いわゆる「昭和34年の国会」については過去記事で長々と引用しています。
書き起こしが大変だった記憶がありますので、興味のある方は探してみて下さい。
たしか美智子さんが何度も見合いをして波多野という人物と婚約をしていたという暴露もあります。
かなり突っ込んだ質問や批判があっても、宮内庁はスルーしましたよね。
1959年(昭和34年)4月9日 正田邸に集まった人達にお手ふり
1959年(昭和34年)4月10日 正田邸を出る
アサヒグラフ 1959年4月19日号
「素晴らしいお妃さまに」
1959年4月12日 饗宴の儀
週刊読売 1959年4月19日号
「皇太子さまご結婚記念特集 おめでとう美智子さん」
1959年4月18日 伊勢神宮参拝
1959年4月21日 多摩御陵参拝
1959年4月27日 初めてのお里帰り
ご成婚後のテニスファッション&ドレス
1959年7月 愛育病院視察 7月15日 ご懐妊発表
女性自身 1959年10月7日号 カラーグラビア
女性自身 1959年10月28日号 カラーグラビア
1959年10月20日 25歳の誕生日を迎えた美智子妃
とにかく着道楽!の一言ですね。
国民は「綺麗でおしゃれなお妃様」に夢中になっているようです。
確かに美しいですが、昭和34年といえばまだ、昭和天皇は御文庫に住んでいらっしゃった程なのに、贅沢な服装ばかりだなと。
「足袋とか生地とか全部正田家から持ち込んだのよ」ってうちの母は言ってましたけど、財力がある人は違うな~~と感じたものでした。
今回も多数の写真から美智子様のご成婚とその直後の様子を拝読拝見させていただき、感謝申し上げます。
改めて当時のお写真を数々拝見し、思うことがありました。
・結婚時の美智子様はお顔がふっくらされておりました。いつからそのお顔立ちがシャープになられたのかと思ったら、1年満たない、極論言えば半年ぐらいですっかり顔つきが変わられたんですね。ちょっと驚きました。特に最後のお着物のお写真はつわりもあるのかもしれませんが、目が落ち窪んで頬がこけ、ちょっと怖いくらいです。この時点でもまだ結婚半年ですね。
・結婚したのが4月で、7月にはもう懐妊発表。当時は妊娠何カ月だったのかな。3カ月としたらもう、すごいスピードです。
・結婚パレードの「ハプニング・ショット」と書かれているものですが、紙面で見たのは余り記憶になく、こういうキャンプションがつけられるのかというのも興味深かった。「ハプニング」で済ませてよかったのかな。私、当時のパレードのニュース映像は見ました。この場面も見ましたが、余りにも取り押さえが早くて、何が何だかよくわからなかったのです。
で、改めてその辺調べたら、この投石犯のいとこが友人だという方がブログを書かれていて、結構生々しいことが記述されていました。
長文すみません。(抜粋です)
「Aの視線の先に、騎馬護衛兵に先導された皇太子と皇太子妃がにこやかに手を振って近づいてくるのが見えた。その豪華で荘厳な式典が、Aにはとても空々しく腹立たしい出来事と感じたのだろう。無意識に歩道に転がっていた石を拾い、Aの正面を通り過ぎる馬車に向かって投げつけた。そして馬車に向かって走り出した。馬車の後部に手が届くかどうかというあたりで、護衛警官たちに組伏せられた。
Aは取り調べにあたって、学校の再建にさえお金がないと渋っているのにこんな豪華なパレードを見ていたら腹立たしくなって…、というような供述をしたという。
ちなみにAの生家は、当時小学生だった僕の生家から2キロに満たない距離だった。この事件は、ふるさとにとって 国民的慶賀に泥を塗ってしまったとして、上へ下への大騒ぎとなった。Aの家は旧家であったが、重い不敬罪ということなのだろう、一時は江戸時代さながら蟄居させられるような状態となった。
数年の刑期を終え、自宅に帰されたAはその後も数十年にわたり特定保護観察人物として扱われた。自宅には時々刑事が訪れて、生活の様子などの点検を受けていたという。」
投石犯は数年も刑期を課せられていたし、ほぼ終身刑事に見張られてお気の毒な一生になってしまったのだなと改めて知りました。
玄関でお母様が涙を手で拭ってる写真は 宮内庁から✖が出て
それからは決して メディアは出せなくなったらしいのですが
やっと見れました。
小さい頃 見た覚えがあったのですが やっとちゃんと見ることができました。 有難うございました。
生中継で投石事件を見たのは衝撃的でした。家中が「あっ」と声をあげました。
その後、何事もなかったように、笑顔を振り撒く御二人に、「肝っ玉据わってるなぁ」と父が言っていたのを記憶しています。
美智子さまのお母様は美智子さま以上に頭の切れる方でだったようですので、理不尽な事をされると、許せない気持ちがあったのでしょうね。
入江侍従長の日記で「柳原白蓮」が右翼を動かし正田家を脅かす動きをしていると載っていた。後ろに操っていたのが高○宮妃らしいです。
高○宮妃は、紀子さまの出自・家系の詐りの噂も流してたようで、策略家ですね。
慣れない環境でご苦労されお痩せになったのだとは思いますが、こんなにお顔が変わるものなのですね。特に目が。
足も結婚前と全然違うし。
ふぶき様の毎日のお仕事にはいつも感心いたします。
これから女優顔とポーズがたくさん出てくるのでしょうね。
顔の部位が真ん中に集まり、きつい目の美智子様は今後は出てこないでしょうね。
今回のは変わり目がとてもわかりやすかったです。
つまり、昭和天皇の時は男女別で馬車に乗られたのに、上皇夫妻は男女一緒だったとわかりました。
2人が同じ馬車に乗る映像・写真が何かにつけよく出てきますが、この時から男女平等・皇族(新)平民対等をサブリミナル効果のように国民を洗脳してきたのだと思います。
これが、香淳皇后と違って天皇陛下と横並びに歩く起点となっているのではないでしょうか。
まだ結婚もしていないのに、眞子殿下と相手を横並びにしてさっさと記者会見させたのもおかしいです。
官僚の息子と結婚した久子さんの娘も、結婚前に揃って会見なんてしていましたっけ?
