「どうしよう。どうしたらいい?」
皇太子はうろたえて部屋の中を行ったり来たりしていた。
「落ち着いて下さい」
侍従長は必死に宥めたが皇太子は聞く耳を持たないようで
ひたすら「どうしよう」とつぶやき続けていた。
「軽井沢へ迎えにいけばいい?」
「なぜですか?」
「なぜって・・・・マサコの様子もわかるし」
「公務がございましょう」
「・・・じゃあ、電話。電話して下さい。軽井沢に」
暫くすると電話をしていた女官が戻ってくる。
「妃殿下はお加減が悪く、お電話には応じられないそうです」
「どこが悪いの?また帯状疱疹?」
「さあ・・・そこまでは・・・・」
「どうしよう」
おろおろとする皇太子に側近たちは心底うんざりしたようにため息をついた。
マサコの不調は嘘である事、軽井沢へは家出同然で逃げ出したという事くらい
みんなわかっている。
わかっていないのは皇太子のみ。
「殿下」侍従長が諭す。
「妃殿下がお帰りにならなくても皇太子殿下は毅然としているべきです。
うろたえたりおろおろしたりしてはいけません。
何より殿下には公務がございます。それを最優先にしなくてはいけないのです。
妃殿下のわがままに付き合っては」
「わがままなんかじゃない」
皇太子はそれこそ「毅然として」言った。
「マサコは宮内庁に苛められたんだよ。世継ぎを産めとか言われて。
女性に対してそんな事を強要していいと思っているのか?東宮大夫も宮内庁長官も
元々マサコを気に入らなかった。
なぜかってそれはマサコが頭がよかったから。学歴があって仕事もしていたから
生意気だと思ったんだよ」
「皇室の繁栄の為にお世継ぎを・・・と望むのは当たり前の事ではありませんか?」
「そ・・そうかな」
「そうです。皇統はきちんと継承されていかなくてはなりません」
「アイコがいるもの」
ああ・・・侍従は頭を抱えた。2500年の歴史を学んでいる筈の皇太子はいつから
こんな思考停止に陥ったのだろう。女性に皇位継承権がない事くらい常識だろう。
自分で作るのが嫌ならなぜ弟宮に言わないのか?
「アイコは僕の娘だ。将来は天皇の娘になる。たった一人の子供だよ。そのアイコに
皇位継承権を認めない方がおかしい。過去に女帝は何人もいるんだから
愛子に皇位継承権を持たせて、将来の天皇にすればマサコだって」
「お妃が皇位継承に意見をするなど考えられない事でございます」
「だって雅子は皇太子妃だもの。そういう事いう権利はちゃんとあると思う」
皇太子は譲らなかった。妙な所で頑固なのである。
「陛下からお召でございます」
女官が告げた。
皇太子はびくっとすると「行かなくちゃダメ?」と聞いた。
「はい」
侍従長ははっきりとそう言った。
皇太子の脳裏には前年の記念写真撮影の記憶がよみがえった。
アイコの障碍がわかってからマサコは参内する事を極端に嫌がるようになり
避けて通っていたのだが、12月の中旬に行われる「正月用」の写真撮影は
避けられなかった。
アイコはすでに「おむずかり」をするようになっていて、養育係が数人で必死に宥めるような
ありさま。そういう光景を見せるのも嫌なら見るのも嫌なマサコ。
多分、陛下は「すぐに専門の教育係をつけよ」と言うに違いない。
そんな風に口出しされる事がたまらなく嫌なのだ。
マサコにとってそれはプライドの崩壊に違いないし、自分が責められているようでたまらなく
嫌だったし、まだ心のどこかで「娘は障碍ではない」と思っていた。
それに、この事でアキシノノミヤ家の産児制限が解かれたなら・・・・
そんなわけで、その時の「記念写真」撮影会は「氷の団らん」の始まりだった。
沢山のおもちゃをばらならに並べた真ん中にアイコをおき、皇太子夫妻は彼女に
つきっきり、アキシノノミヤ家は傍観するだけの。
