぜ「皇嗣」なのか。

秋篠宮が徳仁親王の子ではないので。というのです。

しかし、それなら「皇太弟」にすればいいだけの話でした。「皇嗣」というのは皇位継承権のある男子の中で最も有力である程度の意味でしかありません。「大兄」のようなものです。

しかし、政府はそれを認めてしまいました。

恐らく、有識者会議も総理も「皇太弟」と「皇嗣」の違いがわからないのでしょう。

また、「上皇后」という言葉も過去にはありませんでした。

なぜなら、過去において譲位した天皇は100%仏門に入るので、皇后もまた同じ。「院」で呼ばれるのが普通だからです。

本来、天皇の母ですから「皇太后」でないといけないのですが、それでは未亡人になると勝手に思ったんですね。

しかし、上皇が仏門に入るでもなく神道の宮司になるでもなく、仮仙洞御所に新銭湯御所まで建てさせるに至って完全に「二重権威」になってしまいました。

仙洞御所の使用人は御所とほぼ同じ。仮と新仙洞御所の予算は10億を超え・・上皇は自由に皇居に出入りして研究に励む。天皇は行事の度に上皇に挨拶しにいく。これでは天皇は格下になる。

 

 上皇・上皇后が行った掟破りが愛子内親王の立太子を後押し

このように、上皇・上皇后が行って来た数々の「皇室改革」があってはならない「愛子内親王の立太子」という幻想を呼び込み、そして実現できると信じるよすがになっています。

諸悪の根源は上皇と上皇后なのです。

例のサイトは「男女平等論」「長子相続」を盾に愛子内親王の正当性を訴えていますが、それは違います。

過去に、聖武天皇の后、光明皇后と藤原家が無理やり阿部内親王を皇位につけ、国は大きく揺れました。もう少しで皇室とは縁もゆかりもない道鏡が天皇になるところだったのです。

それを阻止した和気清麻呂が現代にいるかと言えば・・・残念ながらいません。

今、もし出来ることがあるとすれば、政府によって「内廷費」を削減することです。

 現在3億の内廷費 → 半減

 使用人を半減

 新御所を狭くする

 御用邸使用件を皇嗣家と共有

 天皇になったのだから奥志賀への静養を認めない

これだけでも十分に効果的と思いますけど。

 

 天皇の地位はあくまで「男系=父が天皇であること」それこそが皇室の権威を保つもの

この事をよく国民は考え、安易に「愛子内親王を天皇に」と考えてはいけません。

万が一愛子内親王が天皇になったら「男系」を保つ為、一生独身でいなければなりません。男系の血筋をなくす「女性宮家」などもってのほかなのです。

また、生まれた時から奇妙な動きや表情しかしない。成績もスキーの腕前も全てにおいて「ねつ造」するような内親王を天皇にしていいのか、よく考えましょう。

 

 

 

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韓国とのゆかり発言に関わる天皇の話

2020-01-09 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 系図だけ作って、いつかブログに書かなくちゃいけないなあと思っていながら機を逸していたのですが。今回は光仁天皇と桓武天皇の話です。

というのも、よく今上と6歳しか違わない秋篠宮が即位する頃には老齢すぎて天皇になれないだろうと週刊誌に書かれていましたよね。

天皇の在位期間と元号は結びついていますし、どういうわけか上皇が「国民に負担をかけないように」と自分より先の即位の礼だの大葬の礼だのに関しては質素にしろと言い続け。いつの間にか国民の間では「そういえば昭和天皇が亡くなった時、社会的な影響が大きくて国民は困ったよな」という印象を受けて、どんどん地味に質素にしていこう、なるべく若いうちに即位させてせめて30年は持たせないとなあと思っている節があります。

しかし、昭和天皇が亡くなった日は土曜日でそんなに混乱はなかったし、確かに亡くなる3か月前くらいから毎日のように報道があり「自粛」ムードがあったことは確かですが、それだって強制されたものではなかったですよ。

