ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

小中学生の部活

2022年10月03日 | 日記

                     ダリア

 小中学校の体育や部活の在り方が問題になっている。教員の負担が大き上に、場所や設備に制約があるため、十分な活動ができないというのである。そこで、室伏長官は小中学校での過度な勝負主義を改めようと指示を出しているようだ。
 部活を学校で行うようになったのは、子供たちに教科書以外の活動を広く体験させ、より文化的な生活を送れるようにするためであった。この考えは、戦後の貧しい時代、特に地方では、大きな役割を担い、一定の成果をあげることができた。
 時代は変わった。私は義務教育では部活は廃止すべきだと以前に述べたことがある。スポーツや文化部的な活動は今の時代なら民間機関で十分補完できる環境になっているからである。ところが教員の方にこの考えを伝えたところ、一蹴されたことがあった。平等な教育に反するというのである。真面目な先生こそ、こうした考えを持っている。
 スポーツや芸術も学校単位で行うから、過度な勝ち負けや上下関係にこだわるのである。昔、英語教育の普及を目的に、一定の学区内で英語のスピーチ大会が行われていた。英語の先生は、地区内の学校に遅れをとるまいと優秀な生徒を大会に送り込んで、競技として競ったことがある。ひょっとすると今でも続いているのかもしれない。
 私は子供たちのスポーツや芸術・芸能を否定しているわけではない。大いに活動すべきである。スポーツだと大人になってからの身のこなし、芸術分野だと審美眼が数段高まる。できれば学校で体験する機会を設けてあげたい。
 そこでだが、スポーツの場合は、ゲームとして学習するのではなく、身体活動として行うことを提案したい。
 例えば野球だと投げて打って走ってのゲームだが、これをキャッチボールだけに特化する。一つの身体活動として行うのである。男女ともキャッチボールをして体の動きとボールの対する感覚を体得する。それならば、クラス全員が実行できる。サッカーだったら、ランニングパスで足の感覚を覚える。卓球やテニスはラリーだけなど。ゲーム主体になると例えばドッチボールなども勝負主義になって、体を動かす楽しさから遠ざかるを得なくなる。文化面でも同様なのではないか。一部だけを特化して全員で楽しむ。
 都会では、運動場が狭い。大きな音を出す楽器を習う場所も限定される。環境に即した教科外の楽しみ方がもっと工夫できないだろうか。
 このことが室伏長官が心配する勝負中心主義を超えていく方法ではないかと思う。さらにこうした流れになれば、現在の公園の設計の在り方も変わってくるだろうし、校庭開放などももっと盛んに行われるのではないだろうか。父母とその子が、校庭でキャッチボールをする姿など、この上ない幸せではないかと思う。【彬】

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