氣になることがあると、すとんと得心がいくところまで突き詰めずにいられない。。。。。これはもう、貴秋の生まれつきの習性だとでも思うよりほかありません (*^▽^*)ゞ
で、今回は 人工知能 ・ AIのことが 今なお頭を離れないのですが、実のところ 私が氣になっているのは、AIそのものよりも、それを生み出す元となった 知能 ・ 論理 ・ マインド偏重傾向が いまだもてはやされていることのほうです。
私個人の 「行ってかえる」 の 「行き」 の道のり は、ひたすら知識や論理を研ぎ澄ませ 理詰めで突き進むというものでしたが、そこには つねに敵に囲まれているという緊張感がありました。
世の中は恐ろしいところ、油断ならないところ、という世界観を最初にがっちり刷り込まれたがために、理に長けることを己が武器として、いつも氣を張り詰め 肩肘張って生きてきたのです。
そんな経験から知ったのは、言葉というものが その 「分け出す」 性質ゆえに、容易に戦いの道具となりうること。
いのちの視点から見れば、世の中のあらゆる区分は いつも白黒びしっと分かれているわけではなく、その間に 濃淡さまざまなグレーの領域があります。
昼と夜、暑さと寒さ、健康と不健康、高低、軽重、長短、一見対立するふたつのものが、実はひとつの要素の程度の違いでしかなく、その間は あるかなきかのわずかな差の連続、グラデーションなのです。
そしてまた、静と動、生と死のように あからさまに真反対に見える二要素が 同時に成り立つ世界でもあります。
不動の静物も 視点を変えれば 絶えず振動し続ける微粒子の集合体だし、生を謳歌する肉体の中でも 細胞レベルでの死は 絶えず起こっている。
いのちの世界とは、そんな矛盾さえおおらかに包み込むゆとりに満ちています。
が、そこに言葉という道具を持ち込むと、曖昧模糊とした空間に くっきりと境界線が引かれ、分け出されるものと あとに残されるものの間に 明確な区別が生じ、「選んだもの」 と 「それ以外の (選ばなかった) もの」 という対立の構図が忍び込むのです。
さらにそこに 好き嫌いの感情が加われば、争いの下地は整い、火種ひとつで簡単に発火します。
○人種と それ以外の人種では、○人種のほうが優れている。
○○教と それ以外の宗教では、○○教の教義のほうが正しい。
ひょいと生まれた 誰かの好みや主張に、たちまちのうちに 賛同と反対が集まり、分離 → 対立 → 戦い という流れが生まれます。
私は親の影響で 子どものころから論理的主張には強かったのですが、それを武器に身を護ろうとするほど、ギスギストゲトゲした空氣が増えてゆくのも 感じていました。
そんな生き方を重荷と感じていた ちょうどそのころ、五感を超えた世界や 言葉のからくりを知る機会を得て、いったん分け出したものを 元へ戻してゆくという180度の転換を体験することになったのです。
言葉から生まれた境界線を、言葉を使わず感じることで “無” にかえしてゆく。。。。さまざまな本やサイトよりいただいた手がかりをもとに、感覚フォーカスという自分なりの手立てをつかんだところから、「かえる」 道のりに ぐんと弾みがつきました。
対立する二極を越えてゆくとは、両者の間に引かれた 言葉という境界線を 取り去ること。
すると、二極間に生じていた 「差」 がなくなり (これが 差取り ⇒ 悟り ということなのでしょうね)、残るのは 今 ここで感じているこの世界 ただひとつ。
今いるところが 今いるところ、遠いも近いもない。
今感じる氣温が 今の氣温、暑いも寒いもない。
言葉の届かない ”それ”を、ただ感じるのみ。
比較も好みも 言葉の影響が及ばない世界では 存在しようがなく、そこから派生する争いも もはや成立しないわけです。
分け出すことが なんでもかんでも悪いというのではありません。
そもそも私たち自身、いのちの源から 形あるいのちとして分け出された存在なのだし。
ただ、人間であれ AIであれ、その意味もよくわからぬまま いのちから分離して問題を起こすほうへと いつのまにやら突き進んでいるありようや、「感じる」 ことを忘れ ひたすら 「考える」 ことが奨励される傾向については、もうそろそろ本氣で見直す必要があるんじゃないのかな、という氣持ちが ひしひしと胸に迫ってくるのです。
日々報道される さまざまな事件や社会の動きを目の当たりにして、ひたすら考え 知識や情報を増やし 差をつけて戦いに勝つことがもてはやされてきたこれまでの積み重ねが 今なにを引き起こしているのか、なおもそれを続けることが ほんとうに幸せにつながるのか、しっかり観察する時期にきているような氣がします。