伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

一丁前

2008-05-16 23:50:59 | Weblog

 ここ数年思っていることがある。
別に深く考えている訳ではない。
まあ、自分には深く考える機能がついていないのだろう。

 数年前、20数年ぶりに再開した友がいた。高校の同級生だが、事情があって海外で生活している。なんて話はどこにでも転がっているが、自分の高校は全寮制だったので「同じ釜の飯」を喰った仲間という絆があるのだ。

 同じく高校同期の仲間がやっている店で集合した。20名近い仲間が夜6時から朝の6時まで、ぶっ通しで騒いだことを覚えている。その中で妙にはっきりと頭に残っている言葉がある。

 先に記した海外生活の友の言葉だ。
「いや~、俺達もよぉ人生の折り返し地点を過ぎちゃったなぁ。残りをよぉ、楽しく過ごそうぜぇ~」
 もちろん酒が入っていたのでフニャフニャした言葉だったが、それにはハッとされられた。

 生まれてから今まで生きた年数をもう一度生きられるか・・・・
自分では否だと思っている。「何か遣り残したことはないか」と考えてみることもある。

 限られているのは仕方のない自分の人生をどう生きてきたか。この頃は、若い頃に考えたことも、フラッシュバックのように脳裏に蘇ってくるのだ。

 この記の冒頭にあるバッタの写真だが、このバッタ、体長は2cmもない。できるだけ近づき、広角にして撮影したものだ。改めて見ると一丁前である。これで大人なのだろうか。

 こんな時に哲学をする自分がいる。「今までどうやって生きて来たのだろう。こんなに小さいからこれからも大変だろう。」なんてバッタの身になってみるのだ。当のバッタは、そんなことを考える機能はついていない。ただ、大きな人間がカメラを持って近づいて来ている、そのリアルタイムの出来事に対処しようとしているのに過ぎない。


長野県、八島ヶ原湿原

 写真は八島ヶ原湿原である。地図で見るとハート型をしたかわいい湿原だ。この湿原散策コースの入り口辺りで、先のバッタを発見したのだ。
 たかがと言ってはいけないのだろうが、そのバッタの人生(生涯)を考えてみるなんてことは前はしなかった。全て、あの夜の友の言葉から始まっているのだ。

 八島ヶ原湿原を歩いているうちに、フィードバックしたことがある。
下の写真を見てほしい。上が晴天下、下が曇天下で撮影した写真であるが良く似ているだろう。これは地球上では全く反対側にある景色なのだ。

 上写真は、イギリスはイングランドとウェールズにまたがる丘陵でハージェスト・リッジという。(リッジ…ridgeとは尾根のことである)
 自分が音楽にのめりこむきっかけを作ったアーティスト、マイク・オールドフィールドが初めて全英1位を獲得したアルバムのタイトルでもある。一生に一度でいいから、その地を踏んでみたいとずっと思っていたのである。


 下写真は八島ヶ原湿原の別写真である。

 湿原を歩いてあるうちに、ハージェスト・リッジの草原を歩いていることがフィードバックされたのである。それとともに、友の言葉も蘇ってきた。
 「俺は30年来の夢を果たした。」という満足げな自分。
 「いや、あの時は熱波で頂上まで行っていない。マイクの見た景色を自分はまだ見ていない。」という不満な自分。

 それが、友の言葉と旅の景色で蘇ったのである。



ハージェストリッジ(イギリス・キングトン)


八島ヶ原湿原

 自分はつくづく欲張りだと思う。自分でフィールドを広げるだけ広げて、自分で収集がつかないような事態に追い込んでしまうこともある。自分の生活、家族、仕事、立場が許せる範囲で優先度の高いものを処理していくのが常識的な大人なのだろうがその範疇には当てはまらないことがよくある。

 しかし「友の言葉」によって見えなかった自分の欲求が見えてきたことを良く考えて整理して実行することよりも、のほほんと思って楽をしている自分が現在の姿である。

 2cmに満たないバッタの方が、よっぽどしっかりしている。
 うん、一丁前である。

コメント (2)
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