朝の東宮御所は静かに明けるのが常だった。
皇太子が独身時代は。
起床は6時と決まっている。7時には食堂に降りて食事をして今日の予定を確認する。
外出予定がなければビオラの稽古か読書をする。とはいってもそんな風に「何もない」日はわずかなのだが。
時折は学友達を招いて酒を飲む事もあるし、あるいは集まりに顔を出す事もある。
東宮御所は半分は公的な場所であるから、常に綺麗に整えられ、時間もきっちり守られているし
調度品などはしかるべきものを選んで置いている。
私室は皇太子の好みによって色や素材が決められているが、誰がどう決めても皇太子は反対はしない。
「皇太子は怒ってはいけない」という事をしつこく教えられてきたからだ。
「皇太子が怒ればそれは職員の進退問題にまで発展する」というのがその理由。
だから今までは全てにおいて「よきにはからえ」でやってきたのだ。
皇太子は辛抱強く椅子に座っていた。
朝から寝室では「朝でございます。どうか起きて下さい」という女官の声が響き渡る。
朝7時から始まる朝食の時間は大幅にずれ込んですでに8時になろうとしている。
それでも皇太子は黙って座っていた。
「あの・・・お先に召し上がられては」
侍従の言葉に「いや・・もう少し」と答える。自分だけ先に食べ始めてしまってはきまずいだろうとの
心遣いだった。
「しかし。今日はご接見もございますし。早めに支度を始めないと」
恐る恐る侍従が言い始めた所に、女官長がため息交じりに降りてくる。
「ただ今、いらっしゃいますので」
心なしか女官長は怒っているようだ。いつもこんな風景が繰り広げられる。
「殿下、恐れながら妃殿下は東宮御所での生活になかなか馴染まれません。公的な性格のある
生活であるという事に反発を強めておいでです。しかし、皇太子妃という立場はそういうもの。
どうか殿下から妃殿下にお話し下さい」
と侍従長に諭された記憶もある。でも、結果的に皇太子は何も言えなかった。
自分より頭がいい女性に対してそんな事をいうのは気がひけたのだった。
マサコは不機嫌な様子で食堂に現れた。すぐにコーヒーが運ばれてくる。
「おはよう」皇太子は笑顔で声をかけた。
「ああ・・おはようございます。ああ、ご飯はいらないわ。コーヒーだけでいっていつも言ってるわよね」
運ばれてきた朝食をマサコは手でぐいっと遠ざける。
「どうして食べないの?朝はきちんと食べないと体に毒でしょう」
「私、独身時代はいつもコーヒーだけだったの。それに和食って馴染めません」
「じゃあ、パンにすれば?」
「パンって・・・銀座の中村屋のパンじゃないでしょう?いくら言っても聞いてくれないんですもの」
「中村屋っていう所のパンはおいしいの?どうしてダメなの?」
皇太子は女官に尋ねる。女官は答えに窮し、すぐに女官長に言いつけに行った。
女官長は「殿下。東宮御所の食事は全て大膳で作られており、その食材は全て御料牧場から
とられているのです。それはとても贅沢な事でございますよ。民間の食べ物を口になさらなくても
いいという事です。
また、パン1個といえどもそれは税金です。御料牧場の食材は両陛下と東宮家のみ
全て無料です。
他の皇族はお金を出して買わねばなりません。そのように恵まれ立場におられるのですから
どうか無駄遣いは」
やんわりとだが、女官長の言い分はもっとも。皇太子はうんうんと頷いた。
「皇太子妃ってつまらないわね。たかがパン1個も買えないなんて。そういう身分になるんだったら
最初に教えてくれたらよかたのに」
「マサコ・・・?でも僕たちは恵まれていると」
「好きな時に好きなものも買えない身分のどこが贅沢なんですか?あなた、皇太子でしょう?将来は
天皇になるんでしょう?日本で一番偉い存在になる人がたかがパン1個買えないってどういう事?
あなたが銀座で何か買ったら誰が反対するっていうの?それこそお門違いじゃないのですか?