撮影時間ぎりぎりにやってきた皇太子一家は天皇や皇后に挨拶もそこそこに
勝手にロケーション体制を取り始める。
「トシノミヤ、こっちへいらっしゃい」と皇后が呼ぶのを無視して、マサコはアイコを
離さなかった。その異様な雰囲気に、天皇も皇后も何も言えなかった。
「妃殿下、陛下がトシノミヤをとお召ですよ」とノリノミヤが口をだしたが
「この子は私じゃないとダメなのです」と譲らない。
マコもカコも小さい宮と遊びたいと思ったが、母親が仁王立ちしててとても無理だった。
撮影の主役は東宮家だった。
おもちゃの真ん中に座らされたアイコはさながらハリウッドセレブの子供のように
一つのおもちゃを持っては投げ、またすぐに興味を持つと手を伸ばし・・・・
両脇には両親がびったりくっついて、皇族はみな見守っているというような図式だった。
外敵から守るようなマサコの態度にみな不愉快になったが、誰も何も言わなかった。
しかし、どんなに頑張っても雰囲気には出る。
そういうものを察したのか、写真撮影が終わるとマサコとアイコはさっさと帰ってしまった。
療育の話をしようと思っていた天皇も皇后もどうしようもなかった。
千代田の側近たちも皇太子妃の態度に腹を立てていた。
とりわけ皇后が何も言わない事にさらにいぶかしく思う。
昔、皇族方から「苛められた」とされる皇后は、だから皇太子妃は甘いのだろうと
思われた。
「そうはいってもご成婚から10年以上経っているのにこのありさまでは。
皇后陛下の采配が悪いとしか」
「いやいや、皇太子殿下が何もおっしゃらないから」
結局はそこに行きつく。
それゆえに、今回の「軽井沢籠城」事件は側近たちにしてみれば
皇太子の目を覚ますいい機会だととらえた。
今の今まで皇太子たる者をここまでないがしろにした皇太子妃がいたろうか。
あの藤原高子だって・・・・
そんな平安の大昔の事くらいしじか思いつかない。
「殿下、ここはしっかりとなさいませ」
侍従長は皇太子のネクタイを直しながら言った。
「妃殿下は皇室に向かなかったのです。ここは潔くお別れすることも視野に入れて。
そうでないと皇室そのものの権威を貶める事になります」
しかし、皇太子は答えるどころか口を真一文字に結んでぷいっとそっぽを向いた。
「とにかくお召ですから大急ぎで」
皇太子は終始無言だった。
「一体どうしたというのか」
私室に通されるなり、天皇は怒りの声を上げた。
「皇太子妃が宮を連れて実家の別荘に静養に行くなど考えられない事だ」
「なぜ御用邸を使わないのですか」
皇后も押し殺したような声で言う。
「去年の冬から病気をした事は可哀想だと思っている。だから公務に出なくても
態度が多少おかしくても目をつぶって来た。
しかし、今回の事は大目に見る事は出来ない。軽井沢行は皇太子が承知した事なのか」
天皇の問いかけに皇太子は黙ってうつむく。
「何とか言わないか」
「マサコは傷ついているんです。アイコの事で色々言われたし、世継ぎのプレッシャーを
かけたりするから」
「誰がプレッシャーをかけたと?」
「おもうさまとおたあさまです」
その言葉に天皇も皇后もぎょっとした。
「アイコに皇位継承権がないからって次を産めとか言ったでしょう?」
「そんな事言ってない」
「いえ、東宮大夫が陛下の意を受けて申したのです。だから言ったも同じ事です」
「天皇家にとって世継ぎは大事なことだ」
「だからアイコがいるじゃありませんか」
「女性は天皇にはなれない」
「そこがおかしいって言ってるんです」
皇太子は大声を出した。
「アイコが女の子だっただけで僕達はこんなにおかしくなったんです。
アイコが男だったらこんな事は起こらなかった。そうでしょう?
アイコに罪はありますか?生まれてきた事に間違いがありますか?
