伝えたんく

日々の何気ないできごとに感じた幸せ

一丁前

2008-05-16 23:50:59 | Weblog

 ここ数年思っていることがある。
別に深く考えている訳ではない。
まあ、自分には深く考える機能がついていないのだろう。

 数年前、20数年ぶりに再開した友がいた。高校の同級生だが、事情があって海外で生活している。なんて話はどこにでも転がっているが、自分の高校は全寮制だったので「同じ釜の飯」を喰った仲間という絆があるのだ。

 同じく高校同期の仲間がやっている店で集合した。20名近い仲間が夜6時から朝の6時まで、ぶっ通しで騒いだことを覚えている。その中で妙にはっきりと頭に残っている言葉がある。

 先に記した海外生活の友の言葉だ。
「いや~、俺達もよぉ人生の折り返し地点を過ぎちゃったなぁ。残りをよぉ、楽しく過ごそうぜぇ~」
 もちろん酒が入っていたのでフニャフニャした言葉だったが、それにはハッとされられた。

 生まれてから今まで生きた年数をもう一度生きられるか・・・・
自分では否だと思っている。「何か遣り残したことはないか」と考えてみることもある。

 限られているのは仕方のない自分の人生をどう生きてきたか。この頃は、若い頃に考えたことも、フラッシュバックのように脳裏に蘇ってくるのだ。

 この記の冒頭にあるバッタの写真だが、このバッタ、体長は2cmもない。できるだけ近づき、広角にして撮影したものだ。改めて見ると一丁前である。これで大人なのだろうか。

 こんな時に哲学をする自分がいる。「今までどうやって生きて来たのだろう。こんなに小さいからこれからも大変だろう。」なんてバッタの身になってみるのだ。当のバッタは、そんなことを考える機能はついていない。ただ、大きな人間がカメラを持って近づいて来ている、そのリアルタイムの出来事に対処しようとしているのに過ぎない。


長野県、八島ヶ原湿原

 写真は八島ヶ原湿原である。地図で見るとハート型をしたかわいい湿原だ。この湿原散策コースの入り口辺りで、先のバッタを発見したのだ。
 たかがと言ってはいけないのだろうが、そのバッタの人生(生涯)を考えてみるなんてことは前はしなかった。全て、あの夜の友の言葉から始まっているのだ。

 八島ヶ原湿原を歩いているうちに、フィードバックしたことがある。
下の写真を見てほしい。上が晴天下、下が曇天下で撮影した写真であるが良く似ているだろう。これは地球上では全く反対側にある景色なのだ。

 上写真は、イギリスはイングランドとウェールズにまたがる丘陵でハージェスト・リッジという。(リッジ…ridgeとは尾根のことである)
 自分が音楽にのめりこむきっかけを作ったアーティスト、マイク・オールドフィールドが初めて全英1位を獲得したアルバムのタイトルでもある。一生に一度でいいから、その地を踏んでみたいとずっと思っていたのである。


 下写真は八島ヶ原湿原の別写真である。

 湿原を歩いてあるうちに、ハージェスト・リッジの草原を歩いていることがフィードバックされたのである。それとともに、友の言葉も蘇ってきた。
 「俺は30年来の夢を果たした。」という満足げな自分。
 「いや、あの時は熱波で頂上まで行っていない。マイクの見た景色を自分はまだ見ていない。」という不満な自分。

 それが、友の言葉と旅の景色で蘇ったのである。



ハージェストリッジ(イギリス・キングトン)


八島ヶ原湿原

 自分はつくづく欲張りだと思う。自分でフィールドを広げるだけ広げて、自分で収集がつかないような事態に追い込んでしまうこともある。自分の生活、家族、仕事、立場が許せる範囲で優先度の高いものを処理していくのが常識的な大人なのだろうがその範疇には当てはまらないことがよくある。

