昨日の花組16時公演に行って参りました。
お席がわからないまま行き、チケットを受け取ってびっくり。
1階3列目中央・・・・ ひょえっ
しかも、何だか見た事あるような人ばかりがあっちこっちに座り
と・・・隣が嘉月絵理・・・後ろにいずるん・・・前にちあきしん。
同じ列に井上芳雄君 (思わず「大きくなったわね」と言いたくなった)
これが雪組なら楽しめるんだけど
虞美人
大御所作品への敬意が見られず
大昔の大御所と言われる人の作品をリメイクするのは正直、大変な
作業だと思います
昔のイメージを大切にしながら、時代にあった仕上げ方をしなくてはならない
からです。何よりも最初に作り上げた人への敬意を払わないといけません。
今回の作品を見て、いかに先輩の作品をリメイクする事が
難しいかを実感しました。(オリジナルで書く方が楽)
1幕を見た段階で
「そもそも何でこの話は「虞美人」というタイトルなの?」と疑問に思った
ので、パンフレットの木村信司の文章を見ました
そしてビックリ仰天っていうか・・・呆れたっていうか・・・・
これでも座付作家 これでもプロとして給料を貰ってる
運がない自分が悪いのか?難なんだよーーもう・・・状態。
これだけの大作がなんで再演されないの?
・・・ってキムシンは思ったんですって。で、その理由を
「その理由はおそらく馬にあるのではないでしょうか。本物の馬を
舞台に登場させるのは、今となっては飼育の問題もあり、ほとんど
不可能です。馬が不可能なら再演も出来ない・・・で、本当にそうなんで
しょうか。
あのさあ・・・「ベルサイユのばらⅢ」でも馬が登場してるって
知ってた?帝劇では昔はよく本物の犬だの馬だのを使ってたというし。
だから再演できないって考えるほうが変。
「実は作品そのものが素晴らしかった」と思いなおしたんですって
「馬が大切なのではなく、作品にこそ魅力があった。これが、自分なりに
調査を終えた結論です」
作品に魅力があったからこそ「名作」になったのは言うまでもない事。
でも再演できなかった理由はどこにあったの?馬じゃないんでしょ?
結論は最初の疑問の答えになってません
「虞美人」というタイトルについて
「この傑作を新たにミュージカル化すべく、脚本を書き進めながら、
ある疑問を抱えていました。いま自分が書いているのは「虞美人」では
なく「項羽と劉邦」ではないのか。題名と内容に隔たりがあるのでは
ないか」
その通りです。素直に「項羽と劉邦」というタイトルで上演したら
バッシングされなかったかも。
何で「虞美人」なの?
「項羽と劉邦の物語は実は戦乱の時代ならではの殺し合い、騙しあいの
世界です。男性的とでも言いましょうか。そうした殺伐とした物語を救って
いるのが女性的な価値観でした。虞美人のみならず、温かく柔らかく
慈悲にみちた世界です。女性的というより観音の許しなのかもしれません」
キムシンにとって女性というのは「許し」の存在なんですね。
上演された物語のどこに女性的な価値観があったのか教えて欲しい。
虞美人は添え物。桃娘はレイプした相手を殺し、劉邦の妻は自分が
后の上の皇后になる事ばかり夢見て・・・これが女性的な価値観?
「宝塚で上演するにあたり、どうしても題名は「虞美人」でなくては
ならない。そう感じたとき、白井先生の言葉を聞いた気がしました。
「だからこそ僕は虞美人と名づけたんだよ」
「だからこそ」ってどういう意味なんでしょう?白井先生の脚本を
ちゃんと読んだことある?私はありますよ。戦前からの・・・白井先生
が「虞美人」と名づけたのは多分「虞美人」が主役だからです。
キムシンが描き出した戦いの物語ではなく、項羽の生き方に殉じた
虞美人の滅びの美学でしょう?
「我が愛は山の彼方に」も「ベルばら」も「ダル・レークの恋」もそうですが
宝塚の作品というのはどこまで「恋愛物語」であって、戦いが主であって
はいけないんです 「許されざる愛」「純粋な愛」昔の作品は全て
これがテーマ。
「宝塚の作品なんだから内容が「項羽と劉邦」であってもタイトルは
「虞美人」でないといけない・・・と白井先生は言ってるんだ」って思う
あなたが変。
多分キムシンは白井先生の「虞美人」を読んでも、どこが魅力的なのか
理解出来なかったんじゃない?
