ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

呉座勇一・学問の通弊化

2022年10月19日 | 日記

            秋のハナミズキ

 呉座勇一さんが各所で活躍している。新しいところでは、アゴラ(net media)に投稿した梅原猛の「水底の歌ーー柿本人麿論」批判が説得的。
 梅原さんはもう亡くなって数年になろうか。いっとき、『隠された十字架 法隆寺論」『神々の流竄(るざん)』『水底の歌ー柿本人麿論』の3部作を献じ、一世を風靡した哲学者=評論家である。「水底の歌」はタイトルの通り、柿本人麻呂の評伝である。人麻呂は多くの著名な作品を残した、王朝時代の代表的歌人であるが、残念なことにその人となりが伝わっていない。朝鮮からの帰化人だという説もある。その人麻呂について梅原は、律令体制の藤原氏に睨まれ左遷されたあげく、海に投げ捨てられたと述べている。その根拠が、日本書紀に登場する「柿本臣猨」「柿本朝臣佐留」だと比定し、それを根拠に論を立てている。物証はないが、そのような風評があったとしたとした上で、その風評の中に事実を読み取ることが、歴史家の本義だとしたのである。
 当時から国文学の間では、物議を醸し、批判されていたのだが、梅原のとった方法が、文献主義・事実主義を越える手法とされ、評価を呼んだのである。
 呉座さんはこうした経緯をたどり、梅原の中に当時の近代主義批判が背景にあったとしている。確かに、1970〜80年代の左翼運動の中に、技術の進歩に促された経済の発展は、社会の矛盾を覆い隠す悪しき近代主義だとして、強い批判があった。梅原の方法はそうした思潮に乗った学問だと、呉座さんは断定している。
 学問の本義は原因=結果の関連を事実や証拠に基づいて論述するものであるが、時として時代の風潮に流され、実証を軽んずる傾向もあることは確かだろう。
 今日のロシア問題、中国問題、国葬問題、統一教会問題などで、ジャーナリズムに登場している学者の方々、啓蒙に重きをなすあまり、学問の本義を逸脱していないだろうか。自覚してほしいものだ。
 なお、柿本人麻呂の歌で、私の記憶にあるのは、
   東(ひんがし)の野に炎(かぎろい)の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
である。政権の盛衰を読んだ歌だとされていて、人麻呂は政治と近かったのは、確かなようだ。【彬】

 

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