阪神大震災のお見舞いに関しては千代田でも意見がまちまちでした。
「すぐ行くべき」と「まだ無理」の2択です。
大規模災害時に静養していた両陛下は批判され、責められるのを最も嫌う皇后様はすぐにでも被災地に行くべきと思いました。
しかし、その頃、皇后陛下は週刊誌の記事が原因で「失声症」になっており、お声が出ない状態では公務を続けるのは難しいのではないかと言われていたのです。
だから先に東宮夫妻が被災地に赴くのもよいではないかという意見もありました。
しかし、皇太子夫妻は動こうとしませんでした。
理由は当然のごとく「他の公務で疲れているし、被災地には行きたくない」と雅子様がお考えになっていたからです。
「皇室での自分の役割、それは外交」と思いこんでいる雅子様は絶対にその信念を曲げようとしません。というか、「外交」を約束されたからこそ結婚を承諾したのです。
被災地などへ行くのは、他の人でもいい筈と思っていました。
1995年1月31日。とうとう両陛下が被災地を訪問しました。
それまで、被災地では立ってのお声がけだったのですが、両陛下はスリッパを脱いで座り込んで話を聞くと言うスタイルを編み出しました。
それが本当によかったかどうかはわかりません。
でも、その当時は感動した被災者も多かったのです。
1995年2月8日 ダイアナ妃が来日
これは雅子様にとってサプライズな喜びでした。
何と言ってもあの有名なダイアナ妃の隣りに立つことが出来るのです。
雅子様は嬉しくて「これこそが皇室外交」と思いました。その日の為に一生懸命に洋服を考えたのですが、デザイナーたちは「こういう時期ですので黒がよろしいのでは」と言います。
黒なんて・・・雅子様はよい事を思いつきました。こっそりダイアナ妃来日時に着る服を行き来出して、同じ色の服を作らせたのです。
背丈が180もあるダイアナ妃が東宮御所にいらした時はもう嬉しくて嬉しくて笑顔が止まりませんでした。
だけど、ダイアナ妃は観光に来たわけではないのです。
被災地にお見舞いに来たのです。
ダイアナ妃は早速被災地に足を運ぼうとしたのですが、千代田から「実は皇太子夫妻がまだ被災地訪問をしていないので遠慮して頂きたい」と言われたので仕方なく諦めました。
日赤訪問も最初は「皇太子夫妻が・・・」と言われたのですが、皇后陛下の特別のお計らいでダイアナ妃の訪問が実現しました。
イギリスからわざわざ震災のお見舞いの為に駆けつけてくれたダイアナ妃。
それを考えると、日本の皇太子夫妻がいつまでも被災地にいかないわけにはいきません。
1995年2月26日 被災地入り
皇太子夫妻はやっと被災地市を果たしました。
皇太子様はいつものように笑って手を振るし、雅子様も颯爽と歩きます。
みな恐縮して頭を下げていますし、侍従たちも本当に辛そうなお顔をしているのですが、皇太子様も雅子様もまるで異世界ワールドに迷い込んだかのような錯覚を覚えました。
勿論、避難所では膝をついて話をしたのですが、あまりごみごみしているとダメだと言う事で、一時的に避難者は外にだされ、話をする人も決められました。
雅子様は出来るだけ笑顔で話しをしたのですが、これがなかなか難しい。なんといっても体育館は寒いし、服は汚れるし内心では早く帰りたいとすら思っていました。
それでも自分がいることで回りが涙ぐんでいるのを見るのはいいなと思いました。
「ありがとうございます。こんな所まで」と言って貰えるんですから。
続けざまに3月5日は宝塚市を訪問。こうなってくると新しい服を着ていくのは無駄です。
雅子様はいつも同じ服装で、しかも古いバッグを持ちました。
そうすれば汚れも気にならないし、あとは捨てればいいのです。
そうは言ってもこのだぶだぶの服装が「ご懐妊ではないか」と言われた時には傷つきました。
別に太っているわけじゃないのに失礼だわ。
3月には秋篠宮夫妻が大阪を訪問。
佳子様を出産してすぐであるのにまだ皇族が足を踏み入れてない大坂を訪問。
それこそ被災地の人達はこぞって秋篠宮夫妻の回りに集って来ました。
そんな報道を見ると、どういうわけかとても腹が立つ雅子様です。
それでも被災地訪問が一段落したので落ち着いた雅子様なのですが、その後の公務もつまらないといったらありませんでした。
外国へ行きたいと言っているのに、宮内庁はそういう仕事を持って来ません。
むしろ両陛下や秋篠宮ばかり外国に行きます。
なぜなんだろう・・・と思っていたら、それは「ご懐妊が先」という宮内庁の考えだというではありませんか。
「私は子供を産みに皇室に入ったんじゃない」と侍医や女官に言った事もあります。
でも、返って来るのは「お子様を持つのは妃殿下のお務めの一つです。お子様のいない宮家は亡びるだけです。常陸宮家や高松宮家などを見ればおわかりでしょう。三笠宮家も高円宮家も内親王しかいらっしゃいません。このままでは皇統の危機なのです。どうか今は海外ではなく皇族としての務めを優先して頂きたい」
という言葉のみです。
こんな言い方をするのは、宮内庁は自分を「不妊症」だと疑っているのではないか?