そもそも私にだって好きなものを食べる権利くらいあるんじゃないの?そんなちっぽけな権力もないなんて。
あんまりだわ」
「・・・・女官長。パンくらい買ってもいいでしょう」
そういうと、女官長はびっくりした目で皇太子を見つめた。そしてちらりとマサコを見る。マサコは
してやったりという顔をしている。
「はい。では明日の朝はそういたしましょう」
「それから殿下。私、今日は皇居に行きたくないんです」
そういえば、今日は月に何回かの食事会。両陛下とノリノミヤ、アキシノノミヤ夫妻と一緒に夕食と
その後のお茶を楽しむのだ。
「何で?いつもある事じゃないし」
「妊娠したのがアキシノノミヤ妃ではないですか。私は肩身が狭いし、これ以上子供をって言われるのは
耐えられないんです。両陛下は私を嫌っているし」
「嫌ってなんかいないでしょう。いつも優しく接して下さっているんでしょう」
「あなたにはそう見えるのね」
突然マサコは泣き出した。皇太子はぎょっとしてオタオタとうろたえ始める。
「私がどんなに疎外感を持って生きているかわからないんでしょう。そうよね。あなたは元々
皇族なんだし。私の気持ちはわからないでしょうね」
皇太子は助けを求めるように女官長をみたが、彼女は知らん顔をしている。また始まった・・・という具合だ。
「わかったよ。今日は僕だけ行くから」
皇太子の判断に侍従も女官もみんな顔をしかめ、ふうっとため息をついた。
マサコは機嫌を直したのか「もっとコーヒー」といいつけ、にっこり笑った。
(皇太子って権力がないの?)
マサコの素直な問いは皇太子の頭の中に大きく残った。今まで考えたこともないけど・・・
皇太子は権力がないのか?あるのか?
マサコの言う通り、今までが人間らしくない生活だったのではないかと思い始めていた。
「早く。支度を早くしなさい」
いらだった声が響いた。
キコははっとして服を着替える。念入りに化粧をして目の下のくまが見えないように工夫する。
けれど・・・昨夜も眠れなかった。
ヒサコに言われた「皇太子妃殿下より先に妊娠するなんて」という言葉が胸に突き刺さっているのだ。
その後、女性週刊誌で「出産と仕事、どちらが大事か」とか「女性の幸せは」という特集が組まれる度に
皇太子妃と自分が比較対象されて、あれこれ言われているのは知っている。
マコを産んだ時は日本国中が祝福ムードだったのに、今回は違う。
「もし男子出産の場合は東宮家に先んじて皇位継承者が生まれる事になる。そうなると将来の
天皇が宮家の男子より年下になってしまう」などと馬鹿な事を書く雑誌もあり
「皇太子夫妻とアキシノノミヤ家のバトル」のような書き方もされ・・・・どちらにせよ悪者はいつもキコだった。
一番我慢がならないのは「キコ妃は好きで皇室に入ったし次男の嫁だからプレッシャーが少ない。
それをいい事に皇太子妃に対して不遜な態度をとっている」という印象操作がなされている事。
「キコ妃の妊娠がマサコ妃にさらにプレッシャーを与えている」というのもある。
そんなつもりはないのに。
自然に妊娠しただけなのに・・・・・キコは傷つき、何日も枕を濡らした。しかし、それはいわゆる
「マタニティブルー」としてあまり深く取り合ってもらえなかった。
カワシマ家に帰りたい。母の手作りの料理や父の漢文に触れる日々に戻りたいと思ったが、突然の
里帰りすら許されない身。無論、こっそりと手紙を・・・という手もあったが、
そんな事を受け入れる両親ではないし。
「オールウェイズスマイル」が父の信条であり、キコに授けてくれた知恵だ。
そう思って今まで頑張って来たが、そのスマイルですら「わざとらしい」と言われるとは。
「何をしている。職員を待たせてはダメじゃないか」
とうとう部屋まで宮が迎えに来た。キコの悲しげな顔を見ると宮の目は釣りあがる。
「不機嫌な顔をしない。誰にどう見られているかわからないんだから。
