ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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聖女か悪女か 美智子上皇后の肖像4

2021-02-25 07:00:00 | 聖女か悪女か美智子上皇后の肖像

1958年12月21日 東宮御所でアルバムを見る

 

 1958年1月13日 お妃教育スタート

 まるで「プリンセスロード」が出来上がり、追っかけファンに見守られているような図式に見えます。お妃教育の為にわざわざ歩かせているとしか思えない。

子供も老人も仕込みじゃないの?と疑いたくなりますよね。

 

 朝日新聞 1959年1月14日

美智子さんは何を習うか」

 

 1959年1月14日 納采の儀

 ことごとくカメラから視線を外しまくる富美さん・・・すごすぎ。

 

 1959年1月20日 皇太子とテニス

 1959年 2月 ミッチーブームでデパートのマネキンにも登場

 

 1959年3月16日 告期の儀

 

 1959年 3月 兄弟そろって東宮御所へ

 

正田家の朝食風景

正田本家のある舘林を訪問

聖心女子大学同窓会にて

 女性自身1959年3月27日号

美智子さんの近況 万感をこめて母校聖心に最後のお別れ

婚約中 母と丸善書店に外出する姿やカードで遊ぶ姿

 1959年 旧高松宮邸でドレスの仮縫い

美智子さんのドレスは1957年ディオール死去によりブランドを引き継いだイブ・サンローランがデザイン。
仮縫いのため来日したスタッフのノアールさん談「イブ・サンローランはストールで着物的要素を、下はフランス的なふわっとしたエレガンスを表現。日仏両方の美しさを結び付けようとしました。」
美智子さんからは「遠いところからよくおいで下さいました。本当に感謝しております。」という言葉と銀の宝石箱が贈られた。

 銀の宝石箱を贈る正田美智子嬢。この頃、すでに「皇族」になったつもりなんでしょうか?

  銀の宝石箱で正田家がいかにお金持ちか示すよい機会だったのでしょうか?

旧皇族や旧華族は悔し涙にくれていたでしょうね。でもちょっと考えると、小和田雅子さんの「金箔箪笥」にもひけをとらないような気がします。

 

 TIME1959年3月号の表紙を飾る

 1959年3月24日 お妃教育へ行く道に観光バスが通り窓を開ける乗客

 女優魂を見たような・・・こんなに多くの人にシャッターを向けられても全然怖気づくこともなく、むしろ晴れ晴れしているんですから。

 

 1959年3月30日 自宅からお妃教育へ向かう

宮内庁分室前で花束を手に

 1959年4月 独身最後のパーティを自宅で

自分のお印が「白樺」に決まったので植樹する美智子さん

 

一体、どれだけのマスコミを抱え込んでいたんだろうと思います。

朝日新聞だけでなく毎日新聞、読売新聞・・・記者は皆お友達。

カメラを自宅に引き入れて、ありとあらゆる「場面」を撮影させる事で、既成事実を作っていたような気がします。

親兄弟は決して「祝福」しているような雰囲気がないのが不思議です。

特に父親の正田栄三郎氏は、能面のような顔になっていますし、常に妻の影にかくれている感じ。

「テニス」が花嫁修業の一環、お見合いを掴むためのアイテムなら、妹も同じことをしていたのでしょうか?

姉妹でテニスをしている様子もないし、ダンスもまたしかり。

なんていうか・・・正田家の教育は美智子嬢一人に注がれていたのでしょうかね。

 

お印については、皇后から「野菊」を提案されたけど、断って「白樺」にしたことは有名な話です。

「野菊」・・馬鹿にされたような気がしたんでしょうね。でも野に咲く菊とはいえ、菊は菊。見事な提案だったと私は思います。

一方の白樺は木で、通常、女性のお印には用いられないのです。

あえて「軽井沢の思い出の白樺」を選んだ所に、「私は男と同等」という強い意志を感じます。

野菊はどんな環境でも毎年花を咲かせます。素朴ですが飽きがない。

でも、白樺は皮をむいて火をつけると燃えちゃうんですよね。

(だからなんだって話ですけど)

 


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14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (カササギ)
2021-02-25 09:48:09
はじめまして。いつも拝見しております。
お印、白樺は自分でつけたのですか。

私はてっきり当時の両陛下が
言うに言えないお気持ちを込めてお決めになったかと
思ってました。シラカバは逆読みしたら
バカラシ になるので、さすがは両陛下、と思っていたのでした。
美智子さん、自分でつけたんですね、笑。