 しかし「友の言葉」によって見えなかった自分の欲求が見えてきたことを良く考えて整理して実行することよりも、のほほんと思って楽をしている自分が現在の姿である。

 2cmに満たないバッタの方が、よっぽどしっかりしている。
 うん、一丁前である。

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朝比奈切り通し

2008-05-15 23:51:36 | Weblog

 2004年6月27日の早朝、何かにとりつかれたかのように車を鎌倉に走らせたゆきたんくであった。千葉県松戸市から神奈川県鎌倉市までの約80キロメートルを1時間20分ほどで走破する。

 鎌倉七口の一つの切り通しで、比較的大きいのに朝比奈切り通しがある。入り口の様子から、1年中樹木の陰でジメジメしている感じを受ける。霧と押しの中は樹木の緑だけではなく、苔むしている部分も多く見られる。他の切り通しと比べると、殆ど近代化されておらず、切り通し全盛の雰囲気が味わえるとっておきの切り通しでと聞いた。


階段のようなものも…

 何はともあれ、この切り通しを歩いて鎌倉時代の情緒に触れてみた。途中には樹木が切れて日が差していた所があったのでセルフタイマーで記念写真を撮る。


記念写真である。

 とにかく歩くのに大変な場所もあった切り通しであった。鎌倉武士の声を聞くことは出来なかったが魂のようなものは感じることができた。

 しかし、思い立ったら・・・・・   性格かねぇ。

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利根運河

2008-05-14 23:50:58 | Weblog

 千葉県北西部の野田市と流山市、を分けるように流れる利根運河という川がある(北端は柏市である)。
今では、東武野田線の運河駅近くは親水公園のようになっている。


利根運河・流山市の清辺北岸辺り

 


千葉県北西部…左上方向に角のように
尖がっている。黄色の小さい矢印の所に
利根運河がある。右側に利根川、左側
に江戸川が流れているのが分る。

 昔の水運では、利根川から左上の関宿に登り、改めて江戸川を下るような経路を通っていたが、距離があること、江戸川に大きな浅瀬があって大型船が通行できないなどの問題があったため、ショートカットするように運河が造られたという。


上の地図の拡大
利根川と江戸川を結ぶ利根運河が分る

 この工事を請け負ったのがオランダ人技術者のローウェンホルスト・ムルデルで、ムルデルの顕彰碑が、東武野田線の運河駅近傍の利根運河水辺公園に設置されている。


ムルデル顕彰碑(千葉県流山市)

 なお、この計画は、単に利根川と江戸川を結ぶということだけではなく、茨城県沖の鹿島灘をショートカットする内陸水路の建設とも連携し、太平洋岸の水運を一気に改善しようという壮大な計画の一環であったという。

 陸路が発達し、ますます運輸は便利になった。利根運河が活躍したのは、20年ほどだという。ここは今親水公園である。

                                      2008.05.20加筆訂正

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本当だぁ

2008-05-13 23:58:41 | Weblog

 縦に2700kmのインドと横に5200kmのインドネシアの稜線を結ぶと、その中に東南アジアの国々の殆どが入ってしまう。インドで始まった大乗仏教はインドネシアでその最盛期を迎え、インドネシアのジャワ島中部にボロブドゥールとプランバナンという2大世界遺産を遺した。宗教建築物として規模も大きい。


プランバナン

 インドとインドネシアの間にマレーシアがある。その首都クアラルンプールにはペトロナス・ツイン・タワーという500m近い高層ビルが建っている。アクション物の映画に使用されているので見たことがある方もいらっしゃると思う。ゆきたんくはマレーシアは未踏の地なので、ウィキペディアより写真を拝借した。このツインタワーを初めて見た時に、複雑なデザインだと思ったことを覚えている。そして、①「宗教的な意味を持っているらしい。」ことも友人から聞いた。いまひとつピンとこなかったのだが、プランバナンの写真と比較すると①が納得できるのである。

 建築物として、その高さは10倍も違うが、デザインは確かに似ているのだ。

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宿題

2008-05-12 23:59:20 | Weblog

 宿題?なんのことはない。
ホームページのネタが溜まったのである。
旅行関係(旅たんく)の項である。

とは言え、2006年の暮れから2007年にかけての旅行をアップできそうだ。
まずは写真の奈良である。これは奈良市高畑町の「史跡・頭塔」。伝えたんくでも何回か登場している。

