下向きのツバキ
最近、身近なところで、老人介護の問題が持ち上がっている。施設に入所するか、自宅で訪問介護を受けるか。我が家でも意見が分かれる。私は施設派、家内は自宅派である。家内だけでなく女性は一般的に家庭内で老後を過ごすのを希望するようだ。昔、先輩の奥さんが自宅内に他人を入れることを極端に嫌っていた人がいて、室内に内装の職人を入れることさえ、よしとしなかった人がいた。
内と外、それぞれ長短があろう。施設といっても千差万別で、ホテルのようなハイレベルのものから、ただ死を待つようなものもあるようだし、また自宅でもいろいろだろう。家族が手厚く看取ってくれるものと、ただ放置されておかれるものと。老後の沙汰も金次第か。
私は施設で過ごしたい。それもなるべく早く、比較的元気な状態で入所したい。入所後は絵を描いたり、囲碁や将棋を楽しみたい。相手はいなくても今はネット上で好敵手を探すことができる。そして施設の掃除などをお手伝いし、施設の維持に役立ちたい。
日本の現在の介護制度は、自宅介護を充実させる方向に設計されている。各地に介護指導員がいて、介護職員が訪問介護をする。費用は保険料で支払われる。なぜ、このような仕組みになったのかといえば、かつての長野県などが代表的だった、老人を自宅の狭い閉所に閉じ込める風習を改めるという生活改善運動が根拠となっている。そのうえ県立など、公共病院から病床を減らすことを目標にした。そして保険料を支払うことで遠慮せず介護要員を呼び、生活改善に方向づけるということであった。こうした介護制度によって地方の老人たちの生活は一変したと言える。この方向に制度設計したのは、今井澄さんや丹羽裕哉さんたちである。今井澄といえば、諏訪中央病院の院長であり、後に参院議員になった活動家で、年配の人は誰でも知っている、東大全共闘を率いて時計台で逮捕された闘士である。丹羽さんは代々にわたり厚生労働分野で活躍した政治家。
私が自宅介護を嫌うのは、老人を孤独にするからだ。日本だけでなく、世界どこでもそのはずだが、家族というのは育児をする場所で、老人を看取る役割を持った場所ではないからだ。これは家族というものの根本的な問題点である。幼児は家庭以外では育てようがないが、老人は共同生活のできる社会性を養っている。老人は幼児かえりをするというが、記憶力や判断力、思考力が衰えるだけで、幼児になるわけではない。マルクスは人間は類として死ぬと言っているが、神になったり動物になって死ぬわけではないし、金持ちとか貧乏とか人の属性で決まるわけではない。ただ人類として死ぬのである。人類とは何かと云えば、高度な共同社会を営む動物ということ。だから自宅ではなく、共同生活の中で死を迎えるのが理想的だ、と私は考える。
今井さんたちの作った介護制度を基本とする老後の問題は、まだ日本が古くの家族制度を残していた時の制度だと思う。これからは老人の介護施設のあり方が本格的に検討されざるを得ない。現に東京近郊では数々の介護施設が建設され、人気を博しいている。問題はこれからである。
*育児の共同性というのは昔から課題であるが、第二次大戦の後、イスラエルのキブツで実験的な試みがあったが、失敗に終わっている。報告書を見たわけではないが・・・。
老後については難しい課題であり、上記については論理的ではないが、考えるヒントが各地でいろいろ出てきているように思う。【彬】