それだけ昭和天皇の存在が日本人には偉大だったということで、心配しなくても上皇も今上も、「自粛」になんかなりませんから安心して下さいと言いたいです。

で、高齢で即位した天皇として、真っ先に思いついたのが光仁天皇でした。

何と、彼は61歳で即位しました。

当時の平均寿命って40歳くらいでしょう?だから61歳といったらかなり老齢。後期高齢くらいのイメージです。在位期間は11年。

11年も在位したのか――長生きだったのねーーという感じです。

 光仁天皇について

 709年11月18日生まれ

 祖父は天智天皇、父は志貴皇子

天武天皇即位後、天智天皇系の皇子には皇位継承のチャンスがほぼなくなり、持統天皇や藤原不比等の力が強まり、天武天皇 →持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇と流れていきます。

天武天皇の皇子の中で舎人親王という長生きした長老格がおり、長屋王と共に皇親政治の中核として活躍したのですが、彼の子である淳仁天皇は叔母にあたる孝謙天皇と道鏡の仲を「いけません」と言っただけで廃されてしまいました。

この時代は光明皇后や孝謙天皇(称徳天皇)によって粛清の嵐が吹き荒れ、天皇の子や孫であっても命の保証はなく、逃げても逃げても謀反の罪を着せられて殺されるケースが多かったんですね。

また、臣籍降下してもそれでも粛清されるケースも目立っています。

(長屋王)・・・父は高市皇子(天武の子)母は御名部皇女(天智の子)で血筋は聖武天皇より上で実力者であったのに藤原4兄弟によって殺される。

(塩焼王)・・・父は舎人親王で孝謙天皇の皇女である不破内親王と結婚するも謀反の罪を着せられて臣籍降下したものの、一時は栄耀栄華を誇るも最終的に殺される

(道祖王)・・・父は舎人親王で一時期、孝謙天皇の皇太子に叙せられるも廃太子

長屋王は聖武天皇より出来がよかったし血筋もよかった為に妬まれた・・・と簡単にいうとそうです。孝謙天皇は自分の姉妹でも親戚でも一旦信用しないとなると容赦しないんですよね。それで名誉を傷つけられた人が多数。

長生きしてもちっともいい事なかった時代にあって、白壁王(光仁天皇)は権力とは無関係の立場を貫き通して天皇になったのかなあと。

 

 752年、孝謙天皇の姉である井上内親王と結婚

 754年、45歳の時に長女の酒人内親王、52歳の時に他戸親王を授かる

井上内親王は聖武天皇と縣犬養広刀自の娘です。

縣犬養広刀自と、縣犬養三千代(光明皇后の母)は同じ一族。

広刀自は他に聖武天皇の唯一の皇子である安積親王を産んでいるのですが。安積親王は聖武天皇の留守中に突如死去。結果的に皇位は孝謙天皇に渡るのです。

井上内親王は717年生まれ。721年伊勢の斎宮に選ばれ744年、安積親王の死去によって斎宮の任をとかれる。27歳の時。

そして白壁王の妃となり、37歳で長女の酒人内親王、45歳で他戸親王を産む

 高野新笠との関係

【平成13年天皇誕生日の発言】

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」

この「桓武天皇の母」「武寧王の子孫」が高野新笠になるのです。

武寧王・・・462年~523年に存在した百済王。

和乙継(やまとのおとつぐ)→ 高野新笠の父で武寧王の子孫と言われるが、具体的に武寧王の子のうち、誰の子孫かまではわかっていない。

土師真妹(はじのまいも) → 出雲国造の分流で豪族

「韓国とのゆかり」というより「百済とのゆかり」で(韓国と百済って原則的に違いますので)でも実はどこまでの子孫かわかってないし、高野さんのお父さんはすっかり日本人になっているし。

しかし、いわゆる「渡来系」は中々出世の道が開かれず王様の子孫とはいっても高野新笠は白壁王の側室として入っています。宮人、つまりお女中上がりって事ですね。

733年・・・能登内親王

737年・・・山辺王

750年・・・早良王

山部王が後の桓武天皇です。

彼は生まれた当時は母方の身分が低すぎて、皇位継承からは完全に外れていました。

 770年 即位

 773年 皇后井上内親王と他戸皇太子が呪詛の疑いをかけられて幽閉ののち775年に死亡

 藤原蔵下麻呂の死 → 祟りじゃないか?