 そして京都。これはたっぷりと4日分ある。枠に写真を入れたが、コメントが真っ白である。


羅城門跡・京都

 京都は神社仏閣・戦跡と盛りだくさんである。なんと言っても世界遺産をじっくりと見たことである。


2007年4月15日、日帰りの岐阜・高山祭り

 そうそう、朝早く大宮に集合し、新幹線で上田へ、バスで高山へという強行軍。とはいえツアーなので楽なこと。


2007年8月8~9日、岐阜・白川郷

 合掌造りで有名な世界遺産白川郷。その世界遺産に泊まった記念すべき旅行である。


インドネシア・ジャカルタのファタヒラ広場

 義理の兄の案内で充実した旅行となったインドネシア。そのインドネシアの首都ジャカルタは、中央部、南部、北部とそれぞれの文化の色合いの違いを堪能できた。なんと言ってもユーミンの歌にある「スラバヤ通りの妹に」のスラバヤ通りを歩けたのは自慢である。


ジョグジャカルタのプランバナン

 ジャワ島中部にあるジョグジャカルタには世界遺産が二つある。一つは冒頭の写真「頭塔」と同時期に出来たボロブドゥール寺院である。この2つは関係あると言われている。そしてもう一つは、プランバナン寺院郡である。マレーシアのクアラルンプールにある双子ビルに形がよく似ている。

 とにかく、ネタを溜めすぎたので写真に名前をつけて整理中である。アップできるのはいつの日か・・・・・・・

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生で見る3億5千万年前

2008-05-11 23:51:16 | Weblog

写真は岩手県にある鍾乳洞の幽玄洞の入り口である。
この奥に見えるガラス戸の先から鍾乳洞である。

近くにはげいび渓があり、風光明媚な所である。
実はこの鍾乳洞というのは、ゆきたんくの三大恐怖症の2つを含んでいるのだ。
①高所恐怖症
②暗所恐怖症
③閉所恐怖症

 ②③の世界、それが鍾乳洞である。

 この写真を見ていただきたい。次男のつっくんが狭い通路を降りていく。それも身をかがめてである。かれよりも二周り体の大きなゆきたんくが通れるのか・・・


狭い通路

 ゆきたんくの恐怖症紹介のページではなかった。そう、この幽玄洞という鍾乳洞が日本最古の3億5千万年という地歴を持っていることである。

 普通鍾乳洞の岩石の表面はフローストーン(流れ石…)という、水に溶けた石灰石が覆うのが通常である。それは鍾乳石になったり、石筍になったりする。ところが、この幽玄洞はそのフローストーンで覆われる前に土砂が堆積して、鍾乳洞の表面がフローストーンで覆われなかったので、生で地層を見れることになる。すなわち日本で一番古い地歴3万5千万年前の地層が生で見れるわけである。


幽玄洞奥にある浄魂の泉

 それもさることながら、地底湖(浄魂の泉)の色の綺麗なこと。そして透き通っているのだ。山口県の秋芳洞に代表されるような大きな鍾乳洞ではない。しかし、生の古地層ばかりか、化石類なども見所満載である。
 近くに行った時にはお寄りいただきたい。

 

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復活

2008-05-10 23:52:21 | Weblog

 待ってたいにもかかわらず、なかなか行くことの出来なかった鉄道博物館を訪れることができた。東京秋葉原は万世橋にあった、旧交通博物館はゆきたんくの人生の中で母との思い出を克明にたどることができる場所であった。その交通博物館が永い歴史に終止符を打ったのが2006年5月だ。


旧交通博物館展示の急行車両

 63年ぶりに旧万世橋駅の遺構も公開され、思い出の確認と、2度と見るチャンスがないかもしれない遺構の見学に次男を伴ってでかけてからもう2年が経つ。


旧万世橋駅のレンガアーチ

 今度はさいたま市に「鉄道博物館」としてオープンするという予告を頭の中に残したまま、その頭の引き出しはロックされたままであった。今回は、仕事がらみということもあるが、前日の夜から遠足を控えた小学生の子供のように期待感で胸が膨らんでいた。今回もご他聞に漏れず、沢山の写真を撮った。その中で前述の気持ちを表すのに一番の写真が冒頭の写真である。

