竹島が日本の領土なのか、韓国の領土なのかの歴史資料では、両国の学者で主張が異なっていますが、日本固有の領土であることを示す資料が新たに確認されたのだそうです。
島根県に編入される前後の竹島での漁業の実態を調べようと、日本国際問題研究所(東京都)が、舩杉准教授と島根県竹島問題研究会の升田優委員に依頼した調査で確認されたもので、島根県公文書センターが所蔵する文書「竹島海驢実況覚書」に鳥取県琴浦町赤碕地区の「銭本某」という人物らが明治38年6月4日に竹島に渡航しアシカ50頭を捕獲したことが記載されていたというもの。
鳥取県琴浦町赤碕地区の「銭本某」という人物らが同年6月4日に竹島に渡航しアシカ50頭を捕獲したというもので、「銭本某」が「銭本荘八」と突き止めたのだそうです。
銭本は明治38年6月当時、58歳。地元の漁師8人とともに帆船で琴浦町赤碕の菊港を出港。竹島で2隻の小舟に乗り換え、アシカ猟を行ったと。
江戸時代には米子(現在の鳥取県米子市)の商人がアシカ猟をしたと史料に記され、明3治8年に竹島が島根県に編入された後、乱獲を防ぐため県が猟を許可制にした。
竹島海驢実況覚書には、銭本らと同時期に竹島でアシカ猟を行った隠岐などの7グループについても記載され、当時竹島でアシカ猟が盛んに行われていたことを伝える。一方、韓国が同時期に主体的に竹島でアシカ猟を行っていた記録はないと。
竹島の歴史で混乱される元となっている原因は、韓国側で、鬱陵島を竹島と言い、竹島を松島と呼んでいた時代がありややこしくなっています。
大谷、村川家が鬱陵島(竹島)で、翌1693年(元禄6年)に安龍福(アンピンシャ)と朴於屯(パク・オドゥン)の二人を捉え、米子で二か月にわたる取り調べを行い、幕府に報告したことがありました。
竹島一件 - Wikipedia
安龍福は対馬藩によって韓国に引き渡されましたが、その後再び来日し、鬱陵島、子山島は朝鮮領であると訴えています。
このことが、今日、安龍福が竹島に上陸した実績として語られています。
舩杉准教授は「韓国側の根拠のない主張に反論できるよう、山陰の人たちが島根県への編入以前から竹島でアシカ猟をしていたことを今後も実証的に研究し、内外に公表していきたい」と話しておられるのたせそうです。
竹島問題に関しては、下條正男拓殖大学教授が著名で島根県庁の「竹島問題研究会」座長もしておられますが、多くの研究者増えて、歴史の事実が明らかにされていくこと望みます。
# 冒頭の画像は、竹島海驢実況覚書の「銭本某」の記載を示す舩杉力修准教授
この花の名前は、ラッバスンセン
竹島に関する動画 / 政府広報 - YouTube
杉原由美子氏による絵本「メチのいた島」読み聞かせ - YouTube
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竹島でアシカ猟の資料確認 明治期に鳥取からも参入 - 産経ニュース 2020.2.18
わが国固有の領土でありながら、韓国の不法占拠が続く竹島(島根県隠岐の島町)。竹島が島根県に編入された明治38年(1905年)に同県だけでなく、鳥取県の住民も竹島でアシカ猟をしていたことが、島根大法文学部の舩杉力修(ふなすぎ・りきのぶ)准教授(歴史地理学)らのグループの調査で初めて確認された。グループは「日本固有の領土であることを補強する成果」としている。
竹島に渡った鳥取県民特定
調査は、島根県に編入される前後の竹島での漁業の実態を調べようと、日本国際問題研究所(東京都)が、舩杉准教授と島根県竹島問題研究会の升田優委員に依頼した。
鳥取県の住民によるアシカ猟の記述が確認されたのは、島根県公文書センターが所蔵する文書「竹島海驢(あしか)実況覚書」(明治38年)。鳥取県琴浦町赤碕地区の「銭本某」という人物らが同年6月4日に竹島に渡航しアシカ50頭を捕獲したことが記載されていた。
詳細を確かめるため、グループは昨年10~12月に同町で現地調査を実施。子孫の証言などから「銭本某」が江戸時代後期の弘化4年(1847)年4月14日生まれで、68歳で死去した「銭本荘八」と突き止めた。
