鎌ヶ谷大仏
26の時に埼玉県から千葉県に越した。
最初は船橋市に住んだのだが、アパートを探す時に新京成線に乗った。
松戸から北習志野までの初めての乗車がすごく長く感じられた。
「なんかゆっくりと走る電車だなぁ。」
それもそのはず、新京成電鉄の松戸・習志野間はとくにグニャグニャしているからだ。その時は軍用線の軌道敷跡を利用しているなんて知らなかった。
途中我に返ったのは、「・・・・・大仏ぅ~、鎌ヶ谷ぁ~大仏ぅ~でございます。」の車内アナウンスが聞こえたからだ。最初の方は聞いていなかったといって良い。
それほど衝撃的なアナウンスだった。聞いたことがない大仏だったからだ。
それから3年間、船橋市民として暮らした。その次は3年間鎌ヶ谷市民になった。その6年間のうちの5年間は鎌ヶ谷在勤だったのにもかかわらず鎌ヶ谷大仏のことは記憶から消えていた。
松戸に引越したその年、父親の実家へ行った帰りに鎌ヶ谷大仏のことを思い出し、地図を頼りに行って見た。
墓地の中にある鎌ヶ谷大仏
蓮の花の台座から頭頂までは1.8mで、ゆきたんくの身長と同じ
周囲の墓石と比べると、その大きさが想像できると思う。
地図に載っている墓地の前を通った。大仏らしきものは目に入らなかった。
途中で向きを変え、再び墓地の前を通った。また大仏らしきものは目に入らなかった。ゆきたんくの目は、そう7mくらいの大仏を想像して上を見ていたのだが空しか目に入らなかったのだ。
近くの路地に車を停め、地図で確認しながら墓地に着いた。
すると目の前にかわいい大仏様がいるではないか。
正面から見た、鎌ヶ谷大仏
大仏様の横には鎌ヶ谷市教育委員会の解説版があった。
そこには
通称鎌ヶ谷大仏と呼ばれている。
安永5年(1776年)11月、当時鎌ヶ谷邑の住人福田文右エ門が先祖の冥福を祈 るため、江戸神田の鋳物師多川主膳に鋳造させた高さ1.8米の青銅で作られた露座の大仏である。
その柔和なまなざしは、永く後世の人々に平和をさとすかのようである。これが開眼に当たっては上記福田文右エ門宅より大仏墓地に至る迄の約300米にわたる道路にござがしきつめられ、供養を行う関係者の歩行をたすけたという。これによっても当時の盛況をしのぶことができよう。
昭和48年10月 鎌ヶ谷市教育委員会
とある。 なんと一民間人が造った大仏なのである。
一般的には知られていない大仏であるが、ご先祖様に対しての気持ちをこのように表すことができることもすごいと思う。