死んだ虞美人の墓に咲いた赤い芥子の花を「虞美人草」と名づけたのは
そこに儚くて美しい女性の物語があったからでしょう?
物語のテーマは項羽の「虞よ虞よ 君をいかにせん」でしょう?
愛する人の足手まといにならぬよう死ぬ女性の美学です。
脚本の体をなしていない
いつもキムシンの書く脚本を見て思うのは、
第一稿をそのまま上演
読み直しをしてない
書き直しをしない
って思う事なのね。場面が雑。台詞に意味がなく矛盾だらけで、
そのくせ自分の思想を押し付けるきらいがあると。
今回もまたそうでした。
1幕1場 高租(劉邦)の寝室はいらない
いきなり死に掛けた劉邦。そして后の呂が「跡継ぎを自分の子にしなかった」
といって恨み節を延々と述べるのですが、このシーンは最後まで
意味不明で全く無意味。省いてよし。
1幕6場 虞美人の実家もいらない
いきなり虞美人に横恋慕する王陵なる人が出てきて、言い寄ったあげく
下手に退場したと思ったら、次に出てきた項羽に斬られたんだって。
その斬った刀に項羽は「口付けせよ」と虞美人に言うのね。
虞美人のみならず私だって「へ?何で?」と思うよ
そしたら「不義を疑ってるのか?」って?うっそー何でそうなるのーー
この場面も意味不明で台詞に意味がないので省いてよし。
14場 鴻門の会の愚
ここでは盛大な宴会があり、項羽は上機嫌。でも劉邦は暗殺されかかってる。
それを一生懸命救おうとする人がいて・・・でも項羽はなーんも知らない。
これじゃ英雄はただの馬鹿にしか見えません。
ゆえにこの場面も省いてよし。
2幕 5場 荒地の怪
「一人ぼっち」だと延々歌う劉邦の前に現れた一人の女の子。
「お嬢さん、お名前は?」って劉邦は聞きますが・・・あほか?
ただの女好きの馬鹿じゃん。しかも側室になったとかいうセキって
女の子はその後、1場面しか出てこない・・・意味ないので省いてよし。
12場以降は不必要
史実はどうであれ、項羽は虞美人と一緒に死ぬのが定石だと思います。
「従う部下が一人でもいる限り死ねない」なんていうのは、宝塚歌劇では
必要のない台詞。
共に死出の旅に出て幸せな項羽と虞美人。そして勝利者といえども
后との間に確執が芽生え、およそ「愛」とはかけ離れた生活を強いられる
劉邦の不幸。この対比でよかったんですよ。そうすれば1幕1場の意味
も出て来るのでは?
・・・・というわけで脚本を書き直しなさいっ と、言いたいです。
元の脚本が読みたい
どんな話だったんでしょうね。「虞美人」って。
最近、中国のドラマ「クイーンズ」を見てまして。あれは漢の時代の
王室の話なんですけど、それによると「美人」は后の階級の一つで
そんなに高くはないんです
で、項羽は王じゃなくて武将だから、愛人が后の位にいるのは変
じゃないかなーー っと。
ゆえに「虞美人」という通称名については不明・・って事なんですね
二人の出会いも恋の行方も不明。
はっきりしているのは、項羽が戦う場に常に虞美人がいたという事。
友人が「戦場に奥さんを連れて行くのは当たり前なの?」って聞くので
「さあ・・・でも、自分が留守の間に敵に奪われて奥さんにされたら
困るから一緒に連れて行くんじゃない?」と答えておいたけど。
で・・項羽が「虞」って呼ぶのが日本人には違和感たっぷり。
「虞妃」って呼んでませんでした?
また「覇王」っていうのは決していい意味じゃないと思うんですけど
「覇王よ」って呼ぶのか・・・と、またそこで違和感が
でもこの物語で一番大事なのは
「常々戦いを一緒に潜り抜けてきた項羽の最愛の人、虞美人が
項羽の足手まといにならぬように自ら命を絶った」という事ですね。
まさに貞女の鏡とでもいいましょうか
淑女の誇り。真の愛を凝縮しているのだと思います。
そこを描いて欲しかったです。