記念館の中の資料は俳句のみならず、系譜まで詳しく紹介されていました。
52歳で初婚。24歳下の女性を迎えてからも苦難の暮らしは続いたようです。
受付で礼を述べて退出しようとすると、裏にはお墓や俳諧寺もあるという。
受付近くのドアを開けて表に出ると、なるほどで石碑や俳諧寺が見えました。
俳諧寺って初めて知りましたが、一茶が本尊とは驚きです。
銅像の一茶さんも苦笑いと言ったところでは。近くには小林家のお墓もあります。
こんな石碑がいくつもあり、初めて知る句もありました。
俳句に親しんだ亡父はともかくとして、俳句には疎いスベルベで恥じ入るばかり。
これも石碑の一つです。
「初夢に故郷を見て涙かな」江戸にも何回も出て、あちらでも名を成した一茶さんです。
ここが俳諧寺の内部です。天井にも俳句などがびっしりと書かれている。
そのほかにも賛額と言うのだったかな、句会で読まれた俳句の額が飾られていました。
一茶さんは裏のお話でも有名ですが、さすがにそんなお話は館内でも説明は無し。
興味のある方は、ご自分でお調べください。ただし、驚いて腰を抜かさぬように。
(続く)
我が家と魚野川を挟んだ対岸の造り酒屋さんから養子に出た方が医者になられた。
その医者に嫁がれたのが、俗名奥村ます。後の貞心尼です。
良寛さんと貞心尼さんは年齢が離れていたことや、諸般の事情で先生と弟子、というよりも、
プラトニックラブの間柄だったようです。そんな話も伝わっています。
年に一度、リンゴを分けていただく際に訪れては、会話が盛り上がったものでした。
年に一度って、織姫と彦星のようなものだったでしょうか。
当時、いつも昼食を摂っていた鶏料理専念点があり、今回も訪れてみました。
昔と比べて、いやに客が少ないと思ったら、すぐに理由が分かりました。
店員の応対は悪いし、食べ物が出てくるのは遅いし、挙句は不味かった。
鶏肉だけは上質で、昔と同じ仕入れ先と見ましたが、店のスタッフが全部入れ替わったようです。
昔は、はやっていて昼間からビールを飲んでいる年配のお客さんが、
スベルベママママの健啖家ぶりに驚いたことなど懐かしい思い出も色あせてしまいました。
スベルベの亡父も70歳で5歳年下の母を亡くしてから、俳句に親しむようになりました。
母との思い出をうたった句も多く、父の無念な気持ちがかわいそうでした。
こちらも柿が変だという話はよく聞きました。我が家の八珍柿は良く実を付けてくれ、
娘たち家族も含めて大勢の皆さんが美味しく食べることが出来ましたよ。
一茶さんは、お話のスズメやカエルなどの生き物とのかかわりあい逸話が多かったのでしょうか。
記念館ならではの生々しい家族や、暮らしぶりが紹介されていました。
暮らしに関しては、高潔とは言えないのかな。俗人っぽいところも魅力だったのかも。
それでも江戸と何回も往来したり、当時の文人の人脈の豊かさにも驚きました。
悲しい事情でやめられたのですね。替佐(かえさ?)は飯山線の駅名前がありますね。
そのあたりはりんご、ぶどう等果樹野菜の産地です。
一茶記念館。の庭園も紅葉が綺麗です。私も恥ずかしながら詳しく一茶の事を知らないので、本を読んでみようと思いました。
高温多雨でかつてなく松茸が出た一方で、干し柿の市田柿は、水分で大玉になりすぎ、剥いても高温と水分でカビや吊るしたまま発酵したりと手をかけても廃棄しています。
特産品も作れなくなっていく異常気象はもう制御不能な所まできてしまったのかな
自分も、ずらし蒔きと場所も替えたり保険を考えようと思います。
小林一茶は有名ですがあまりよく知りません。信州人なのにー。我と来て遊べや親の無い雀 でしたっけ。住んで居た庵の畳を持ち上げてタケノコが伸び出したので屋根に穴を開けて伸ばしてあげようと屋根を焼いて丸い穴を開けようとしたら火事になって庵が燃えてしまったとか言うのは一茶さんでしたっけ。子供みたいなドジだったんですね。