さらに島根県浜田市の外ノ浦(とのうら)に入港した船の記録から、銭本が赤碕地区にあった廻船問屋に船頭として雇われ、帆船「蛭子丸(えびすまる)」に乗っていたこともわかった。
銭本は明治38年6月当時、58歳。地元の漁師8人とともに帆船で琴浦町赤碕の菊港を出港。竹島で2隻の小舟に乗り換え、アシカ猟を行った。皮や油を関西方面に販売したとみられる。
島根県が猟を許可制に
竹島はかつてニホンアシカの繁殖地だった。
江戸時代には米子(現在の鳥取県米子市)の商人がアシカ猟をしたと史料に記され、明3治8年に竹島が島根県に編入された後、乱獲を防ぐため県が猟を許可制にした。
同年6月5日には、隠岐で水産事業を営んでいた中井養三郎ら4人にアシカ猟が許可され、共同でアシカ猟を行う「竹島漁猟合資会社」が設立された。
今回の調査では、竹島でのアシカ猟の許可申請を島根県に出した「島田虎蔵」が赤碕地区の人物だったことも文書で確認した。鳥取県に住む島田がわざわざ島根県に許可申請を出したのは、竹島が島根県に編入されていたことを島田が認識していたことを示す資料となる。
このほか、41年4月19日午後2時ごろ、竹島で日露戦争時の機械水雷(機雷)を発見した大谷利吉が赤碕地区の住民だったことが別の文書から確認された。
舩杉准教授は「明治30~40年ごろにかけて赤碕地区の人たちがアシカ猟でグループを作り、許可を求め、操業もしていた。竹島と赤碕地区が深い関係をもっていたことがわかる」と話す。
盛んだった竹島のアシカ猟
赤碕地区は江戸時代以降、海運業が盛んだったが、鉄道の開通で明治38年ごろには次第に衰退していた。その頃、アシカの皮製品は日露戦争による需要増で高値で取引されており、「赤碕地区の住民は航海技術に長けていたので、新しい産業を探して竹島に行き始めたのではないか」とみられている。
竹島海驢実況覚書には、銭本らと同時期に竹島でアシカ猟を行った隠岐などの7グループについても記載され、当時竹島でアシカ猟が盛んに行われていたことを伝える。一方、韓国が同時期に主体的に竹島でアシカ猟を行っていた記録はないという。
舩杉准教授は「韓国側の根拠のない主張に反論できるよう、山陰の人たちが島根県への編入以前から竹島でアシカ猟をしていたことを今後も実証的に研究し、内外に公表していきたい」と話している。
わが国固有の領土でありながら、韓国の不法占拠が続く竹島(島根県隠岐の島町)。竹島が島根県に編入された明治38年(1905年)に同県だけでなく、鳥取県の住民も竹島でアシカ猟をしていたことが、島根大法文学部の舩杉力修(ふなすぎ・りきのぶ)准教授(歴史地理学)らのグループの調査で初めて確認された。グループは「日本固有の領土であることを補強する成果」としている。
竹島に渡った鳥取県民特定
調査は、島根県に編入される前後の竹島での漁業の実態を調べようと、日本国際問題研究所(東京都)が、舩杉准教授と島根県竹島問題研究会の升田優委員に依頼した。
鳥取県の住民によるアシカ猟の記述が確認されたのは、島根県公文書センターが所蔵する文書「竹島海驢(あしか)実況覚書」(明治38年)。鳥取県琴浦町赤碕地区の「銭本某」という人物らが同年6月4日に竹島に渡航しアシカ50頭を捕獲したことが記載されていた。
詳細を確かめるため、グループは昨年10~12月に同町で現地調査を実施。子孫の証言などから「銭本某」が江戸時代後期の弘化4年(1847)年4月14日生まれで、68歳で死去した「銭本荘八」と突き止めた。
さらに島根県浜田市の外ノ浦(とのうら)に入港した船の記録から、銭本が赤碕地区にあった廻船問屋に船頭として雇われ、帆船「蛭子丸(えびすまる)」に乗っていたこともわかった。
銭本は明治38年6月当時、58歳。地元の漁師8人とともに帆船で琴浦町赤碕の菊港を出港。竹島で2隻の小舟に乗り換え、アシカ猟を行った。皮や油を関西方面に販売したとみられる。
島根県が猟を許可制に
竹島はかつてニホンアシカの繁殖地だった。
江戸時代には米子(現在の鳥取県米子市)の商人がアシカ猟をしたと史料に記され、明3治8年に竹島が島根県に編入された後、乱獲を防ぐため県が猟を許可制にした。
同年6月5日には、隠岐で水産事業を営んでいた中井養三郎ら4人にアシカ猟が許可され、共同でアシカ猟を行う「竹島漁猟合資会社」が設立された。
