世界第二位にまで成長した中国経済。このまま「将来を将来を約束された強国」が真の姿なのか、深刻な構造的課題に直面し成長率低下がみられる今日の姿が示す様に「長期的にも見通し不安定な国」なのか、二つの姿が見え始めています。どちらが正しい未来像なのだろうかと問いかけている記事があります。
2008年の世界金融危機で米国型のリベラルな資本主義の信頼度が損なわれて以来、独裁主義的な効率重視の「中国モデル」が注目されましたが、将来について不安視される様になった今、「これからの中国の30年がこれまでの30年をそっくり再現したものには決してならない」と指摘されています。
分母が大きくなれば、成長率が低減するのは当然の話ですが、成長の過程で放置された格差問題、人権(自由)や環境破壊無視が顕在化し、民意の離反を恐れる独裁政権が辿る、ナショナリズムの扇動が憂慮されます。
記事で指摘される通り、既に南シナ海で、「国民の不満を懐柔するため、国外での冒険主義」は、一線を越えており、頻繁な尖閣諸島での領海侵入も日本の主権を犯すものであることは衆知のことです。
中国政府が抱える課題を解決すぺく対処するときに、共産党政権の独裁維持を優先するのか、国民生活を優先するのかで、二つの中国選択分岐点での行動が別れます。
日本や世界は、中国の選択が、国際社会特にアジアでの混乱を産まない様、抑止力を高め、国際ルールから逸脱させない誘導が必要です。
安保法制成立が、何故今急がれるのかの由縁ですね。
# 冒頭の画像は、抗日戦争70年記念軍事パレードの参列者
この花の名前は、ペルシカリア‘レッドドラゴン
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2008年の世界金融危機で米国型のリベラルな資本主義の信頼度が損なわれて以来、独裁主義的な効率重視の「中国モデル」が注目されましたが、将来について不安視される様になった今、「これからの中国の30年がこれまでの30年をそっくり再現したものには決してならない」と指摘されています。
分母が大きくなれば、成長率が低減するのは当然の話ですが、成長の過程で放置された格差問題、人権(自由)や環境破壊無視が顕在化し、民意の離反を恐れる独裁政権が辿る、ナショナリズムの扇動が憂慮されます。
中国の未来像 経済減速 揺らぐ「強国」 リチャード・ハース 米外交問題評議会会長 (10/12 読売 地球を読む)
国際問題に関心がある60歳以上の人なら、「二つの中国」と言えば、1949年以降に国家承認獲得を競った赤い中国(大陸)と台湾による外交戦を思い出すことだろう。それぞれ正式名称は、中華人民共和国と中華民国の間の争いである。
70年代初めには、世界のほとんどすべての国が中華人民共和国側の北京政府だけが正統な中国政府であるという主張を受け入れるようになっていた。とにかく中国大陸は経済的にも戦略的にもあまりに大きくかつ重要であり、どの国にとっても疎外しておくわけにはいかなかったのだ。
今日では新しく、まったく性格の異なる「二つの中国」問題が浮上している。ここで核心になるのは、中国は短期的に困難はあっても将来を約束された強国なのか、それとも深刻な構造的課題に直面して長期的にも見通し不安定な国なのかという問題だ。要するに非常に異なる「二つの中国」像が垣間見えている。果たしてどちらの未来像が本当だろうか。
最近まで、こんな疑問を投げかける理由はほとんどなかった。中国経済は近年も10%以上の驚くべき成長を続けてきた。中国経済は日本を追い越して世界第2位の規模となり、何億人という中国人が中間層入りを果たした。独裁主義的な効率重視の「中国モデル」は多くの開発途上国に魅力的なものに映った。米国が震源地になった2008年の世界金融危機で米国型のリベラルな資本主義の信頼度が損なわれた後では、特にその傾向が強まった。
だが今や、中国の将来に関する疑問は避けて通れなくなった。経済成長率は公式には7%近くまで減速しており、実際の数字は5%未満ではないかと考える人が多い。
減速自体は驚くことではないはずだ。すべての開発途上国は、成長で経済が成熟すれば同様の経験をする。しかし、減速のスピードと規模は中国当局者たちの意表をつき、計画通りの近代化推進に必要なだけの成長を確保できるかどうかという不安を駆り立てるものであった。
予想を超えた急激な景気減速に対する中国政府の警戒感は、7月に起きた株価暴落の最中に市場を凍結してしまおうとした強引な介入にも表れていた。続いて8月には、唐突な人民元の切り下げも行われた。この為替政策もまた、中国の輸出主導型の経済成長からの転換が期待通りには進んでいないことをうかがわせている。
