小和田家の面々は東宮御所に集まって、女性達はみな娘、姉を慰め、けれど父君は怒り心頭でした。
何度も雅子様はお父様に叱られ、隣の皇太子様も「殿下も殿下だ」と小ばかにした事を言われ、屈辱に耐えるしかありませんでした。
「歳を考えたら1度だって持ったない位なんだ。人がせっかくお膳立てを考えてやっているのに何でこうも裏切る?お前はいつだってそうだ」
お妃に対し「お前」呼ばわりはひどいのではないかと女官達は思いましたが、突っ込まれるのが嫌なので黙っていました。
「堤君にもよく言っておくが、次のチャンスを逃すなよ」
その日、雅子様は初めて皇太子様の前で泣きました。
何が悲しいって、いつもお父様の理想になれない自分が悲しかったのです。
雅子様はお父様が大好きでした。それにご自分に対する期待が高い事もわかっていました。
けれど、今まで人生の中で本当の意味でお父様を喜ばせた事があるだろうか?
期待通りの娘になった事があるだろうか?
期待されては叱られの連続。
ご自分ではどうにもならない能力の壁にぶつかる度に雅子様は自己嫌悪に陥ってしまいます。
一方皇太子様は純粋に雅子様が流産を悲しんでいるのだと思いました。
皇太子様にとって、今回は本当に悲しい出来事でした。
やっと出来た子なのに・・・しかも男子だったと言われたらこれはもう絶望の淵です。
陛下に「世継ぎを何だと思っているのか」と責められ、やっとご自分の立場に気づいたくらいですから、今までの自分もよくないなと思いました。
かといって、今の皇太子様は雅子様に徹底的に嫌われないように、ご機嫌を取る事しか出来ないし、とにかく機嫌さえよくしていてくれたらこちらは何も望まない状態ですから、どうしたらこの難関を突破できるのかわからないのです。
「雅子には静養が必要だと思います。でも御用邸は嫌だというので別な所を考えて下さい」
結局、皇太子様は雅子様の意志を宮内庁に伝えるしか出来ないのです。
「御用邸が嫌と言われましても、皇族が静養なさるのは御用邸と決まっています」
「那須、葉山、須崎、御料牧場、こんなにあるのですからどれか選んでいただいて」
「雅子は傷ついているんですよ!マスコミがある事ない事書いてやれ懐妊だって騒ぐから流産したんじゃないですか。御用邸では付属邸しか使えないし、雅子にはもっと豪華な所じゃないと」
仕方ないので宮内庁は一生懸命に探し抜いて、みつけたのは静岡県にあるスルガ銀行VIP施設での静養でした。
勿論、ここを使用するにあたっては両陛下の許可が必要ですが、流産を盾に「傷ついた」と言われたらかつて同じ経験をした皇后陛下は何も言えなくなりました。
費用は内廷費からという事で特別に東宮夫妻は超豪華な別邸で静養をする事になりました。
2000年2月9日 静岡県のスルガ銀行VIP施設「ヴィラ・ジ・アール」で静養
2000年2月9日 沼津御用邸公園
2000年2月23日 皇太子殿下40歳の誕生日
皇太子様はお誕生日会見にて雅子様の流産で以下のようにお答えになりました。
「多くの国民の皆さんに心配していただいていると思います。
幸い雅子も順調に回復してきており,私はそのことが何よりうれしく思います。
この間,多くの方々から温かいお励ましをいただいたこと,中には全く知らない方から,多くのお手紙を頂きましたことを大変有り難く思っております。
今回のことは残念なことではありましたが,結果については私たちも心静かに受け止めることができました。しかし,そこに至る過程で,医学的な診断が下る前の非常に不確かな段階で報道がなされ,個人のプライバシーの領域であるはずのこと,あるいは事実でないことが大々的に報道されたことは誠に遺憾であります。
そのような中で雅子は非常によく辛抱したと思いますが,国民の中にも戸惑いを覚えた人も少なくなかったというふうに聞いております。
今後,事柄の性質上,慎重で配慮された扱いを望みます」
皇太子様は暗にマスコミによるご懐妊騒動を批判なさったのです。
殿下のお言葉には非常にとげがあり、そこにいた記者団もうろたえてしまいました。
特に、スクープを出した朝日新聞は、その後、同じマスコミによってコテンパンにバッシングされてしまいました。
また、雅子様は歌会始めで「七年をみちびきたまふ我が君と語らひの時重ねつつ来ぬ」
という歌を詠まれましたが、その事に殿下はたいそうお喜びになりました。
「本人に見せてもらうまでは,あのような歌を詠んでいるということは私も知りませんでした。
歌会始の当日は,少し恥ずかしいような気もいたしましたけれども,あのような気持ちを歌に詠んでくれたことを,大変うれしく思っています。
結婚して7年になりますけれども,この間,よき妻として,そして,よきパートナーとして,私を支えてくれていることを大変うれしく思っています。
数年後に歌を詠んだ時には,重ねてきた語らいが小言の言い合いになっていないようにしなければいけませんね」
と先ほどまでのとげのある言い方からそれこそとろけるような微笑みを浮かべておっしゃったのでした。
2000年3月25日 葉山御用邸静養
2000年3月29日 東京ドームで米大リーグ観戦
雅子様は再び不妊治療に取り組む事になり、静養を増やして公務は最低限という形になりました。
2000年4月10日 ハンガリー大統領夫妻歓迎晩さん会
2000年4月24日 オランダのウイレム・アレキサンダー王太子来日
2000年5月10日 日本赤十字大会
2000年5月17日~18日 屋久島訪問
徐々に雅子様は元気を取り戻されました。
喉元過ぎればなんとやらで、またもや頭の中では「海外」げ行く事が頭をもたげ始めていたのです。
そもそも今回の流産は仕方なかった事でご自分には全く責任がないのだ。
むしろ、自分がちゃんと妊娠出来る体だとわかってよかったじゃないか?