 旧交通博物館では、電車や汽車を一両一両見ることはできた。しかし、この写真のようにズラッと並んでいるのを見ることはできなかった。今回見た、この光景は壮観である。こんなのは東京駅や上野駅でも見ることはできない。小さい頃に電車の運転手になることを夢見て、日曜日にはJR大井町駅の開かずの踏み切り近くの陸橋から様々な種類の電車を見て喜んでいた時の気持ちが蘇ってきた。時間をかけて見ることが出来た電車が一堂に会したのである。

遅まきながら、

     祝 復活、鉄道博物館!

 名称は変わったが、ゆきたんくの中では万世橋にあった旧交通博物館が蘇ったのである。

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骨格

2008-05-09 23:56:53 | Weblog

 みなさんも見覚えがあることだろう。
あの学校の理科準備室にいる奴・・・
2人くらいは思いつくのではないだろうか。
そう、全身白い奴と、皮膚がはがれていたり、中身が半分見えていたりする彼である。今回は全身白い奴に関係のあることを書こうと思う。

 世の中には、絶世の・・・とか、二目と見られない・・・とか、千差万別の姿の方達が存在する。もちろんゆきたんくもその一人であるが、どう贔屓目に見ても、後者の方に属するように思う。その物差しも時代によって違うと言われている。顔について言えば、今では「イケメン」なんて言葉が流行っている。「しょうゆ顔」なんて言葉はどこかへ行ってしまった。

 しかしどんな人であっても一皮剥けば、その中に入っているのは、白い骨なのである。あの理科準備室の留守番をしている骨格標本とそんなに変わりはない姿なのである。

 その骨に関する言葉をいくつか挙げてみよう。
 骨子…中心 重点 要点 主眼 基調 要領 ポイント
 骨董…宝物・古物
 骨惜しみ…
怠ける・惰ける
 骨折る…努力

 「目で見ることのできない」ことについて遣われることが多いようである。 
 つまり「骨」というのは重要なことがらを表すキーワードだということである。

 写真を見ていただきたい。千葉県松戸市の東漸寺の境内にある枝垂桜である。花をつけていない枝だけの時はなんとも不気味な感じがする。
 下の写真は、北京にある世界遺産「明の十三陵」にある椿(と聞いた)である。こちらも枝だけで、空恐ろしい形状である。



「明の十三陵」の椿

 いずれにしても、花咲く季節になれば、愛でている観光客の心を和ませるに違いないのである。花で一杯になる木は相当な重量が増すという。それを支えるためにはしっかりとした骨格がないとだめだというのは分る。

 そして長い年月をかけて、重量をしっかりと支える自分なりのスタイルも身につけたのであろう。

 しっかりとした人生の大輪を咲かせる人というのは、そのバックボーンがしっかりとしている。そのボーンというのは骨という意味である。

 大輪が咲くような準備を常日頃から怠らないことが大切なのは、様々なことから学ぶことができるのである。ここまで偉そうにのたまわったゆきんたくは、まだまだ骨が細いのである。とほほ…

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鎌ヶ谷大仏

2008-05-08 23:53:35 | Weblog

 写真を見ていただきたい。なんのことはない、大仏様である。
では、話が終わってしまうので続ける。

 ゆきたんくが千葉県に来てから20年になる。千葉県に居を構えるために北習志野の不動産屋を紹介された。松戸から新京成電鉄に乗った。その途中のアナウンスで聞いたのが「鎌ヶ谷大仏」である。世の中に大仏と名のついたものは数多くあれど、「鎌ヶ谷大仏」というのは初めて聞いた。そして、実際にその大仏があると聞いたのは、その3年後である。そして初めて写真を撮ったのは、その12年後の2003年のことである。

