1995年1月17日。
その日、雅子様は普通に午後に起きたのですが、どうにも部屋の外が騒がしいようです。
早く朝ごはんが欲しいと言おうとしてドアを開けると、誰もいません。
「誰かいないの」と叫ぶと、女官が慌てて飛んできました。
「あ・・おはようございます。妃殿下」何だかその女官は泣いているようでした。
雅子様は「朝食」とだけいい、食堂に行こうとリビングを通りかかった所で、「雅子」と皇太子様に呼び止められました。
「大変な事が起こったよ」
「何?」
「関西の方で大きな地震があって、連絡が取れないそうなんです」
関西というと大坂とかそっちの方か・・・雅子様は眠そうに考えました。
「震度5くらい?」
「そうかな。でもNHKにもなかなか連絡が入らなくて」
侍従も女官も心配そうな顔をしていますが、雅子様は何がそんなに心配なのかわかりません。
雅子様は構わず食堂に入り、朝食を食べました。
それからしばらくして、リビングの方から「おお・・・」という声が聞こえてきました。
神戸市の長田地区が火にまみれ、高速道路が見事に倒れている映像がテレビに映し出されたのです。ヘリコプターからの映像はそれは日本の風景とは思えず、みな、呆然と画面をみています。
「親戚と連絡がとれないの・・」と思わず泣き声で話している女官もいます。
雅子様はこれまでこんな悲惨な風景は見た事がありませんでした。
とても・・そう、とても信じられなかったのです。
だって東宮御所の庭はいつも通り冬の風景だからです。
「大変ね」と雅子様は精一杯同情して言いました。
皇太子様も多少顔色を変えています。
そのうち、宮内庁から事務官がやって来て「両殿下にお話が」と言います。
なんだろうと、思っていると、なんと21日からの中東訪問を中止にした方がよいだろうという話だったのです。
「え!何で?」
思わず雅子様は叫びました。
「国の大事だからです。こんな時に中東へ行っている場合ではないではないかと」
「そうだね・・・」皇太子様も頷きます。
「それではさっそく、あちらに報告を・・・」と事務官が言いかけた時、雅子様は「やめてよ!」と叫びました。
何事かとみなびっくりして雅子様を見ました。
「どうして中東行きを中止しないといけないの?その理由はなに?」
「妃殿下、関西では未曾有の震災が起きております。被害はこれからますます広がっていくでしょうし、皇族方にとっても他人事ではありません」
「関係ないでしょ!それって関西の話でしょ?日本の話じゃない」
その「日本の話じゃない」という言葉に事務官はぽかんと口をあけてしまいました。
「私達が中東へ行くのは公務でしょ?みんないつも公務優先って言ってるじゃない。何で今だけそうじゃないの?矛盾があるわ」
「しかし・・・先年の奥尻島の地震と津波が来た時、両陛下は静養中でお帰りになりませんでしたが、その事がかなり批判されました。国民と共に歩む皇室であれば、こういう震災などの大規模災害があった時は皇族は慎まないと」
「遊びに行くわけじゃないじゃない」
雅子様は頑として譲りません。
「行くわ。絶対に中東へ行く。地震なんて関係ないもの」
「でもね、雅子、後で国民に批判されてしまうしね」
「何でよ!震災と私達の公務、関係ないでしょう」
「ですから、こういう時はすぐに被災地へ駆けつけるとか」
「あんな画面見てこれから被災地に行くなんて考えられない」
雅子様はとうとう大声を出して泣き出してしまいました。
「意地悪ばっかり!あんなに外国へ行かせてくれるって約束したじゃないの!外交官が関西で地震があったからって赴任先から帰って来る?帰って来ないわよ!」
事務官はもう何も言えず「長官並びに政府に相談いたします」とだけ言って去っていきました。
それでも激した雅子様は「約束したわよね!」と皇太子様に詰め寄ります。
皇太子様は困ってしまって「それは平和な時は・・・」
「今まで一度しか外国へ行けてないのよ!これだけでも十分に約束違反だと思う。もうお父様にいいつけるから」
雅子様は泣き顔のまま、自分の部屋に入るといきなり電話をかけ始めました。国際電話です。誰にかけたかはもうご存知でしょう。
テレビでは全ての番組が中断されて関西の惨状を報道していました。
長田地区の火事はどんどん広がって建物を壊していきます。
すさまじい都市火災が起き、地元の人達はどこへ非難すべきかと右往左往しています。
また高速道路が壊れたし、線路もダメで、大阪から兵庫県に入る手段がありません。
仕事帰りの人も呆然とするばかりで、それはそれは恐ろしい光景でした。
暫くすると、宮内庁長官がやってきました。
すでに諦めたような顔です。
「両殿下の中東行きは中止いたしません。予定通りに出国します。前に一度中止している経緯もあり今回は断る事は出来ませんので・・という事にしておきます」
こうして、皇太子夫妻の中東行きは決まったのでした。
1995年1月21日 クウェート到着。
雅子様は最初から赤を着ようと思っていました。だって赤はご自分にとって最も似合う色だからです。
主張を表敬訪問。
クウェートから見える景色は本当に広くて素晴らしく、雅子様は熱心にご覧になりました。
このピンクの衣装も大好きで、雅子様は終始ご機嫌でした。
思わず側にあったお菓子をつまみ食いするところをマスコミに取られましたが、全然構いません。
晩さん会は思わずカメラ目線に。どう?綺麗でしょう?
これが皇室外交ってものよ・・・
アラブ首長国連邦に到着
晩さん会も最高!
遺跡見学も楽しいし、カメラをいじりながら、雅子様は楽しそうでした。
その頃・・・日本は
迎賓館でパチリ。皇后陛下から頂いた帯留めをブローチにしてみました!
そして大好きなラクダレース。この時ばかりは皇太子様の声も聞こえません。
興奮した雅子様は笑顔一杯で応援し続けます。
ハリファ王太子とサッカーも観戦しました。
もはやここは陰気な日本とは違う別世界です
ドバイでは木造船でドバイ・クリークを見学
ムハマド王太子のもてなしは本当に素晴らしきく、目の前には果物が一杯です。
そしてヨルダン到着。
英語を話して綺麗な格好で颯爽と歩く私・・・雅子様はご自分に酔いしれていました。
遺跡を見学して
食事会に晩さん会、何から何までゴージャスです。
しかし、ここで思わぬことが。
「ヨルダン側から「お国が大変でしょう。どうぞお帰り下さい」と言われました」と随行員が伝えて来たのです。
何でも国王夫妻は日本の様子に心を痛め、恐らく皇太子夫妻もそうであろうと考えて、2日早く御帰りになってとおっしゃって下さったのです。
何という余計な事を言うんでしょうか?
雅子様はその日は怒り狂っていましたが、皇太子様はどことなくほっとした様子。
あまりに不機嫌になってしまい、サルワット妃とのお別れにもむすっとした顔を隠しませんでした。
「私、死海を見たかったのに」
「またいつかお会いしましょう」こんな時に「死海」とサルワット妃は思いましたが、外交上喧嘩するわけにもいかないので、ここは大人の態度をとおしました。
1995年1月28日に帰国。
さあ、いよいよ被災地訪問です。
現実を前に雅子様はまたもうんざりしていました。