僕ら皇族は相手を不快にさせたり、心配をかけたりしてはいけないんだよ。何度も言ってるだろう」
「はい。申し訳ありません」
「だったらもっと早く行動して。1分待たせれば多くの人に10分の迷惑がかかる」
キコは諦めて、すぐに気持ちを切り替えようとした。
「皇太子妃は具合が悪いのかね」
食事会はいつになく和やかに始まった。
天皇の問いに皇太子は「ええ。疲れているようですので失礼いたしました」
「疲れているって・・・公務が忙しいのか」
「マサコには何もかも慣れていない事ですから」
「あら、結婚して1年も経つのに慣れていらっしゃらないってどういう事なの?」
ノリノミヤはしらっと言い、皇后が目配せして止める。
皇太子はちょっとむっとして
「マサコは結婚前の環境と全く違う場所に来たんだから仕方ないだろう」
という。天皇は少し眉をひそめて
「人間、慣れない環境には常に慣れていく努力が必要だし、この食事会も単なる楽しみではないと
知っているだろうね。皇太子はそのあたりの心得をきちんと教えているのか」
「陛下。私にも色々そういう辛い時はありましたし」
皇后が笑ってとりなす。そう言われると天皇は何も言えなくなった。
「それにしても皇太子妃殿下は体調を崩しすぎるのではありませんか?公務も欠席しがちと聞きましてよ」
ノリノミヤはお茶のカップを口元に運びながらいう。
「たまに会う機会がある時はとてもお元気そうなのにね。検査でも異常はなかったのでしょう?」
「サーヤ。マサコはお前たちとは違うんだよ」
皇太子の声は少し怒っている。
「まあ、私達と違うって」
「サーヤや宮妃のようにのんきではいられないという事さ」
その言葉はキコの心にぐさっと突き刺さった。
「どういう意味かしら?私達、決してのんきに生きているわけではありませんのに。お兄様、おかしくてよ」
「おかしいのはそっちだよ。結婚してから毎日のように世継ぎ世継ぎって言われて。そうかと思えば
宮妃が先に懐妊して。園遊会でマサコに「おめでとうございます」と言った人がいたらしくてマサコは
いたく傷ついていた。「私じゃありません」って答えるのが精一杯だったんだよ。誰もがキコ妃のように
すぐに子供が出来るわけじゃないんだし」
「やめなさい。ナルちゃん」
皇后が気色ばんだ。沈黙が席を覆う。キコは急に気持ち悪くなって立ち上がる。
「どうした?」宮が心配そうに声をかける。
「大丈夫。少し風に当たってまいります」
キコは部屋を出た。宮が後を追ってきてくれないかと期待したが、そんな事あるわけなかった。
人前では殊更に亭主関白を気取る人なのだ。
つわりで苦しむ程度の妻の心配をする人じゃない。
「妃殿下。侍医をお呼びしましょうか?陛下のおぼしめしです」
すっと女官が寄ってきた。
「いいの。ありがとう」
キコはにっこり笑った。
「中座して失礼してしまったわ。よくないわね。こういうの」
「そんな・・・妃殿下は常のお体ではないのですから」
ドアがぱたんと開き、現れたのはノリノミヤだった。
「お姉さま、大丈夫?別室に参りましょうよ。冷たいお水をお持ちするから」
「いいのよ。ノリノミヤ様はお部屋にお戻りになって。私はすぐに治まるし」
「東宮のお兄様が変ってしまったようで。私は嫌なの」
「皇太子殿下はお優しいだけです。まだ新婚でいらっしゃるし」
「お姉さま達だってそうじゃありませんか。お兄様ったら様子を見にもいらっしゃらない」
「そんな事して私をかばいだてすれば私が殿下を操っているように見えるから。殿下は広い目で
ご覧になり判断していらっしゃるのです」
自分の口から出てくる「優等生」の答えに嫌気がさす。もっと素直に感情を出して泣いたり笑ったり
出来たらどんなにいいか。だけど・・宮はそれを許さないだろう。
宮の厳しさは自分を鍛えるものだとわかってはいても、時には例外が欲しかった。
「私がついていてよ。ご心配なさらないで」
ノリノミヤの言葉だけが心強く聞こえるのだった。