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偏見

2016年03月10日 16時58分59秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


五感を超えた世界に意識を開かれてゆく道筋は、個的なものだと思っています。

理解や認識の速度、たどる道のり、そこから生まれる説やイメージ、みな人それぞれ ということです。




「スピリチュアル」 などという言葉が 時としていかがわしく聞こえるのは、あまりにもいろいろな説 (互いに矛盾するものも多い) があって、そのおのおのを固く信じたり 説き聞かせたりする人々がいる一方で、どれひとつとっても 客観的に実証不可能なものばかりだからじゃないかな。。。。と思ってみたりするのですが。

今の私は、矛盾するものも含め それら全部あり (正しい正しくないということではなく) だと思っています。

五感で捕まえられない世界とは 個的な世界であり、その人の信じたものが その人の世界 ・ その人の答だと思うから (^^)

「人の数だけ宇宙がある」 ってことですね☆




当ブログのカテゴリに 「貴秋の視点、あるいは偏見」 っていうのがありますが、これは 貴秋という人間の意識を通った時点で その発する言葉は すべて偏ったものであるとわかった上で書いています、確信犯です(笑)、っていう宣言です (おい) 。

貴秋の視点は、「世のすべての人口分の一」 に過ぎず、その誰とも違う 貴秋独特に偏った視点なわけです。

その意味では、「貴秋の視点、すなわち偏見」 と言い換えてもいいぐらいのものですが ( ̄∇ ̄;)

まあ 何がきれいだ何が美味しいとはしゃぐぐらいでは、偏りがあるとて そうそう目くじらをたてることもないのでしょうが、五感を超えた世界のこととなると、少々話が違ってきます。




五感を超えた世界は、決まった形がない分 あまりにもなんでもありで どうとでも言えてしまう一方、これ! という万人向けの答が見当たらない世界です。

答は自身の体験から導き出すもの、そしてそれがドンピシャ当てはまるのは この世でただひとり、自分だけ。

そんな状況で、他者の答 すなわち 「偏見」 を やたらあがめることも否定することも 意味をなさないと思うのです。

たとえ、どれほど素晴らしい師に心酔して その言動を寸分たがわずまねてみても、これ!という境地に達したときには、微妙に自分色がかったオリジナルに変貌しているはず。

この世にただひとりの かけがえのない自分だからこそ、そうなるのです。




ただ これが手がかりということなら、「偏見」 は この上なく役立つ素晴らしい手がかり ・ ヒントになります。

なんかこれいいな、やってみたいな、と心に響くものを 手当たり次第試す中から、自分なりの答やものの見方が生まれます。

自分だけの答を探し求めるこのプロセスこそ、人生の究極の味わい \(^o^)/ ・・・・だと思うんだなぁ、「貴秋の偏見」 では




というわけで このブログ、特に 「貴秋の視点、あるいは偏見」 カテゴリの記事は、ああまた貴秋がなんか言っとるなぁ、ぐらいのところでさらりとお読みいただいて、お氣に召すものがあれば そこだけいいとこどりで活用していただければ なによりかと思います。

私も これまで以上に独断偏見であることを恐れず、思うがままに どんどん書いていく所存です。

今はもう 意見や視点の相違に角突き合わせている場合じゃない、内なる探究に勤しむ ひとりでも多くが 自分なりの答を持ち寄って、できるだけ多種多様なヒントや手がかりを提示することが大事・・・・・このところ なぜかしきりと そう言われているような氣がするのです。