2001年12月1日 愛子内親王誕生
称号 → 敬宮(としのみや)
御名 → 愛子(あいこ)
お印 → ゴヨウツツジ
称号というのは天皇の実子にのみ与えられるもので、徳仁親王は浩宮、文仁親王は礼宮、清子内親王は紀宮で、実際にマスコミを通しても「・・宮さま」と呼ばれるのが普通。
称号と名は天皇が決めて下賜されるのが普通。
しかし、「敬宮愛子」という称号と名は皇太子夫妻が決めて、天皇がそれを認めた事になっています。
名前について言えば、通常は普通に読まないようにするんです。例えば「清子」(さやこ)通常はきよこ、せいこですがあえてさやこと読ませる。眞子さまも「まさこ」と読むけどまこにしています。ところが愛子は「あいこ」と普通に読ませています。しかも大正天皇の生母である「柳原愛子)やなぎはらなるこ」と被っていることで、皇室ウォッチャーは違和感を覚えました。
称号と名の出典は「孟子」と言われています。しかし、一般的には西郷隆盛の「敬天愛人」じゃないのか?と言われています。
お印とは、皇族が全員持っているお印で身の回りのものにつけたりします。
眞子様 → モッコウバラ
佳子様 → ゆうな
悠仁殿下 → 高野槇
2001年12月1日 天皇陛下から守り刀を賜る「賜剣」の儀が行われる。
しかし、この後、古川東宮大夫は桐箱を落とす、「賜剣ふみつけ」事件が起きる。
2001年12月2日 小和田夫妻が見舞いに訪れ、記者会見
まるでお通夜のような・・・と揶揄された記者会見。予定では親王の筈だった。
優美子さんがつけているブローチは雅子妃のもので、国家財産を私的に使いまわししていることが判明。
また、天皇皇后より先に病院に見舞った為、「順番が違う」と皇后はお怒り。
雅子妃の出産は、分娩室に入って30分もたたないうちに出産だったため、本当に自然分娩だったのかと疑惑を持たれています。別に帝王切開ならそれでいいのに、なぜ隠すのかわけがわからない。
2001年12月7日 沐浴の儀
2001年12月8日 宮内庁病院を退院
2002年3月13日 賢所皇霊殿に謁するの儀
プロトコルでは、妃の服装はローブモンタントでなければいけないのに、普通のスーツで臨んだ。儀式の簡略化はここからも見てとれる
天皇から下賜された白羽二重の産着を着ている内親王
2002年6月27日 生後半年の内親王
2002年8月16日 沼ッ原湿原にて背負子に内親王を乗せて歩く皇太子
2002年10月28日 御料牧場にて
2002年10月29日 静養から帰京時
2002年12月1日 内親王1歳。皇居に参内
2002年12月5日 ニュージーランド・オーストラリア訪問前の記者会見
お陰さまで,とても今のところ身体が丈夫で,そしてまた,おおらかな性格といいますか,皇太子さまに似ましたのか,何ていうのかしら,ゆったりと,どっしりとしておりますので,その点健康に恵まれた子供を持っているということは,そうでない方もたくさんいらっしゃるわけなので,本当に恵まれたことだと思って有り難いことと思っておりますし,また,こちらでは子供の世話を手伝ってくれる職員も配慮していただいて,手配していただいておりますので,公務などとのことで私自身が面倒を見ることができない時も,そういった職員がよく面倒をみてくれていることもとても有り難いことと思っております。
問題発言にカチンときた人も多かったのでは。でも、この発言は次の発言にかき消される。
「正直を申しまして私にとりまして,結婚以前の生活では私の育ってくる過程,そしてまた結婚前の生活の上でも,外国に参りますことが,頻繁にございまして,そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから,6年間の間,外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は,正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます。
2003年2月23日 皇太子の誕生日画像
0歳から1歳半までの内親王はかなり露出されていましたし、東宮家の静養三昧もかなり大目に見られていました。
この時期、雅子妃は第二子を期待されていましたが、早々に産まない選択を。
ゆえに「愛子天皇」論が出てきます。