2001年12月7日 浴湯の儀
生まれたばかりの内親王には様々な儀式が待っていました。
命名の儀を明日に控えた日。
「浴湯」の儀が行われ、「読書役」として児玉幸多氏により「日本書紀」による推古女帝の章を読み上げられました。
皇太子様と児玉氏により書の選定が行われたのですが、推古女帝の章というのがいかにも・・でした。
「鳴弦」役は徳川恒久氏。
そして翌8日には待ちにまった命名の儀が行われました。
そもそも皇孫誕生の際は天皇陛下によって命名が行われるしきたりでしたが、陛下は「東宮が決めなさい」と一任して下さいました。
そこで皇太子様はもう一人の「父」ともいえず小和田氏に相談されました。
「悠が礼節敬愛に決まってるだろう」と言われました。
皇太子様は「ああ、そうか」と思いました。
2001年12月7日 命名の儀
「12月1日ご誕生になった内親王殿下は、御名(おんな)を愛子と命ぜられ、敬宮と称されます」
厳かに発表されました。
称号は敬宮 名を愛子。
出典は「孟子」の「離婁章句下(りろうしょうくのげ)」
人間社会で広く修得されるべき基本的道徳を述べ、特に「敬」と「愛」の重要さを説いたものです。
三権の長などから祝いを述べられ、黒塗りの箱にいれられた御名は東宮御所の古川東宮大夫から皇太子様に渡されました。
そして宮内庁病院の雅子様にも伝えられました。
陛下はこの名について、誕生日会見などでは「東宮夫妻が一生懸命に考えた名前であるからよいと考えるべき」とおっしゃいました。
この「べき」にはかなりの含みがあります。
それは通常、内親王の名などは漢字を素直に読ませない慣例がある事です。
香淳皇后の御名は「良子」と書いて「ながこ」と読まれました。
紀宮殿下も「清子」とかいて「さやこ」眞子様は「まさこ」ではなく「まこ」
佳子様は「よしこ」ではなく「かこ」と呼ぶように。
また、この「愛子」という名は大正天皇のご生母、柳原愛子(やなぎはらなるこ」と被りますので、ある筋では「ふさわしくない」と思われたのでしょう。
ましてや「あいこ」と素直に呼ぶとは・・・・
雅子様にしてみれば、正直名前をどう読もうがどうだってよかったのです。
難しい字では読めないだろうし、まさしく小和田家の「優雅礼節敬愛」はぴったりだと思いました。
2001年12月8日 退院
退院当日は、皇太子様がお迎えに行かれました。
お生まれたばかりの「敬宮愛子内親王」のお披露目です。
小さくて鼻が高くて毛がふさふさして、なんと愛らしい内親王様でしょうか。
親になりたてのご夫妻は、ぎこちない抱き方ながらも幸せをかみしめていました。
内親王誕生にあたり、子供部屋は新しくされ、部屋いっぱいにコルクを敷き詰めました。将来、内親王が転んでも怪我をしないようにとの配慮からです。
また、ベビーベッドは昭和の頃より代々1つのものを使いまわして来たのですが、雅子様はそれをあっさり捨てました。
由緒あるメーカーで天皇陛下もお使いになったベビーベッドは「こんな古いものは嫌だわ」と処分され、代わりに大阪のカルチェラタン製のものが入りました。
2001年12月30日 お慎みの期間終了につき皇居に参内
2002年1月1日 天皇一家
2002年2月7日 東宮一家
2002年2月8日 青少年読書感想文コンクール 出産後初公務
2002年3月1日 東宮一家
2002年3月13日 皇霊殿に謁するの儀
皇太子ご夫妻は内親王に夢中になっていました。
赤ちゃんというものはどんな時でも無条件に可愛い。
ずっとその顔を見ていたいと思うものです。
ミルクを上げたり、着替えをさせたり、まるで着せ替え人形、生きているぬいぐるみのようです。
雅子様は内親王にもっと付き添いたいと思いました。
2002年3月18日
この頃は、どんどんマスコミにも写真を撮らせましたし、自慢の内親王でみせびらかしたい気持ちで一杯でした。
今更男子を産む?そんな面倒な事よりも、今はこの女一宮を大事に育てたいのだと雅子様は心からそう思っていたのです。