国家の誕生に、民族の自立という起源がありますが、台湾民族の流れはどうなっているのかと、検索してみました。
台湾の民族と国家
台湾の原住民は、日本では高砂族と呼ばれるマレー・ポリネシア系人なのだそうです。
台湾本島の一部を領有したオランダの台湾政庁が、大陸から漢族系移民を招来し、オランダの台湾統治末期には、漢族系人が約4万人の人口に達し、原住民とほぼ同じぐらいの人口となった様です。漢族系移民は、福建、広東からの移民とされるが、その実、華南の住民が純粋な漢族ではありえなくなっていたそうです。
また、漢族系移民は、原住民を文化度が低いとし差別視していたようです。
以後、鄭氏王朝、清国、日本、中華民国による支配のもとで、漢族系人は急速に増えていくが、原住民人口は伸びず、また漢族系人による圧迫で、両者の対立関係は日本統治期の中頃までつづいたそうです。
漢族系人と大陸との間には民族の違いの意識は当初は見られず、清国が台湾を日本に譲渡し、日本人と対比のなかで「台人」とか「台民」との表現で意識され始めたのが台湾民族の始まり。
中国からの自立を目指すときに、台湾民族としての自立が唱えられ、世界に認められることが出来るのでしょうか...?
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台湾の民族と国家
台湾の原住民は、日本では高砂族と呼ばれるマレー・ポリネシア系人なのだそうです。
台湾本島の一部を領有したオランダの台湾政庁が、大陸から漢族系移民を招来し、オランダの台湾統治末期には、漢族系人が約4万人の人口に達し、原住民とほぼ同じぐらいの人口となった様です。漢族系移民は、福建、広東からの移民とされるが、その実、華南の住民が純粋な漢族ではありえなくなっていたそうです。
また、漢族系移民は、原住民を文化度が低いとし差別視していたようです。
以後、鄭氏王朝、清国、日本、中華民国による支配のもとで、漢族系人は急速に増えていくが、原住民人口は伸びず、また漢族系人による圧迫で、両者の対立関係は日本統治期の中頃までつづいたそうです。
漢族系人と大陸との間には民族の違いの意識は当初は見られず、清国が台湾を日本に譲渡し、日本人と対比のなかで「台人」とか「台民」との表現で意識され始めたのが台湾民族の始まり。
台湾人意識は日本による台湾支配の五〇年間に確立されたことは、すでに定説になっている。しかし、当時の台湾人意識は民族のレベルに到達していたとは思えない。
台湾人意識は、日本人への抵抗の過程で生れ、そして皮肉なことに、台湾総督府による日本語教育によって各種族間に共通する言語ができ、さらに通信、交通、経済開発などによって住民同士の交流がさかんになったことが、その形成を容易たらしめた。
台湾人意識は、日本による支配に抵抗する過程で生れたが、それは漢族的ショーヴィニズムの影響で原住民を疎外し、それゆえに汚点を含むものであった。「台湾人」とは、原住民を含むものであり、この小論で、原住民以外の台湾人をすべて「漢族系台湾人」としたのはそのためである。また、そのさいに「漢族」とせずに、「漢族系」としたのは、この人たちは、福建、広東など華南の地で、「中華」からは「南蛮」とみられていた人たちとの雑婚、台湾渡来後は原住民との雑婚をくりかえしており、「漢族」と称するには根拠が薄いからである。ただし、かれらが自分たちを「漢族」出身だと主張する以上、その意見を尊重すべきであるとの観点からこれを加味して「漢族系」としたのである。
原住民と漢族系台湾人との関係は、霧社事件の例にみられるように、好転しているが、基本的には第二次世界大戦後にずれ込むことになる。
台湾人意識は「民族」の下位意識である。それは台湾民族意識に昇華する可能性を秘めながらも、日本民族のなかの台湾人、中華民族のなかの台湾人にとどまる可能性を持っていた。
結局のところ、台湾人意識は日本民族意識に吸収されず、台湾は日本の支配から離脱することができた。また、日本統治末期における漢民族主義運動の退潮もあって、台湾人意識は漢民族、したがって中華民族の民族意識にも傾斜しなかった。また、独自の民族としての自覚が遅れたため、台湾民族意識も確立されなかった。
台湾における「民族」の概念は、中華民国に対抗する過程で生れたものではなかったため、漢、台両民族のあいだには境界線はなく、台湾民族主義がその独自の性格を確立するには、中華民国による台湾支配などの「中国経験」を持つまで待たねばならなかった。
台湾人意識は、日本人への抵抗の過程で生れ、そして皮肉なことに、台湾総督府による日本語教育によって各種族間に共通する言語ができ、さらに通信、交通、経済開発などによって住民同士の交流がさかんになったことが、その形成を容易たらしめた。
台湾人意識は、日本による支配に抵抗する過程で生れたが、それは漢族的ショーヴィニズムの影響で原住民を疎外し、それゆえに汚点を含むものであった。「台湾人」とは、原住民を含むものであり、この小論で、原住民以外の台湾人をすべて「漢族系台湾人」としたのはそのためである。また、そのさいに「漢族」とせずに、「漢族系」としたのは、この人たちは、福建、広東など華南の地で、「中華」からは「南蛮」とみられていた人たちとの雑婚、台湾渡来後は原住民との雑婚をくりかえしており、「漢族」と称するには根拠が薄いからである。ただし、かれらが自分たちを「漢族」出身だと主張する以上、その意見を尊重すべきであるとの観点からこれを加味して「漢族系」としたのである。
原住民と漢族系台湾人との関係は、霧社事件の例にみられるように、好転しているが、基本的には第二次世界大戦後にずれ込むことになる。
台湾人意識は「民族」の下位意識である。それは台湾民族意識に昇華する可能性を秘めながらも、日本民族のなかの台湾人、中華民族のなかの台湾人にとどまる可能性を持っていた。
結局のところ、台湾人意識は日本民族意識に吸収されず、台湾は日本の支配から離脱することができた。また、日本統治末期における漢民族主義運動の退潮もあって、台湾人意識は漢民族、したがって中華民族の民族意識にも傾斜しなかった。また、独自の民族としての自覚が遅れたため、台湾民族意識も確立されなかった。
台湾における「民族」の概念は、中華民国に対抗する過程で生れたものではなかったため、漢、台両民族のあいだには境界線はなく、台湾民族主義がその独自の性格を確立するには、中華民国による台湾支配などの「中国経験」を持つまで待たねばならなかった。
中国からの自立を目指すときに、台湾民族としての自立が唱えられ、世界に認められることが出来るのでしょうか...?
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台湾自立の理由のひとつの、民族自立。世界が納得してくれるかどうかですね。