あの不可解な会見にしろ、秋篠宮家を追い詰めるために女帝が策を弄しているようで本当に恐ろしいです。
それが事実かどうかは知りませんが結果王朝は倒されました。
パレードでの投石事件の写真を見てあのエピソードが頭をよぎりました。
今の皇室は沈み行く船? そうならないことを願いますが、あれを白紙に戻し破談にしない限り危うい状況が続きそうです。
島津貴子さんのブルーのドレス、いつ見ても素敵です。
佳子様にもこういうドレスをお召しになっていただきたいわ。
どこに参拝されたかは記載がないですか、美智子様のブルーのドレスも素敵です。
皇太子(当時)は伊勢神宮参拝と殆ど変わらない正装にみえるのですが、美智子様のドレスは短いスカート丈。 お付きの女官も短いので間違いではないのでしょうが、アンバランスな感じです。
正田邸を出る際の最後の写真、塀の中から撮影しているカメラマンがいますね。
この方は公に許可されたカメラマンなのか、噂にある朝日はカメラマンなのか、どちらでしょうね。
裾に針金を入れたのはこのお長服でしょうか? たしかに針金でも入れなければこんなに丸く広がりません。
そこまで自己流をとおしていて〝いじめられた〟ですか。
正田家もお屋敷としては 「?」 の家ですね。庶民の家とはちがいますが、塀と窓の間が狭い。
今は公園になっているらしいですが、行った知人ふたりがふたりとも狭いちっちゃい公園で、そこが金持ちの娘として鳴り物入りで入内した皇后(当時は皇后でした)の実家の跡地とは思えなかったと言っていました。
もっとも裏にお兄さんの家があるらしいので、昔の正田家の全敷地ではないでしょうが。
家を壊すと決まったとき、保存すべきという意見があったように記憶していますが、たしか皇后ご自身はダンマリをとおしたような。
「案外狭いお宅ね」なんて言われるのがお厭だったのかもしれませんね。
むかし思っていたこととずいぶん違うので、きょとんとしています。
スイトピー様の「結婚もしていないのに、眞子殿下と相手を横並びにして記者会見させたのもおかしいです。」そして絢子様は、そんなことしなかったんじゃないかというご疑問ですが、守谷氏と絢子さんの横並び会見、千家氏と典子さんの横並び会見、さらには黒田氏と清子さんの横並び会見、全て「婚約内定会見」は写真として残っていますよ?(ついでに秋篠宮と紀子様、皇太子と雅子様も)
白蓮が右翼を使い正田家を脅す動きをしていて(ここまでは事実のようですが)、後ろで操っていたのが高松宮妃とは「入江日記」からでしょうか?紀子様の出自・家系の詐りの噂を流していたことも、その「日記」の記述でしょうか?
すみません、「入江日記」が実家にあり手元にないので、確認できないのです。
ただ、個人的にはこの「日記」はまだまだ検証が必要だと思っていまして、個人の感想としての記述が、昭和天皇のお言葉と読み手が勘違いするような箇所もあり、「宮中のラスプーチン」との異名もある入江氏がどこまで意図していたかはわかりませんが、
入江氏は宮中祭祀を破壊してきたクリスチャンでもあり(事実、皇室祭祀の削減や改革をした)、美智子様側の人間であると思います。
香淳皇后様は入江氏の祭祀削減や改革には強く反対なさっていて、美智子様入内反対だけでなく、この点でも、入江氏に反対する勢力としての香淳皇后と妃殿下達という構図が見てとれます。
その中でそのような高松宮妃殿下云々の記述があれば、後に世間に出すことを前提として書かれたものの、「日記」であるが故に個人的感想でも(単に人の好き嫌いを日記に書いても批判されない)アリですから、上手いなとは思います。
妃殿下は礼宮様、紀宮様を実の子や孫のように可愛がっていたそうですし、産児制限のときも「どんどんお生みになったらよろしいのよ」とおっしゃったかた…紀子様に対してそのようなことなさるかしらと思うのです。
小室家に懸念事項が多くて、皇室や宮内庁でも色々と思考を巡らせている段階で記者会見が強行されたと雑誌記事で読んだものですから、想像が飛躍してしまいました。
挙げて下さった例は、全て女帝の影響下のもので、昭和の時代はどうだったのかなと思いました。たしか女帝は、胸元のすごく開いたドレスで両親としていたような。
他にも、華子様、清宮さんのお相手、信子様などはどうだったのか、すごく興味があります。当人たちだけで婚約会見というのは、もしや平成流なのでしょうか。