 その初撮影時に、実物にお会いすることができたのだが、身の丈(とは言っても座高)1.8mのかわいい大仏様であった。(中には小仏と陰口をたたく方もいる。)

近くの案内板に、その説明があった。

鎌ヶ谷大仏

位 置    鎌ヶ谷市鎌ヶ谷493番地

 通称鎌ヶ谷大仏と呼ばれている。安永5年(1776年)11月、当時鎌ヶ谷邑(むら)の仕人福田文右ェ門が、先祖の冥福を祈るため。江戸神田の鋳物師多川主膳に鋳造させた高さ1.8mの青銅で作られた露座の大仏である。その柔和なまなざしは、永く後世の人々に平和をさとすかのようである・・・・・

という一民間人が造ったことに驚きを覚えるとともに、後世に残され、駅の名前にまでなってしまった鎌ヶ谷大仏は、今日も穏やかな顔をしている。

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匿名のいじめ

2008-05-07 23:58:17 | Weblog

 時々思い出すことがある。まずは写真の説明から。
 写真は1986年に訪れた、北海道旭川市にある「川村カ子ト(かねと)アイヌ記念館」の中を歩くゆきたんくである。
 初めての飛行機、初めての北海道、初めて触れるアイヌ文化ということで心が踊りっぱなしの印象深い旅行であった。その15年後、友人のすすめでHPを作ることとなり旅の項目を設けようと思ったのは、この時の北海道旅行の感動があったからである。
 今でこそ旅が好きであるが、この当時は出不精であった。
お金をかけてわざわざ遠くへ行くことはないのに・・・なんて具合だ。

  それが「幸たんく」の旅のコーナー「旅たんく」のトップでは、

 「見知らぬ土地、いわゆる初めての土地に立った時は自分の存在がなんと小さく感じることでしょうか。 幼い時に経験した、不安にも似た感覚を瑞々しく感じることができるのが旅であると思います。 また旅での経験が自分を変えていく糧の一つであることを表現できたらとも思います。  また、日本では旅行と一言で済んでしまいますが、一般的なtravel、旅…trip、長旅…journey、周遊・観光…tour、小旅行…excursion、船旅…voyage、cruiseを全て含んでいます。節操なしのなんでもありです。」
 
なんて、偉そうにのたまわっている。
 それだけ、この時の旅行の影響が大きかったのである。
 北海道の項を設け、「川村カ子トアイヌ記念館」の記事を書いた。そして自分の記事の中にリンクを貼った第1号として記念館のオフィシャルページを見つけて貼った。リンクフリーとか、通知を確かめる必要の是非はどこかへ飛んでいた。

 そしてしばらくして記念館のサイトを覗いてみた。伝言板(懐かしいなあ)があったのでカキコ(死語か)をしようと思ったのだ。そこで見たものはアラシであった。いやらしい言葉の羅列、某サイトへのリンクの貼り付け。何度か削除された形跡は見るもののしつこいくらいに貼り付けが続く。その3カ月後、記念館のサイトは姿を消した。

 それから7年が経つ。その後2度と「川村カ子トアイヌ記念館」のオフィシャルサイトは目にしていない。アイヌ文化の歴史、カ子ト氏の測量士としての業績、そして貴重な写真の数々・・・
 今では、検索をかけても旅行者の訪問記念の記事しかヒットしない。
 あの稀少な価値を持つサイトが、心無い書き込みによってネット界から姿を消してしまったのは、作者の心があまりにも大きな傷を受けたことを表しているのだと思っている。

 その原因は匿名のいじめである。

http://www.g-web.co.jp/ainu/ このURLは今も、消さないで貼り付けたままである。そしてリンク先には「Internet Explorer ではこのページは表示できません」の表示が出る。それはあえてそのままにしてある。