成長の代償 直面する選択
一方、習近平(シージンピン)国家主席による反腐敗キャンペーンは、中国の経済と社会を良くするための国家改革努力というよりも、権力の基盤固めのための戦略という様相が色濃くなっている。
確かに汚職ははびこっており、習氏のキャンペーンは依然、幅広い人気を博している。だが、習氏が起こした「訴追の波」は官僚たちを萎縮させ、必要な決断を下すこともできなくした。いずれ刑事告発に直面するのではないか、という恐怖心が高まっている。
こうした状況を受け、最近では「中国モデル」への言及が大きく減る一方、「中国の現実」を語る言葉がしきりに聞こえてくるようになった。「現実」の中に含まれているのは経済の減速以外に、過去数十年にわたる石炭依存の急速な工業化がもたらした深刻な環境破壊がある。ある推計によれば、中国では大気汚染は毎年160万人を死に至らしめているという。
苛烈な「一人っ子政策」の予期していなかった結果の一つが人口高齢化であり、これも長期的な繁栄を脅かす要因になっている。生産年齢の男女の数と、彼らに依存する子供・年金生活者の数の比率を示す従属人口指数は今後、急速に上昇していく見通しだ。経済成長が抑制される一方で医療費と年金の負担が増し、政府予算をますます圧迫していくだろう。
そして、いよいよ明白になってきていることがある。中国の指導者たちは資本主義のもたらす経済成長のみを望み、それに付随する不都合な側面を捨象している点だ。彼らは開かれた社会が創出する技術革新は欲しいのだが、そのような社会の本質である知的自由のことは抜きにしたい。だが、何かを得るには代償は付き物である。
中国の台頭を恐れる人々の中には、現在の困難を見て安堵あんどする向きもあるだろう。だがいずれ、そうした反応は近視眼的なものだったと明らかになる時が来るかもしれない。
中国の成長が一段と減速すれば世界経済の回復を阻害するだろう。成長が鈍れば、中国は気候変動など地球規模の課題への取り組みにも消極的になりそうだ。
そして最も危険なのは、苦境に陥った中国が経済成長鈍化と政治的自由の欠如に対する国民の不満を懐柔するため、国外での冒険主義に転じる誘惑に駆られることだ。
実際、南シナ海では今、中国政府がまさにそれを行っている兆候がある。支配政党が国民に生活水準の急速な向上を提示できなくなった時、ナショナリズムこそが自らの正当性の主要な源泉になり得る。
米国と他の諸国は、中国がそうした誘惑に駆られた行動に出ないように対抗していく必要がある。併せて、世界共通のルールに従って責任ある行動を取るならば指導的な国々の仲間に喜んで加える、というシグナルを中国に送る方法も賢明だろう。
しかし、それよりもさらに大きな政策的選択が中国自身の手で行われなければならない。中国政府は今後、政府の利益と個人の権利、経済成長と環境保全、そして国家の役割と市場の役割との間に、それぞれ適切な均衡を見いだす必要があると思う。
中国が直面する選択は困難であると同時に、選択の回避も許されない。選択に伴って大きな社会不安が生じる可能性も排除できない。だが一つ確かなのは、これからの中国の30年がこれまでの30年をそっくり再現したものには決してならないということである。
国際問題に関心がある60歳以上の人なら、「二つの中国」と言えば、1949年以降に国家承認獲得を競った赤い中国(大陸)と台湾による外交戦を思い出すことだろう。それぞれ正式名称は、中華人民共和国と中華民国の間の争いである。
70年代初めには、世界のほとんどすべての国が中華人民共和国側の北京政府だけが正統な中国政府であるという主張を受け入れるようになっていた。とにかく中国大陸は経済的にも戦略的にもあまりに大きくかつ重要であり、どの国にとっても疎外しておくわけにはいかなかったのだ。
今日では新しく、まったく性格の異なる「二つの中国」問題が浮上している。ここで核心になるのは、中国は短期的に困難はあっても将来を約束された強国なのか、それとも深刻な構造的課題に直面して長期的にも見通し不安定な国なのかという問題だ。要するに非常に異なる「二つの中国」像が垣間見えている。果たしてどちらの未来像が本当だろうか。
最近まで、こんな疑問を投げかける理由はほとんどなかった。中国経済は近年も10%以上の驚くべき成長を続けてきた。中国経済は日本を追い越して世界第2位の規模となり、何億人という中国人が中間層入りを果たした。独裁主義的な効率重視の「中国モデル」は多くの開発途上国に魅力的なものに映った。米国が震源地になった2008年の世界金融危機で米国型のリベラルな資本主義の信頼度が損なわれた後では、特にその傾向が強まった。
