ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

オリンピック。驚きと共感。

2021年08月10日 | 日記

 東京オリンピックが終了した。そこで、大いに驚き、そして、共感を得た。

 今回の参加は、国連加盟国数193を超える205の国と地域、そして難民選手団。参加人数1万1千人以上。世界全体が、縮図のように東京に集まった。オリンピックだから出来ることだろう。

 自国開催ということもあり、普段特に関心もなく見ることもない競技もテレビを通し観戦した。アスリートたちのパフォーマンスは、僕のような凡人には、想像を超えるもので、ただ、驚愕し、観ているだけ。自分とスリートは別の世界にいる・・・のだ。

 競技後、アスリートのインタビューを聞けることがある。そのとき、競技に備えるための、苦労と喜び、悔いること、などが語られ、生身の人間の部分が見えることがある。するとようやく共感し、改めて、その競技がいいものだと思う。

 さて、マラソン。コースは、札幌市内。

 僕は、随分前だが、同じく札幌市内を走る、夏の「北海道マラソン」に毎年9回ほど出たことがある。エリートランナーのレースと、僕のような市民ランナーの走りとは全く別のものなのだが、同じ札幌を走るということで、勝手に共感のようなものを感じてしまう。テレビを見ながら、自分が走っている気持ちでコースを追う。

 だが、この暑さ。気温30度、湿度70%以上。これは、最悪。

 自分はスタート時12時、30度、60%を体験した。その日の日記には、「スタートに立つ。それにしても今日は暑い。常識的には走る気候ではない。我々は普通ではない。」とある。暑さ対策に苦悩する選手を応援しながらも、僕自身、暑さの苦痛を思い出していた。

 オリンピックは終了した。つぎは、パラリンピック。

 人は言う、オリンピックの目的は「協調と平和」だ、と。僕も共感する。

   2021年8月10日  岩下賢治

 

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無観客ということ

2021年08月04日 | 日記

                            ひまわり

 TOKYO2020オリンピック、無観客試合がずっと続いている。そんな中、テレビを始め各種の映像メディアのおかげか、映像を通して選手たちの気合いの入ったプレイを十分に観ることができる。当初、味気ないスポーツシーンになるだろうと予想する向きもあったが、そんなことは全くなく、無観客であるからこそ、スポーツの持つ激しさ、集中力、意欲が選手達の中にかえって湧き立っているのではないか。
 観る方にもスポーツの現場の音、緊張感が伝わってくる。
 例えば野球やソフトボールでの、投手のイキリ立つ声、キャチャーミットに響く音。サッカーのボールを蹴る音、ハンドボール選手のシューズの軋む音、などなど。有観客ではこうした音はスタンドのザワメキや応援で消えてしまう。できれば陸上選手や水泳選手の荒い息遣い、格闘技の汗なども実感したいものだ。
 中継しているアナウンサーやタレントの言辞が少しばかりうるさい。無観客を補填しようとトークに気を使っているのだろうが、逆効果だと思う。むしろ静寂さの中に選手たちの勝負に賭ける決意を見たいものだ。また演出過剰も良いとは思わない。例えば陸上100メートル。レース前、レーンを暗転させ、その上、カラー模様で盛り上げる。逆効果だと思う。しっとりと整備されたアンツーカをスパイクが鋭く抉り食い込む迫力で十分。他は余計である。
 もともとスポーツは勝負が原点である。勝ち負けを争う真剣さを、楽しみや競争という、いわば娯楽的な分野に昇華したのがスポーツだから、有観客が前提になるのだが、勝負という一点に凝縮してみれば、無観客の方がふさわしいのだと思う。飾りや演出が出る幕はないのだ。
 スポーツが超ビジネスになり変わって、満員のスタンドを背景にする現在の盛上り方も素晴らしいが、一方で勝負に徹した静寂さの価値も今回のオリンピックは教えてくれているのではないだろうか。【彬】

 

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