この記事は2007.12.08の対句に当たると思っていただきたい。

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視界良好

2008-05-06 23:55:06 | Weblog

 岐阜県荻町の白川郷と富山県の高岡を結ぶ有料道路に東海北陸道がある。
道路の端を飾るガードレールがなく、支柱にワイヤーを貼っただけのものなので、景色が誠に良く見える。景色に気をとられて接触事故を起こすこともない。なぜならば、この時はゆきたんくの車が菓子きり状態で走っていたからである。そして走行中で、一緒に白川郷に行った友人も寝ていたので写真撮影を頼めなかった。撮ろうとしたのは制限速度表示。丸い看板に数字の書いてある奴だ。確か記憶が正しければ100だったと思う。そして有料道路であることも忘れて、時速があと20kmアップすると違反になってしまうと思いながら走り続けていた。


ナビに表された、東海北陸道

 良く考えると有料道路なのだから時速140kmまでよかったのだろうか。まあ、ゆきたんくの視界には1枚目写真のような景色がずっと映っていたのである。


ゆっくりと流れていく雲たち・・・

 他の車が走っていないばかりか、対向車線にも車を認めることができない。ドライブ好きのゆきたんくにとって至福のひと時であった。

 白川ICから小矢部砺波までの40kmをすいすいと走ることのできた道である。

 邪魔者がいない感じってのはこういうものなのか。

 また、この道路と雲と青空に会いに行きたい。

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ルネッサンス(その2)

2008-05-05 23:50:33 | Weblog

 長男の記録会(陸上競技)を見に行った帰り、旧関宿町(野田市)を通過する。
埼玉県の加須から幸手に入り、江戸川を越えると関宿である。
そして流山街道に入るのだが、その一歩手前に旧関宿小学校の跡地がある。

 この跡地のことについて、先日のプログ「ルネッサンス(その1)」で寄稿した。
もちろん、昨日に見た跡地のことで変化があったから(その1)として続編をにおわせたのである。

 久しぶりに鈴木貫太郎記念館そばに車を停めて、旧関宿小学校跡地を見る。
すると、たくさんのテントがあるではないか。キャンプ場に使われているのか。
であれば、再びこの地に子供達の姿が戻ってきたことになる。
この日は残念ながら人の気配は無かったが、確実にこの場所が生かされていることが誰が見ても分る状態であった。

 
写真左の石碑も嬉しいそうに見える。
(ゆきたんくにはそう見える)

 公共の場によく見られる避難場所の案内が目に留まった。
「関宿あおぞら広場」と記されていた。
 かつて、幾多の子供達が駆け抜けて行った、関宿町立関宿小学校。
 この千葉県最北端にあった小学校の敷地が、再び子供達のため生き返ったのである。これからここで様々な経験をし、成長する糧にするのだと思うとわくわくする。
名前も「関宿あおぞら広場」なんて、大変よろしい。

 かつてのヨーロッパで起こった文化復興運動のことをルネッサンスと言ったが、直訳すると「再生」ということになる。そして正しい表記は小さい「ッ」のないルネサンスが一般的なようだ。

 そして、今まで息子の大学に行くたびに通るこの道を、楽しい気分で走る抜けることができるのがとても嬉しい。

 今は無き、関宿町立関宿小学校は、野田市の関宿あおぞら広場に生まれ変わったのである。

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ルネッサンス(その1)

2008-05-04 23:49:18 | Weblog

 巷では「ルネッサーンス、チーン」なんてお笑い芸人がやっているが、その意味をご存知なのだろうか。(まあ、知っているとも思うが…)

 ここは鈴木貫太郎(終戦時の首相)記念館の横にある旧関宿町立関宿小学校の跡地。
 この写真を見て一抹の寂しさを押さえられないのは、かつてこの場所でたくさんの子どもたちが時間を共有していたという事実があったからではないか。

 前に関宿城址博物館を訪れた時に、旧関宿小学校の横の道を通った。
今では懐かしい木造の平屋建ての校舎が、自分の存在を主張していたのを覚えている。「ここで一番の先輩よ!」といった感じだ。その校舎たちが跡形も無く消えてしまった。土台のしっかりと作ってある石碑だけがそこに残っている。