野菊が可愛らしくて、凛として良かったのに
野の字が嫌だったんですね。
あの方らしいわ。

しおらしげな演技をされていましたが
婚約時から入内までのドレスのスカートの
広がり具合が尋常じゃありません。

あそこに、私はとうとうお姫様になったわよ!
という自意識が見て取れますね。
下賤が最高位に行くと
やってしまいがちな、中身の暴露です。
長々と失礼いたしました。ありがとうございます。
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Unknown (スイトピー)
2021-02-25 14:36:21
銀の宝石箱、小和田家に通じるセンスからも見繕ったのは正田にしても、費用負担は宮内庁の可能性はないでしょうか。
結婚前、正田家で買い入れたもので公私の判別がつかないものは、宮内庁が支払うことになっていたそうです。

あと、ディオールがいくら高松宮殿下の口利きとはいえ、池田山に立派な屋敷があるのに、ドレスの仮縫いを結婚がまだの相手の親族の家でって、普通そういうものなんですかね?
ドレスコードがわからない母子なので、おかしなドレスを作らないように、喜久子妃殿下が監視をしていたのかもしれませんが。

2014年に出た「一個人」に、香淳皇后がお妃時代にお使いだったティアラを直して上皇后が使った理由を、時間も予算も新しく作ることが難しかったからと説明しています。

酒井菊子さんも鍋島伊都子さんも、ご結婚のとき、ティアラなど宝飾品はパリで用意したそうです。
正田家はどうして娘の為に立派なものを用意してあげなかったのでしょう。
けれども、なぜか平成になって嫁入り道具三トントラックの内訳にティアラまで入っていて、正田家で用意したことになっていました。
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Unknown (まめはな)
2021-02-25 15:05:29
どこで読んだか忘れてしまったのですが、
香淳皇后は皇室(菊)と平民(野)とをつなぐもの、として「野菊」を提案されたとか。
お優しいお気持ちからだったそうです。
なのに美智子さんは、「野」を卑しいという意味に取ったんでしょうね。
それこそ卑しい感受性です。

そして、白樺、梓(徳仁親王)、ハマナス(雅子さん)は皆、一代限りの植物なのだそうです。
美智子さんは徳仁さんを産みましたが、結局その血は残らないことになったのですから、お印を許した
昭和帝と香淳皇后の願い通り、皇室の清浄性は保たれたのではないでしょうか。
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Unknown (サクラ)
2021-02-25 15:53:39
聖心女子大学の同窓会の写真、右上の両端の婦人たちのいやそうな顔といったら!
「なんでこんな人が皇太子妃になるの?」という心の声が聞こえてきそうです。
それにお妃教育に通うときバインダー?ファイル?をはだかでもっていろところに違和感かんじました。しかも雪の日も。濡れなかったのでしょうか?
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時の流れ (しまき)
2021-02-25 17:18:23
ふぶき様は今から6年前の2015年にも、「美智子様81年のあゆみ」というタイトルでシリーズ記事を書いておられます。

https://blog.goo.ne.jp/yonyon4009/e/817225cb5bb2366f36ae991e30d44d07

このとき、お印が野菊から白樺に変わったことについては下記の記述がありました。
「美智子さまのおしるしにと皇后さまが選んだ候補に野菊が入っていたのだが、これに「平民(野)から皇室(菊)にやってきた嫁」との意味があるのではとささやかれ、結局、皇太子さまが別途推薦した白樺に決まった。」

「美智子さまは皇后さまの選んだ野菊がいいと主張したものの、最終的には皇太子さまの意見を立てて白樺に決められた、というのが真相なのだが、一部では嫁姑対立のように扇情的に取り上げられてしまった。」

この当時と今とでは、ふぶき様ご自身の美智子上皇后に対するお気持ちは相当変化していると思いますが、事実としてはどちらが正しいのかな。
まあ「皇太子の提案を立てて」でも「断った」にはかわりはありませんけど、受け取り方としてはかなり違う感触だと思います。

いずれにしても、時の流れにより、こんなにまで我々の気持ちが変わってしまった「皇后陛下」っていなかったですねぇ。雅子様はずーっとそのまんまの感触ですし、もちろん香淳陛下もそうです。(もちろん悪い意味でもいい意味でも、です)

この方、ご自分が一番皇太子妃に選ばれたかったし、人生常に自分が主演女優でありたい方なんだろうなと今では思っています。
ご両親は尻込みというか辞退したかったんだけど、美智子様がノリノリになってしまわれた、、今になってはそうとしか思えません。