今回の調査では、竹島でのアシカ猟の許可申請を島根県に出した「島田虎蔵」が赤碕地区の人物だったことも文書で確認した。鳥取県に住む島田がわざわざ島根県に許可申請を出したのは、竹島が島根県に編入されていたことを島田が認識していたことを示す資料となる。
このほか、41年4月19日午後2時ごろ、竹島で日露戦争時の機械水雷(機雷)を発見した大谷利吉が赤碕地区の住民だったことが別の文書から確認された。
舩杉准教授は「明治30~40年ごろにかけて赤碕地区の人たちがアシカ猟でグループを作り、許可を求め、操業もしていた。竹島と赤碕地区が深い関係をもっていたことがわかる」と話す。
盛んだった竹島のアシカ猟
赤碕地区は江戸時代以降、海運業が盛んだったが、鉄道の開通で明治38年ごろには次第に衰退していた。その頃、アシカの皮製品は日露戦争による需要増で高値で取引されており、「赤碕地区の住民は航海技術に長けていたので、新しい産業を探して竹島に行き始めたのではないか」とみられている。
竹島海驢実況覚書には、銭本らと同時期に竹島でアシカ猟を行った隠岐などの7グループについても記載され、当時竹島でアシカ猟が盛んに行われていたことを伝える。一方、韓国が同時期に主体的に竹島でアシカ猟を行っていた記録はないという。
舩杉准教授は「韓国側の根拠のない主張に反論できるよう、山陰の人たちが島根県への編入以前から竹島でアシカ猟をしていたことを今後も実証的に研究し、内外に公表していきたい」と話している。
島根県に編入される前後の竹島での漁業の実態を調べようと、日本国際問題研究所(東京都)が、舩杉准教授と島根県竹島問題研究会の升田優委員に依頼した調査で確認されたもので、島根県公文書センターが所蔵する文書「竹島海驢実況覚書」に鳥取県琴浦町赤碕地区の「銭本某」という人物らが明治38年6月4日に竹島に渡航しアシカ50頭を捕獲したことが記載されていたというもの。
鳥取県琴浦町赤碕地区の「銭本某」という人物らが同年6月4日に竹島に渡航しアシカ50頭を捕獲したというもので、「銭本某」が「銭本荘八」と突き止めたのだそうです。
銭本は明治38年6月当時、58歳。地元の漁師8人とともに帆船で琴浦町赤碕の菊港を出港。竹島で2隻の小舟に乗り換え、アシカ猟を行ったと。
江戸時代には米子(現在の鳥取県米子市)の商人がアシカ猟をしたと史料に記され、明3治8年に竹島が島根県に編入された後、乱獲を防ぐため県が猟を許可制にした。
竹島海驢実況覚書には、銭本らと同時期に竹島でアシカ猟を行った隠岐などの7グループについても記載され、当時竹島でアシカ猟が盛んに行われていたことを伝える。一方、韓国が同時期に主体的に竹島でアシカ猟を行っていた記録はないと。
竹島の歴史で混乱される元となっている原因は、韓国側で、鬱陵島を竹島と言い、竹島を松島と呼んでいた時代がありややこしくなっています。
大谷、村川家が鬱陵島(竹島)で、翌1693年(元禄6年)に安龍福(アンピンシャ)と朴於屯(パク・オドゥン)の二人を捉え、米子で二か月にわたる取り調べを行い、幕府に報告したことがありました。
竹島一件 - Wikipedia
安龍福は対馬藩によって韓国に引き渡されましたが、その後再び来日し、鬱陵島、子山島は朝鮮領であると訴えています。
このことが、今日、安龍福が竹島に上陸した実績として語られています。
舩杉准教授は「韓国側の根拠のない主張に反論できるよう、山陰の人たちが島根県への編入以前から竹島でアシカ猟をしていたことを今後も実証的に研究し、内外に公表していきたい」と話しておられるのたせそうです。
竹島問題に関しては、下條正男拓殖大学教授が著名で島根県庁の「竹島問題研究会」座長もしておられますが、多くの研究者増えて、歴史の事実が明らかにされていくこと望みます。
# 冒頭の画像は、竹島海驢実況覚書の「銭本某」の記載を示す舩杉力修准教授
この花の名前は、ラッバスンセン
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杉原由美子氏による絵本「メチのいた島」読み聞かせ - YouTube
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