即位はしたけど老齢・・・天皇を支えるのは皇后と皇太子の筈です。

ここで一発大逆転劇が起こります。皇后と皇太子が呪詛の疑いをかけられて突如廃され、さらに庶民に落とされて幽閉され同日に亡くなるという事件が起きます。一説には二人とも餓死したと伝えられます。

前述したように井上内親王は聖武天皇の長女ですから家柄・血筋も抜群。無論他戸親王もそれに倣っていくのですが、側室で渡来系腹の山部親王が黙っているわけなく、藤原百川と共に廃皇后・廃太子を画策したのではないかと思います。

血筋も家柄も劣る親王が頼みにするのは権力です。

正当な血筋を廃したことで国は乱れ、天変地異が続きます。

 776年 秋篠寺建立の勅許

私は光仁天皇の気持ちというのがさっぱりわからないんですね。

井上内親王は結婚当時27歳で、当時としては年増というかオールドミス。そういう内親王を半ば天皇の権威で押し付けられた格好になった白壁王。

そこに愛はあったのか?とは思いますが、それでも2人の正当な血筋の親王と内親王に恵まれ、皇后としては非常によい仕事をした筈なんです。

呪詛の疑いをかけられた時に守ってやろうとか、何とかしてやろうとか思わなかったのかなと。

感情が見えてこない天皇ですよね。

ただ、天変地異が続いてその祟りを鎮める為に秋篠寺を建立。秋篠宮の名前の元になったお寺が実は祟り鎮めだったというのは意外というか、そういうことかとも思ったりして。

777年 光仁天皇が病気になる

     山部親王も大病を患う

それこそ「井上内親王の祟りじゃーー!」ということで、墓を掘り返して埋葬しなおしをする。天皇自身にもいくばくかの良心の呵責があったものと感じたいです。

 782年 崩御 73歳

さて、光仁天皇の後を継いだのが桓武天皇で高野新笠の子ですよね。

彼の大きな業績としてじゃ「平城京→平安京」への遷都で、いわゆるここからが平安時代の始まりになるのです。

しかし、彼は非常に掟破りの人物でした

 皇后 藤原乙牟漏(平城天皇・嵯峨天皇の母)

 妃 酒人内親王

藤原氏は臣下、一方酒人内親王は光仁天皇の娘で桓武天皇の異母妹ですから身分は酒人内親王の方が上のはず。ということは本来、形だけでも酒人内親王が皇后にならなければいけないのに、皇后を藤原氏にしているんですね。

その理由は、勿論藤原氏とのつながりを深くする事で権力を盤石にすることでしょう。でも、別の面から言えば「皇后にふさわしい身分は藤原氏」という身分の考え方の転換です。

自分の血筋にはかなりコンプレックスを持っていた彼が、酒人内親王を妃にしたのはとりあえず体面を保つ為だったと思うのですが、皇后が自分より血筋がいいというのは許せなかったんでしょうね。

 早良親王を死においやる

桓武天皇即位時に皇太子に立てられたのは弟の早良親王でした。

しかし、藤原種継暗殺の罪で流罪に。無実を主張した早良親王は食を断ち餓死。

桓武天皇は井上内親王と他戸親王に行った粛清を実の弟にも行ったわけです。

以後、祟りを恐れて遷都するということになるんですけど。

やることが韓流史劇だよなーーと思ってしまい、やっぱり血は争えないのかと感じます。

また桓武天皇は沢山の宮人を側室に置いていましたが、その中に沢山の百済人の娘がいたのです。

自分のルーツを考えたんだろうなとも思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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