雅子様はそう思いました。
失礼な話です。子供なんて産もうと思えばいつでも産めるし、学歴も勉強も必要ない楽な仕事です。自分のようなハーバード大出の人間に普通の人がやるようなことを要求するというのは一体どういう事なのか。
この事については皇太子様とも話し合いました。
皇太子様は「子供は可愛いんじゃないかと思うけど・・・」
「馬鹿じゃないの。誰も彼も子供って」
「秋篠宮家にも2人いるし」
「学歴がない人は子供を産む事に逃げるのよ」
そこまで言われてしまっては皇太子様も何も言えません。
そうでなくても日頃から「学習院出」と小ばかにされている状態です。
それは小和田家に行った時も同じで、「学習院の偏差値はいくつだったかな」などと義父に言われて何となく嫌な気がしたのを覚えています。
「何で今なのよ。今じゃなくてもいいでしょ」と雅子様はつんとして部屋に入る。
日々、そんな事が繰り広げられていました。
1995年5月24日 日赤大会
1995年6月22日 ナイチンゲール紀章式
この頃、雅子様は皇族方と何かに主席する時は、必ず誰かの服とそっくりに作る事にしていました。
その理由は「同じ服なら批判されない」と思っていたからです。
寛仁親王妃の信子様は何度もこれをやられて、「心を病んでしまった」と言われる程です。
色や形、どういうものが公式行事で正しいのかわからないのです。
わからないから真似する。教えてくれない東宮職が悪いのです。
でも、教えないのではなく聞き入れないのが雅子様のスタンスとわかっている職員は、「これは間違っています」とはもう言えなくなっていました。
そんな事をしてご機嫌を損ねると公務に出て貰えないかもしれないから。
だから、言われた通り、同じ衣装を作らせないといけません。
でも
1995年7月4日 マンデラ大統領来日の晩さん会
ここで、紀子妃そっくりのドレスに身を包んだ雅子様を見た時は、みな唖然としてしまいました。
どちらがどちらをまねたものか、顔を見ればわかります。
水色のドレスは色白の紀子妃によく似合っていますが、雅子様は同じデザインのドレスを、紀子妃よりもよい生地でしかも派手に作り、さらに紀子妃が持っていないだろう高級なネックレスをつけて現れたのです。
紀子様は今にも泣きそうなお顔をされましたが、じっと耐えておられました。
雅子様はそんな紀子妃を見ると、ちょっと得意になりました。
意地悪ではなく、ちょっとしたいたずらなのです。女の子がお揃いの服を着る姉妹コーデのつもりだったのですが、皇后陛下始め、皇族方はみな固まってしまいました。
ご自分がせっかくの空気を壊している事には少しも気づかない雅子様でした。
そんな雅子様にぴったりの公務が巡って来ました。
それは単独で行う初めての公務で
1995年10月19日 CWAJ版画展セレモニー
における英語のスピーチです。
英語がお得意な雅子様にはまさにぴったりと思われた公務でしたが、どういうわけか雅子様は大変緊張され、手も震え・・・そして「ちょっと一人にして」と部屋にこもられました。
英語を話す事は得意。でも、人前で話すのは苦手。
視線を感じると心臓が鳴りだし、手が震え唇が震えてしまう。もう帰りたい・・・そう思いましたが、時間は待ってくれません。
仕方なく雅子様は一生懸命に体の震えを抑えてスピーチに臨みました。
Ladies&Jentleman・・・
雅子様は一生懸命に喋ったのですが、原稿があるにも関わらず、もう二度とこんな事はしたくないと思いました。
雅子様はそもそも人付き合いがいいとは言えない性格です。
相手に何をどう話したらいいのかわかりません。
だから、特に園遊会のような催しは大嫌いです。
1995年10月25日 秋の園遊会
だからつい会話も途切れがちになって、あっちこっちあらぬ方向を見る羽目に。
またも気が塞いで来た雅子様を元気づけるようにと、宮内庁は登山を計画。
1995年11月9日 雲取山へ登山
遊ぶ時は絶対に機嫌が悪くはならないので。
そうは言っても、誕生日が近づくにつれ「記者会見」という問題が出て来ました。
雅子様は、この間のスピーチのような経験はしたくないと思ったので、記者会見は断り、一方的な「お誕生日にあたって」という文章を出して終わらせようとしました。
1995年12月9日 32歳の誕生日
ところが、マスコミは黙っていません。
今まで皇后陛下が皇太子妃の時は毎年記者会見してきたのに、これでは「開かれた皇室」とは真逆ではないかと。
要するに雅子様が出した文章はご自分が書いたものではないでしょうとまで言われたのです。
確かに自分で書いたわけではありません。
雅子様は実は文章を書く事も苦手だったのです。
まとまりのない感想を宮内庁に出し、文章にして貰っただけです。
でもマスコミは怒ってしますし、宮内庁もまさか「雅子様が嫌がっている」とは言えず、
何とかしようと計画を立てました。
すなわち、東宮大夫の定例記者会見の後、各新聞社から1名づつ集め、「オフレコ」の記者会見を開いたのです。
記者達は色めき立ちました。
やっと・・・記者会見だ。だったらまず今年の感想とかダイアナ妃が来た時にどう思ったかとかご懐妊はどうなのかとか色々聞きたい。質問状も出してある。
意気込んでマスコミの人達は「オフレコ」の記者会見に臨んだのですが、実際には本当にオフレコで、外で一言も漏らさないようにきつく言い渡され、たった数十分雑談をしただけでした。
週刊誌の記者達は、記事にするわけにもいかず、結果的に「宮内庁が皇室を遠ざけている」と書きました。
全てをかぶったのは宮内庁だったのです。