ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

臭いの好き嫌い

2022年10月09日 | 日記

              ヘクソカズラ

 絵にしたのは臭いのきつい、ヘクソカズラ。見ている分には匂いはしないが、手で触れたりすると強い臭気を放つ。名前から想像してほしい。この臭いは自分の身を守るための臭気だそう。草花に限らず、昆虫や動植物には、臭いで身を守るものが少なくない。
 匂いというのは不思議な性質を持っていて、場合によっては、悪臭であったり、逆に香気であったりする。
 昔、「くさや」を田舎に送ってあげたら、なんだか異様な臭いがする。途中で腐ったのではないかと廃棄したと、連絡をもらったことがある。初めての人には、さもあらむ。ところが、くさやの匂いが好きで好きで、という女性もいる。彼女はそれほどの酒飲みではないが、酒のつまみにはくさやが一番だという。
 納豆が臭くて堪らない、という人が昔は九州や関西の人に多かった。東京に出てきて、朝の定食屋で、納豆が出ると困惑したとのこと。そんな人も、いつの間にか、納豆好きになっている。匂いというのは不思議なものである。
 お酒もそう。子供のうちは、なんて臭いものだ。よくこんなものが飲めるのだろう、と思う。しかし、いつの間にか酒の匂いが好きになる。
 アルコール類の匂いの元は発酵である。ワインの発見者は誰だったか、という話がある。猿だったという説もある。腐った葡萄を猿が舐めているのを見て、発見したというのだ。
 匂いに一番敏感なのは犬だ。だから警察犬が活躍するわけだが、犬が嫌いな匂いというのはあるのだろうか。ネット上では柑橘類が嫌いとある。
 人にも臭いがある。香水で誤魔化すこともある。匂い大全などという本が出版されたら、大ベストセラーになるのではないだろうか。すでにあるのかもしれない。【彬】

 

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小中学生の部活

2022年10月03日 | 日記

                     ダリア

 小中学校の体育や部活の在り方が問題になっている。教員の負担が大き上に、場所や設備に制約があるため、十分な活動ができないというのである。そこで、室伏長官は小中学校での過度な勝負主義を改めようと指示を出しているようだ。
 部活を学校で行うようになったのは、子供たちに教科書以外の活動を広く体験させ、より文化的な生活を送れるようにするためであった。この考えは、戦後の貧しい時代、特に地方では、大きな役割を担い、一定の成果をあげることができた。
 時代は変わった。私は義務教育では部活は廃止すべきだと以前に述べたことがある。スポーツや文化部的な活動は今の時代なら民間機関で十分補完できる環境になっているからである。ところが教員の方にこの考えを伝えたところ、一蹴されたことがあった。平等な教育に反するというのである。真面目な先生こそ、こうした考えを持っている。
 スポーツや芸術も学校単位で行うから、過度な勝ち負けや上下関係にこだわるのである。昔、英語教育の普及を目的に、一定の学区内で英語のスピーチ大会が行われていた。英語の先生は、地区内の学校に遅れをとるまいと優秀な生徒を大会に送り込んで、競技として競ったことがある。ひょっとすると今でも続いているのかもしれない。
 私は子供たちのスポーツや芸術・芸能を否定しているわけではない。大いに活動すべきである。スポーツだと大人になってからの身のこなし、芸術分野だと審美眼が数段高まる。できれば学校で体験する機会を設けてあげたい。
 そこでだが、スポーツの場合は、ゲームとして学習するのではなく、身体活動として行うことを提案したい。
 例えば野球だと投げて打って走ってのゲームだが、これをキャッチボールだけに特化する。一つの身体活動として行うのである。男女ともキャッチボールをして体の動きとボールの対する感覚を体得する。それならば、クラス全員が実行できる。サッカーだったら、ランニングパスで足の感覚を覚える。卓球やテニスはラリーだけなど。ゲーム主体になると例えばドッチボールなども勝負主義になって、体を動かす楽しさから遠ざかるを得なくなる。文化面でも同様なのではないか。一部だけを特化して全員で楽しむ。
 都会では、運動場が狭い。大きな音を出す楽器を習う場所も限定される。環境に即した教科外の楽しみ方がもっと工夫できないだろうか。
 このことが室伏長官が心配する勝負中心主義を超えていく方法ではないかと思う。さらにこうした流れになれば、現在の公園の設計の在り方も変わってくるだろうし、校庭開放などももっと盛んに行われるのではないだろうか。父母とその子が、校庭でキャッチボールをする姿など、この上ない幸せではないかと思う。【彬】

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国葬は何が問題なのか

2022年10月02日 | 日記

               キンモクセイ

 安倍晋三国葬が終わっても、その開催について依然として悶着を起こしている。安倍だからダメだという役割を終えた古臭い左翼のいうことはとにかく、国会の議決が必要だと述べている政党があり、これは野党に限らず与党の中でも指摘する議員がいる。
 なるほど、憲法上にも法律上も国葬を規定したものはない。識者の中でも、内閣が決定することに異議があるという人は多いようだ。橋爪大三郎氏は国権の最高機関である議会議長の関与が必要だという。またエリザベスの国葬に比べて品格がないとも。葬儀はその国の歴史が込められていて、昭和天皇の崩御の時は儒教ゆかりの野辺送りだった。西欧的な品格など意味がない。
 本題だが、人が亡くなったら、葬儀を行うわけで、国家行政に貢献した人について、これを国が行う当然の如き国事行為として、普通に認められないのだろうか。何か特別に宗教染みて挙行するわけではなく、祭壇を設け追悼するだけである。国会の審議議決が必要な案件なのか。(天皇が関与する国事行為については細かな規定がある。)
 日本の政治制度は、議院内閣制であり、国会議員が国会議員の中から内閣総理大臣を選ぶ。その内閣は当然ながら国事行為を含め、いろいろが行事が任されている。いちいち議会の承認が必要なのではない、もしそうなら議院内閣制の意味がない。内閣の裁量で行うことのできる行事だと思う。些細なことまで議会の承認とか言い出したら、議員内閣制そのものが崩壊しよう。
 費用云々をいう議論もあろう。しかし国債を発行してまで費用をやりくりするわけではなく、予備費で十分こなせる金額である。
 国葬=国事行為で問題になるとすれば、それば過度に宗教性が伴う場合である。宗教的な理念が行政を差配し、ナショナリズムを興進させることに繋がっていく。戦前の日本神道がその悪き例であることは言うまでもない。しかし国家が完全に宗教を離脱しているかといえば、そんなことはない。ロシアでのギリシャ正教、イギリスでの国教会、アメリカのプロテスタント、中東イスラム国でのイスラム教、たくさんある。
 これを薄めることこそ重要であり、死に伴う厳粛な行事を否定しては、人間の精神性を否定することにもなりかねない。
 今回の安倍国葬はよくできた行事だったと思う。【彬】

 

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