今日は頑張って月組を見てきました。何だか・・・不思議な感じが
しました。
カラマーゾフの兄弟と「はみだしっ子」
一昨日、雪組の「カラマーゾフの兄弟」を見てきました。
感想は こちら
脚本・演出の斎藤吉正は昔のような自分勝手な部分を抑えて、観客
主導の舞台を作る事が出来るようになり、非常に成長したと思いますが
彼の成功の元になっているのは何といっても寺島民哉でしょう
ミュージカルは音楽なしでは成立しないし、どんないいストーリーでもいい
音楽がなければヒットしないのです
そういう意味でははちゃめちゃな「エル・アルコンー鷹」の評判がいいのも
今回の「カラマーゾフの兄弟」が面白いのも全て音楽のおかげではないかと。
さて、「世界初のミュージカル化」という事で多少自画自賛気味があるし、
ヅカファンも「原作に忠実ではないかもしれないけど、面白いんだから
いいんじゃないの?」という意見が多く、まあ、そうだろうなと思います。
でも一方で「だから宝塚は」とか「やっぱり宝塚は」って言われるのは嫌
だなあとも思い・・・・ つまりストーリー展開やらセリフのやりとりは
そう言われてもしょうがないものだったのは事実です。
原作を読んでもさっぱりわからなかったけど、解説文を読み、さらに
指摘された箇所を読むと、さらっと読み飛ばしてきた部分に重要な意味が
ある事にびっくりして「こんなに意味が深かったのか」と唖然とします。
カラマーゾフという苗字の意味
スメルジャコフは「嫌なにおいの男」という意味?
スメルジャコフの母のリザベータとリースがなぜ同じ名前なのかとか?
イワンとリーズの関係・・イワンはサディストだった?
リーズが足が悪い意味 アリョーシャが僧院を出る意味
フョードルとドストエフスキーの名前が一緒の意味
スメルジャコフが癲癇を患い、イワンが幻覚症を患う意味
あれやこれや考えると、斎藤氏のいう「テーマは衝動」だなんて簡単に
言えるような内容ではないという事がわかるのですが。
でも翻訳本を読んでいて、ここまで理屈っぽく考えて描く漫画家が一人
いたなーと思いだしました。そう「はみだしっ子シリーズ」の三原順です。
彼女の代表作「はみだしっ子」シリーズの後半、「連れていって」になると
まさにドストエフスキーも真っ青のモチーフと哲学や心理学だらけになるのです。
「カラマーゾフ」は「父殺し」の話ですが、「はみだしっ子」の主人公達が
全員親からの虐待を受けた家出人であること、グレアムは自分が犯した
殺人ではないのにずっとこだわり続けて被害者の妹に殺されにいくあたり
ちょっと似た部分があるなと感じました。
お暇があればぜひご一読を・・・・絶版になってるかな?白泉社から出てると
思うのですが
瀬奈じゅんと霧矢大夢の蜜月
「夢の浮橋」「アパッショナード」を見てて思ったのは、月組において
瀬奈の相手役を指定しなかったのは霧矢を相手役にしたかったから
なのかーーと単純に思いました
仲のいい人をとりわけ大事にする瀬奈じゅんの事、新しい娘役を横に
置くよりも馴染みのある霧矢を横に置いた方がやりやすかったのでしょう
芝居においては城咲あいも羽桜しずくも結局は脇役で、本当の関係は
霧矢の方に重心があるようでしたし、ショーでは霧矢に女装させて
情熱なラブシーンを演じさせるわ、トップ娘役の位置に置くわ、破格の待遇
というか、完全に瀬奈じゅんの相手役的な存在になっています。
これを「娘役トップがいないから」ではなく「霧矢の為にそうした」と
言われてもしょうがないよなーーと
そう考えていくと、大空祐飛が花組に飛ばされた理由もわかるような気が
するし。
両刀使いさせる明日海りおの扱いもかなり群を抜いているというか、
そこまでの人なのかちょっと考えてしまうけど
でも、こんな風に娘役をないがしろにしていいのかーー?
きちんとトップ娘役がいて活躍の場があるならともかく、そうではないのに
男役がガンガン女装して出てきたりすると「ああ、本当に男役だけいれば
いいわけね」と思ってしまいます。
でも芝居と言うのは男と女が織りなす物語だし、様式美の世界ではどんなに
頑張っても男役は娘役のようなたおやかさやかわいらしさは出せないでしょ。
それに男役と娘役の対等な「愛」が宝塚の売りの一つであると
考えると今の月組のような陣容は個人的に認められませんね。
瀬奈の次の作品「サウダージ」も男役ばかり出るお芝居のようですし。
こんな風に男役ばかり大事にしていると、今に報いを受けるぞ
と言いたい心境です。