 実はゆきたんくの所属した小学校の寿命も風前の灯なのである。場所は東京であるが子供の数は確実に少なくなっているのだ。ゆきたんくが小学校6年生の頃は全学年5クラスあり、30学級の大きな学校だった。校庭が狭いこともあり、なんとプールは屋上に移されたのである。そして現在では全校で7クラスになってしまった。中学校は小中一貫校として校舎を建て替え、青春といたずらの限りを尽くした証拠が消えてしまった。そして高等学校は都内唯一の全寮制高校であったが、これも平成10年にその歴史を終えた。

 この旧関宿小学校跡地を見ていると、自分の履歴とオーバーラップして悲しい気持ちになるのだ。
 明日はルネッサンス(その2)を書く。       

 現在の関宿小(野田市立関宿小学校)はここから1km.離れた所に校舎を新築し開校している。

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カントリーロード

2008-05-03 23:02:23 | Weblog

 UK旅行で、ウェールズのB&Bパンディ・インからハージェスト・リッジを目指した時があった。夢にまで見た、イギリスの田舎を車で走ること。それが実現した。しかもカントリーロードという言葉が当てはまりそうな風景の中を走る快感。同乗していた女房と次男のつっくん、女房の友人は、どこに連れて行かれるのだろうと不安だったに違いない。ガソリンだけは満タンにしておいた。これでしばらくは迷うことが、もといドライブを楽しむことができるだろう。という安易な心構えでハンドルを握るゆきたんくであった。

 そして、どこを通ったか。グーグルアースやUKの地図を見て、通った道を確かめてみた。

 走る道の殆どは両脇を垣根でふさがれている。時々切れ間があって、そこからはオレンジとグリーンのパッチワークのような草原が見えた。まことに牧歌的な風景に感じた。しかし、この垣根一つの長いこと・・・。

グーグル・アースで、走った辺りの上空からの写真を見た。


ウェールズの上空

 緑のもこもこが移っているが、これが道路の両脇を固める樹木である。イギリス特有の景色、パッチワークを形作る境目のもこもこ樹木がある所は道路だったのである。


道を塞ぎそうなところ

 1枚目の写真は標準的な生え方なのではないだろうか。上写真の道を塞ぎそうなところもあったし、中にはトンネルのようなところもあった。


トンネルみたいなところ

 上り坂になり、高い位置に来ると、比較的樹木の幅が広がり、視界も開けてくる。


視界が開け、明るくなる。

 さらに高いところに来ると


垣根はあるが、高さが低い。

 すごく視界が広がったと思ったが、ここは交差点である。道の占める面積が多いのだ。しかし垣根が低いので右奥にはもっと背の高い尾根が見える。

 この地点をグーグル・アースで見つけたので、その写真をキャプチャーした。


ゆきたんくが「give-way」と名づけた地点

 この交差点の右下の道から上がってきたのだ。道に沿って樹木が生えており、交差点で視界が広がることが分るだろう。ここから古本の町ヘイ・オン・ワイまで2.5マイル(約4km)のところである。またこの後、30kmほど走ってハージェスト・リッジについたがそのドライブは大変楽しいものになったこと。同乗者の3人が「ホッ」と胸をなでおろしたことを付け加えておこう。

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スルー

2008-05-02 23:40:43 | Weblog

  写真は浅草の仲見世であり、大抵はこのように道行く人で混んでいることが多い。


浅草仲見世①雷門から


浅草仲見世②浅草寺から

 雷門側から見ても、浅草寺から見ても、これだけの人が一仏閣を目当てに集まって来るとは、浅草寺には大変な魅力があるということだ。その浅草寺境内には様々な小神社仏閣がある。一番最初の写真は伝法院の境内である。柵一つ隔てただけで賑わいの世界と沈黙の世界に分かれてしまうのが面白い。


伝法院の境内

 ご覧のように、最初の写真では境内はガラガラ、そして境内の中に石像のある伝法院である。


浅草寺

 ここ浅草を訪れる方々がめあてとしているのは浅草寺へのお参りであろう。仲見世の喧騒の中に何人もの人がスルーした伝法院。その名前を冠した伝法院通りは食堂がずらりと並び、道行く人々を捉えている。

 寂しいかな伝法院。

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ブログ村Ping

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