だが今や、中国の将来に関する疑問は避けて通れなくなった。経済成長率は公式には7%近くまで減速しており、実際の数字は5%未満ではないかと考える人が多い。
減速自体は驚くことではないはずだ。すべての開発途上国は、成長で経済が成熟すれば同様の経験をする。しかし、減速のスピードと規模は中国当局者たちの意表をつき、計画通りの近代化推進に必要なだけの成長を確保できるかどうかという不安を駆り立てるものであった。
予想を超えた急激な景気減速に対する中国政府の警戒感は、7月に起きた株価暴落の最中に市場を凍結してしまおうとした強引な介入にも表れていた。続いて8月には、唐突な人民元の切り下げも行われた。この為替政策もまた、中国の輸出主導型の経済成長からの転換が期待通りには進んでいないことをうかがわせている。
成長の代償 直面する選択
一方、習近平(シージンピン)国家主席による反腐敗キャンペーンは、中国の経済と社会を良くするための国家改革努力というよりも、権力の基盤固めのための戦略という様相が色濃くなっている。
確かに汚職ははびこっており、習氏のキャンペーンは依然、幅広い人気を博している。だが、習氏が起こした「訴追の波」は官僚たちを萎縮させ、必要な決断を下すこともできなくした。いずれ刑事告発に直面するのではないか、という恐怖心が高まっている。
こうした状況を受け、最近では「中国モデル」への言及が大きく減る一方、「中国の現実」を語る言葉がしきりに聞こえてくるようになった。「現実」の中に含まれているのは経済の減速以外に、過去数十年にわたる石炭依存の急速な工業化がもたらした深刻な環境破壊がある。ある推計によれば、中国では大気汚染は毎年160万人を死に至らしめているという。
苛烈な「一人っ子政策」の予期していなかった結果の一つが人口高齢化であり、これも長期的な繁栄を脅かす要因になっている。生産年齢の男女の数と、彼らに依存する子供・年金生活者の数の比率を示す従属人口指数は今後、急速に上昇していく見通しだ。経済成長が抑制される一方で医療費と年金の負担が増し、政府予算をますます圧迫していくだろう。
そして、いよいよ明白になってきていることがある。中国の指導者たちは資本主義のもたらす経済成長のみを望み、それに付随する不都合な側面を捨象している点だ。彼らは開かれた社会が創出する技術革新は欲しいのだが、そのような社会の本質である知的自由のことは抜きにしたい。だが、何かを得るには代償は付き物である。
中国の台頭を恐れる人々の中には、現在の困難を見て安堵あんどする向きもあるだろう。だがいずれ、そうした反応は近視眼的なものだったと明らかになる時が来るかもしれない。
中国の成長が一段と減速すれば世界経済の回復を阻害するだろう。成長が鈍れば、中国は気候変動など地球規模の課題への取り組みにも消極的になりそうだ。
そして最も危険なのは、苦境に陥った中国が経済成長鈍化と政治的自由の欠如に対する国民の不満を懐柔するため、国外での冒険主義に転じる誘惑に駆られることだ。
実際、南シナ海では今、中国政府がまさにそれを行っている兆候がある。支配政党が国民に生活水準の急速な向上を提示できなくなった時、ナショナリズムこそが自らの正当性の主要な源泉になり得る。
米国と他の諸国は、中国がそうした誘惑に駆られた行動に出ないように対抗していく必要がある。併せて、世界共通のルールに従って責任ある行動を取るならば指導的な国々の仲間に喜んで加える、というシグナルを中国に送る方法も賢明だろう。
しかし、それよりもさらに大きな政策的選択が中国自身の手で行われなければならない。中国政府は今後、政府の利益と個人の権利、経済成長と環境保全、そして国家の役割と市場の役割との間に、それぞれ適切な均衡を見いだす必要があると思う。
中国が直面する選択は困難であると同時に、選択の回避も許されない。選択に伴って大きな社会不安が生じる可能性も排除できない。だが一つ確かなのは、これからの中国の30年がこれまでの30年をそっくり再現したものには決してならないということである。
記事で指摘される通り、既に南シナ海で、「国民の不満を懐柔するため、国外での冒険主義」は、一線を越えており、頻繁な尖閣諸島での領海侵入も日本の主権を犯すものであることは衆知のことです。
中国政府が抱える課題を解決すぺく対処するときに、共産党政権の独裁維持を優先するのか、国民生活を優先するのかで、二つの中国選択分岐点での行動が別れます。
日本や世界は、中国の選択が、国際社会特にアジアでの混乱を産まない様、抑止力を高め、国際ルールから逸脱させない誘導が必要です。
安保法制成立が、何故今急がれるのかの由縁ですね。
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