ないでしょう?アイコが女の子でも僕達にとっては大事な子供ですし
将来は天皇の娘。今だって皇太子の娘。弟の所とは格が違うんだ。
だのにみんながマコやカコといっしょくたにするから、何が何でも男を産まなくては
いけないなんていうから。
こんな不幸な事態を引き起こす皇位継承ってなんですか」
天皇も皇后も絶句した。
何と言う・・・・何という考え方をするのだろうか。
しかし、皇太子のその言葉に言い返す事が出来ない事も確かだった。
憲法では国民は自由で平等であると説く。
結婚は両性の合意の元に行われる。戦前のような家同士の利益の為に決められる
結婚は不幸だ・・・とずっとそう考えて来た。
天皇が皇后を選んだのも、そういう意味では「悪しき伝統をぶち壊す革命」と言えただろう。
互いの「愛する」という感情をもっとも大事にしてきた天皇にとって、
皇太子がマサコに執着する気持ちがよく理解できる。
これは理屈ではない。感情なのだ。目に見えず、理屈が通らず意味不明な。
「そ・・・それとこれとは別だろう。アイコの問題は女の子であるという前に」
「陛下は障碍を公表しようとおっしゃるんですか。よくもそんな事を?あまりにもひどいじゃ
ありませんか。そんな事をしたらマサコがどんなに傷つくかお考えになった事が
ありますか?世間に堂々と障碍児の母ですって言うのですか?」
「ヒロノミヤ」
皇后はなだめようとして幼名で読んだ。
「トシノミヤはこれから皇族として生きて行かなくてはならないのです。
障碍であろうとなかろうと、しっかりとした内親王としての教育が必要です。
トシノミヤの歩みは他の同年代の子よりもゆっくりとしたものになるでしょう。
隠していれば必ずおかしく思われるでしょうし、疑いをかけられます。
それだったら先に公表し、トシノミヤの立場を楽にしてあげるのが親の愛では
ありませんか。後々後悔することのないように」
「どうしておたあさまはそんな事をおっしゃるのですか?アイコは普通です。
普通の子なんです。どこの世界に堂々とそんな事を言いたがる親がいるでしょうか」
その言葉は皇后の胸に突き刺さった。
皇后は言葉を失って、慌てて運ばれてきたお茶を飲む。
「・・・・皇后はねむの木学園やアサヒデの障碍児に深く心を寄せている。決して
恥になど思っていない。トシノミヤとて同じだ。障碍があろうがなかろうが、私達の
可愛い孫に違いない。それではいけないのか?」
天皇の血を吐くような言葉も皇太子には通じないようだった。
「僕はいいです。何と言われても。でもマサコは。マサコはハーバードを出て外務省に
入った優秀な人なんですよ。本当に優秀なんです。そんな人がこんな事に耐えられると
思いますか?子供を産んだ責任は女性にだけあるんじゃないと思います。
きっと・・きっと皇室の血が。だってイケダのおばさまもタカツカサのおばさまも」
「東宮!」
天皇は怒鳴った。
「お前は私の姉達を馬鹿にするのか」
天皇の怒りに皇太子はびくっと震えた。目からは大粒の涙が零れ落ちる。
「馬鹿になんかしてません。でもそうやって言われたらおもうさまだって怒るじゃありませんか。
マサコだって同じです。世間にアイコが自閉症だなんて言われたらどんな傷つくか。
子供の・・・子供の人権にかかわる事だと思います」
あっけにとられる。
天皇にも皇后にも目の前にいるのは息子ではなく、大きなモンスターに見えた。
一方で、そういうものを生み出したのは自分達であるという事もうすうす感じてはいた。
「僕は、マサコと別れたくないんです。マサコだけなんです。僕と結婚してもいいと
言ってくれたの。マサコは僕に色々楽しい事を教えてくれました。子供も産んで
くれました。それなのにみんなで彼女を悪く言う。何でなんだろう・・・・どうしてなんだろう」
しくしく泣き募る皇太子の手をとり、皇后は一緒に涙を流した。
息子が不憫でしょうがなかった。ひたすら不憫で。