福寿草
オリンピック憲章、その主たる内容は、スポーツの発展を通じて健全な精神・文化を養いましょう、そして政治的な動きは禁止し平和の祭典にするという宣言である。その他、細かな決まりがあるが、これを全体としてオリンピズムという、とのこと。
なるほどオリンピックはこれまで様々な思想的、政治的動きに付き纏われてきた。かつて、ミュンヘンの時は、パレスチィナ・ゲリラに襲われ、死者まで出しているし、モスクワはアフガンに侵攻したとして西側からボイコットされた。そんなトラブルを乗り越える憲章なのだらか当然といえば当然である。
しかし私にはそんな政治的なことより、サマランチが主導したオリンピックの商業化の方が大事な事だと思う。商業化はロスアンゼルスから始まり、それまで王道だったアマチュアリズムの規制をゆるめ、プロ選手の参加を認めたのであった。その結果、ソ連などで支配的だった国家アマチュアリズム、つまり国が有望選手を囲い込み、資金を出し、薬物を使用してまでの指導するシステムが解体された。スポーツが国家発揚の場だったものから、民間に委ねたと言えば良いのかもしれない。
とはいうのも、スポーツというのはお金のかかる活動だ。生活に余裕がなければ全うできるものではない。スポーツ選手にはお金を稼がせてやりたい。ところが、商業主義のオリンピックとは言えども、前記の憲章に従って、選手のウエアなどにスポンサーなどを表記することは許されていない。莫大な放送権料や大会スポンサー料はIOCの収入となる。
オリンピックはアスリートにとって、最高の舞台だと言われている。だから出場選手には絶好の稼がぎ時なのである。一部の国ではメダリストになると賞金を出すようになっているが、小国の資金のない国の選手にも、成績によって同じように稼がせてやりたい。それが現代のスポーツをもっともっと発展させる土台になると思う。
スポーツは芸能や音楽と同じように、文化芸術活動の一部である。だからスポーツをビジネスとして扱う人たちが出てきている。現に一部の大学では「スポーツビジネス」という講座が設けられているほどである。
私は学生時代、部活でスポーツに親しんできた。貧しい生活の中での活動で、備品も十分に整えることのできなかった中だったので、全く情けない活動だった。だから余計に思う。スポーツマンに資金の余裕を与えてあげたい。論理が若干飛躍するが、そのためには現在のスポーツ振興を学校教育から切り離す必要がある。スポーツが学校の広告塔でしかない現状では、アスリートに未来はないように思う。【彬】