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その多く(特にテレビ)が、この 1年を振り返るものがほとんどの様に見受けられるのは、遊爺が接するものが偏っているからでしょうか?
もちろん、1年間でどう変わったのか=復旧・復興が進み、被災された方々が救われたか、立ち直られたかを改めて検証することは大切です。がしかし、それらが遅れていて、自治体としても、企業や個人の生活設計にしても、一向に将来設計が見えてきていないことは、周知のことです。
ただ 1年の映像や事象をドキュメントタッチで流して、遅れてるとのボヤキを繰り返して、すごく立派な報道をしていると自己満足しているものが、テレビの報道番組に多いのですがみられます。つまり、被災者の立場での最も身に迫る今や将来のことまたは、日本国全体の広い将来を見据えた視野での問題発掘・提起と言った未来志向のものがほとんど見られないのです。
そのなかから、未来のことや、風潮に遠慮せずに語られていたことを数点拾ってみました。
先ずは、日経の社説。
今の日本は、後ろ向き・下向き・内向き。前向き・上向き・外向きで「新しい近代」をつくりあげていくための模索が日本に求められていると言うのです。
東日本大震災によって、現代日本の物の考え方が厳しく問い直されている。とりわけ科学への信頼がゆらぎ、近代文明そのものに疑問符がついた。大震災から1年、われわれは現在にどう向き合っていけばいいのだろうか。
大震災でパンドラの箱が開いた。科学技術は進歩し、経済も社会も発展を続けていくという考え方への疑念が噴き出したからだ。
「主体性喪失」の専門家
東京電力の福島第1原子力発電所の事故が与えた衝撃は、はかりしれない。
危機にあたって政治家に適切な助言をできなかった科学者、電力会社の対策の不備を知る立場にありながら必要な改善をさせ得なかった技官たち……。
科学史家の山本義隆氏は、原子力推進の流れの中で「科学者や技術者は主体性を喪失してゆく」と指摘する。
科学者や技術者ら専門家のふがいなさが、自然を制御可能と考えるのは人間の思い上がりだといった見方とも重なり合って、科学技術に対する「後ろ向き」の受けとめ方につながった。
「下向き」の時代の空気も広がっている。作家の五木寛之氏の『下山の思想』に端的にあらわれている。
「戦後60数年、私たちは上をめざしてがんばってきた。(中略)いわば登山することに全力をつくしてきた。(中略)めざす山頂に達すると、次は下りなければならない。(中略)登ったら下りる」
たしかに戦後の日本は、高度成長をへて世界第2の経済大国になり、バブル崩壊以降の低迷で中国に抜かれ3位になったとはいえ、高みに到達した。
しかし、デフレが続き低成長から抜けだせない。人口も減っていく。登山から下山へという気分が社会を覆っているのは事実だ。
「内向き」の発想も目立つ。環太平洋経済連携協定(TPP)交渉参加への反対論などもその表れといえる。
こうした時代の方向をくくる言葉が「脱近代」だ。政治家では、枝野幸男・経済産業相がキーワードだと言い切る。「大量生産、大量消費社会の発想を問い直し、パイの大きさからパイの中身を問う時代だ」と語る。
リベラル派の政治家だけでなく、保守思想家も「脱近代」論を展開する。
佐伯啓思・京大教授は、大震災・原発事故を近代文明への警鐘とみなし「効率性を追求する今日の経済システムの大転換を図る、という『脱近代主義』の方向」を選択する、という。
後ろ向き・下向き・内向き。そして脱近代。こうした流れに、さおをさしていいのだろうか。
まず「前向き」でありたい。『日本沈没』などの作品で科学文明の行く末に警告を発してきた小松左京氏は、昨年夏亡くなる直前の遺稿に「人間の知性と日本人の情念を信じたい」と書きこんだ。
批評家の吉本隆明氏は「発達してしまった科学を、後戻りさせる選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じだ」と明快だ。
たしかに科学技術には限界も欠点もある。しかし、それを克服しながら進んできたのが人類の歴史であるのはまちがいない。
「成長のスピリッツ」
「上向き」の成長も、ぜひとも必要だ。高齢化に伴い国の社会保障予算は年々1兆円単位で増えていく。増税が避けられないのは言うまでもないが、経済成長がなければとてもその財源はまかなえない。「成長のスピリッツを失った国に未来はない」(安倍晋三元首相)というのはその通りだ。
「外向き」の対応も求められる。少子高齢化で国内市場はどうしても縮んでいく。外に向かって打って出ない限り、企業の売り上げも利益も伸びない。
戦時中、主義主張をこえる結び目となった言葉に「近代の超克」がある。もちろん時代背景はまったく異なるが、脱近代という言葉にも、どこかそれを思わせるものがある。
近代の脱か超かという議論も結構だが、今の日本に求められているのは、前向き・上向き・外向きで「新しい近代」をつくりあげていくための模索だろう。
大震災が開いた日本社会のパンドラの箱。ギリシャ神話では箱の奥に、希望が残っていたはずだ。
東日本大震災で価値観が世論を分けている物の大きなもののひとつに原発があります。
即時廃止論、安全確認後再稼働し代替エネルギー開発と並行移行等諸説ありますが、議論が尽くされぬまま、自動的に即時全機停止に向かっているのが現状ですね。世界では数少ない原発廃止を決めた国の代表のドイツでさえ、他国からの購入(そのエネルギーは不問)のバッファを持ち、なおかつ10年後を目指して計画的に進めるというものです。
産経の社説には、耳を傾けるべきでしょう。
【主張】原発事故1年 世界の潮流を見失うな 根拠薄い「危険神話」に決別を - MSN産経ニュース
よみうりテレビの「ウェークアップ!ぷらす」では、青森県弘前市出身・元軟式テニス部キャプテンの虎屋アナが陸前高田市長と副市長にインタビューしていましたね。
市長、副市長が「震災を忘れないで見に来て、見たことを広めて」と仰った控えた言葉に含まれていることを察し、「そういったことを、市長、副市長に言わせてしまう私たちは反省しなくては」と返していました。
久保田崇副市長は、内閣府の官僚でしたが、脱官僚でテレビタレント紛いで稼ぐ輩が多い中、被災地をボランティアで訪れたのを契機に、陸前高田市の復興に尽力し、現場意識とかけ離れている国の官僚と闘っておられるのです。
震災被災地で多くの課題がありますが、復興を阻んでいる大きな要因の一つにガレキの処理がありますね。
絆を唱える割には、ほとんどの自治体が受け入れ処理を拒否しています。震災直後の日本人の絆の強さは世界から賞賛されましたが、日本人は変わってしまったのかとの声が聞かれます。
メディアは、被災地ががれきの山と奮闘して困っている様子をもっと伝えて、国民と自治体の協力を促すべきです。それが、市長、副市長の「見に来て伝えて」の言葉でしょう。過去の記録の放映もさることながら、今とこれからに向けての課題解決に直結する報道が、被災者の方々が最も望んでおられることでしょう。
(陸前高田市は、がれき処理の依頼はしていませんが、東北全体としてお願いしたいと。)
全国自治体の長が、東京都のように決断しリーダーシップを発揮いただけることを願います。橋下氏も、この件では動きが鈍く、リーダーシップと決断力で石原氏の足元に及ばない。八朔は今が旬で美味しいのですが、自治体同士として、率先して安全ながれきにこそ手を出して。。
# 冒頭の画像は、陸前高田・久保田副市長(右側)
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