もし、今後も不妊が続くならそれは私のせいではない。
皇太子殿下の血筋によるものなのだと勝手に脳内変換していました。
5月も末になると静養も公務も少し飽きて来た感じで、そんな時に東京ローンテニスクラブのパーティに誘われたのです。
東京ローンテニスクラブは歴史あるブルジョワジーたっぷりの会員制のテニスクラブで、両陛下は度々お見えになっていました。
今回は両陛下は公務でお忙しく、代わりに皇太子夫妻が出席されたのです。
これはサプライズ訪問で、クラブに出席していた人達は日本人も外国人も大喜びでした。
皇太子様はスポーツジャケット、雅子様はスポーツジャケットに短めのベージュのスラックスで出席しました。
日本酒で乾杯の後、バイキング形式でのお料理を食べるのですが、皇太子様はせっせと雅子様に好物のローストビーフをとりわけて差し上げていました。
こちらには学習院のOBも多数いるので、皇太子様は久しぶりのご学友らとの会話を楽しんでおられ、雅子様は外国人とのふれあいにウキウキしていました。
やがてスローな音楽が流れ、みなはゆらりゆらりと踊り始め、両殿下も真似て手を取り合い、踊っていたのですが、それが突如ロックのリズムになると、一定の年齢に入った方々は「ついていけないよ」とばかり輪から離れていきます。
「ねえ、踊りましょうよ」と雅子様は皇太子様を誘われました。
「え・・・ロックですよ。だ・・大丈夫かな」
苦笑いしながら殿下と雅子様は輪の中心においでになり、激しいロックのリズムの中で、ディスコダンスを踊り始めたのです。
バブル時代、ディスコといえば雅子様達の世代のもの。大得意です。
久しぶりの自由な雰囲気に酔って雅子様は激しく踊り始めました。
皇太子様は、ディスコとは無縁の生活を送られていたし、そもそも皇族がそんなダンスを踊るなんて教育はされていません。
びっくりして妻をみやると、雅子様はさも楽しそうに外国人の人達と踊り狂っているではありませんか。
こんなにも生き生きとしたお妃を見るのはきっと結婚して以来かもしれない。
皇太子様は素直にそう思って、ご自分も出来うる限り一緒になって踊りました。
結局、予定よりも3時間もオーバーして東宮御所に帰った雅子様は、すっかりいい気分になりました。
今、この時だけは・・・刹那的な思いが胸をよぎります。
永遠に踊っていられたらどんなにいいか。
我にかえると雅子様はまた「皇太子妃」というプレッシャーに押しつぶされてしまうのでした。
2000年6月15日 皇太后危篤の知らせをうけて大宮御所へ
突然、大変な事態が巡って来ました。
大宮御所にいらっしゃる皇太后さまが危篤に陥ったのです。
集まった皇族方は両陛下を始め、池田厚子さん、島津貴子さん、常陸宮両殿下、皇太子夫妻、秋篠宮夫妻、紀宮様。みな皇太后さまの最後を看取りました。
思えば長い97年の御生涯でした。
久邇宮家の長女としてご誕生になり、その昔は「良子(ながこ)女王殿下」と申し上げました。
女王殿下は関東大震災の後、摂政宮裕仁親王とご結婚遊ばされ、摂政宮妃となり、さらに皇后陛下になられました。
お世継ぎのプレッシャーは昭和の帝が側室制度を否定され、女官制度を改革された事で皇后の肩に集まり、それを乗り越え、今の陛下と常陸宮様をお産みになりました。
笑顔は「エンプレス・スマイル」と呼ばれ、世界の敬愛を受け、皇族出身の皇后陛下として並ぶもののない栄光を掴まれたかに見えました。
しかし、戦後、華族制度は解体され、皇太子妃に正田美智子さんが選ばれた時から苦悩は始まり、いわれなき「美智子様いじめ」のバッシングに耐え、認知機能の衰えが顕著になるにつれて表舞台から去られ、昭和の帝が亡くなられた後は、吹上御所をそのまま大宮御所にし、僅かな側近とともに孤独な日々を送られました。
両陛下は古い吹上御所には住まず、真新しい新吹上御所を建てられました。
皇太后さまがお好きだったお花も庭もすっかり別物になってしまい、両陛下も滅多に吹上に上がる事はありませんでした。
皇族・華族とのご縁がなかった美智子皇后陛下は、皇族出身で名門の姻戚を持つ皇太后さまや秩父・高松・三笠の3宮妃を嫌っておいででしたので、いよいよ平成の世が始まった時にはご自分流の皇室を作ろうと、それまでの伝統や格式を全て変えてしまわれた。
そして、その流れの先に小和田雅子さんの入内があったのです。
本来なら雅子様は皇太子妃になれる身分ではなく、またなってはいけないご身分でした。
けれど、反対されていた昭和の帝が崩御され、皇太后様がご自分の意志を示す事が出来なくなったタイミングで、雅子様は「高学歴の才女」というなり物入りで入内されたのです。
戦後、家柄や血筋を否定され、美しくマスコミを操る美智子さまに散々陥れられた皇太后様。
お歌と日本画がお得意、組みひもでも素晴らしい才能を発揮され、昭和の帝の傍らで門前学者になって一緒に植物を採取され、絵に描く。
皇太后さまはまさに日本の母でした。
その柔らかな笑顔にどれだけ多くの国民が癒された事でしょうか。
日本人のよい部分を体現されていた皇太后さま。悲しくも高貴な人生でした。