プリンセスロードを颯爽と歩く姿を老人や子供が皆して見にきているのは、仕込みとは私はちょっと違うと思います。要するに一大イベントかと。
仕込みは強制的なものがちらつきますが、この人たちは情報をもらって、大喜びで集まってきたのでしょう。
当時、皇室というものがまだまだ遠くて神の存在でした。我々の御近所から皇太子妃が出るというのは、付近の皆さんにとっては夢のような出来事で嬉しかったんだろうと思います。昭和30年代ですから。
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Unknown ()
2021-02-25 17:52:38
こんばんは、ふぶき様。
ご多忙の中、いつもありがとうございます。
上皇后の肖像3にある朝日新聞号外の写真、まだ一般人である美智子さんが皇太子より写真が大きいのに違和感がありました。
どっちが皇族なの?って感じです。
バスの乗客から写真撮られてる時も「そんなに身を乗り出すと危ないな」とか微塵も思ってなさそうですね。どこまでも自愛。
それと、今上が即位して数年経ちますが私は未だに天皇と認識出来てません。「ナルちゃん」でしかないんですよね…。
昭和から平成に代替わりした時はどうだったのでしょうか。
よければ、ふぶき様や皆様のご意見を伺いたいです。
返信する
生きておられますからね・・・ (しまき)
2021-02-25 20:36:37
連投すみません。
平成天皇のときと今との比較

全く違います。
一番大きかったのは、昭和天皇が亡くなられたということ。昭和は長かった。昭和時代は64まで年を重ね、親も子も、そして孫まで「昭和世代」で、昭和は永遠のように思ってしまっておりました。
大喪の礼というのは、すごいものでした。
テレビは一切のコマーシャルを流さず、一日中天皇関連ニュースのみ。(東テレのみ独自番組)
そして交通関係を除くほぼ全ての職種がその日はお休みになりました。
緊急事態宣言発令でも、スーパーやコンビニは開いていましたよね。その日はそれらも含め、全て休業でした。昭和天皇の存在の大きさに改めて気づかされた日でもありました。

平成の天皇は「上皇」そして上皇后という珍妙な新ネーミングとともに、贅沢三昧で生きておられます。
皇室という存在意義は、日に日に下落していくような気がしてならない昨今です。
返信する
Unknown (Unknown)
2021-02-26 08:43:44
以前、何で読んだか忘れてしまいましたが、
結婚を受諾するか否かの家族会議を、箱根のホテルでしたそうです。
「自宅で無かったのは、住み込みのお手伝いさんや妹に聞かせたくなかったからかな」と、
勝手に想像しました。
積極的だったのは、冨美さんとみちこさんで、男性陣は全員、猛反対だったとか。
冨美さんがイヤイヤを装ってるのは、演技だと思う所以です。
結婚後、お父上は館林の自治会みたいなところから「会館を建てたいので」と高額の寄付求められて、
他家同様の少額を寄付したあとは一切の公的な肩書きを捨て、表へ出なくなったという記事も、読んだことがありました。
そのお父上は、みちこさんの子ども時代を尋ねられ「あまり記憶していない」と答えられたとのことです。
会社はGHQによって小麦粉を入手し一財産得ましたが、結婚前は中小企業だった説も。
もしも現代だったら、ネット上に様々な裏情報が溢れて、結婚には至らなかったように思います。
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Unknown (松陰神社前)
2021-02-26 09:43:06
「白樺と野菊」の件はしまきさんので正しいと思います。美智子さまは「野菊」が相応しく「野菊」でいいと言ったのですが、当時の皇太子が「白樺」を強く主張しました。

当時の皇室の状況で自分の主張を言う訳がありません。当時の皇后や皇族達から厳しい目を向けられ、自分の置かれている身を考え、そこまで愚かではないでしょう。今の皇室の状況と全然違っていましたから。

当時の国民の熱狂を、幼かったけれども、よく覚えています。国民皆が、喜び関心を持ち、美智子さまを一目でも見ようと集まっていました。

しまきさんの仰る通り、美智子さま程、評価が変わってしまった方は皇族の中ではいないでしょう。
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Unknown (百合)
2021-02-26 11:32:57
お印が野菊ですと、いかにも野山から嫁いで来た庶民のイメージが溢れ、美智子様もイヤだったのでしょうね。

貴重な写真の数多を拝見させて頂きありがとうございました。

ふぶき様の収集力に頭が下がります。
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