毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

わからないからこそ♪

2013年04月16日 11時36分55秒 | ふと思うこと

今の自分の現実が納得いかないなら、目に見える形よりも まず自分のあり方から変えること。

自分の世界を創っているのは、自分の思いなのだから。

これを信じて、自分の観念や価値観を見つめ直し、不要となったものを手放し、内面の調和を最優先にして これまでずっとやってきました。



でも、五感を超えた世界に没頭するというのは、時にとても不安なことに思えます。

意識が五感寄りになっているとき、心が弱っているとき、ふと氣持ちが揺らぎます。

あるのかないのか定かでないものに ここまで打ち込んでいいものか。

そもそも 成長だ、魂磨きだと言ったところで、はっきりした達成基準があるわけでもない、自分が今どのあたりまで進んでいるのか、どういう状態にあるかさえわからないじゃないか。

いくらあり方から変えると言ったって、このまま努力を続けて 目に見える結果が好転する保証なんて、どこにもないじゃないか。



こういう心細い氣分になると、無性に先のことが知りたくなってくるんですね。

ほんのちょっとでいいから、そのうち事態が好転するという保証が得られれば、勇氣をもってこのまま進んでいけるのに。。。

内側の答えを引き出すきっかけ・手がかりという位置づけを超えて、やたら占いなどに頼りたくなるのは、こういうときです (^^ゞ



真の自分の素晴らしさを、ただ知るだけでなく 体験し 実感するために、あえてもとの姿を忘れたのだと聞いているし、信じてもいるけれど。

それにしても、この三次元世界で出くわす さまざまな出来事の なんて苦しいこと。

すっかり自信を失くしているときに、いくらほんとうの自分は全知全能なんて思ってみても、なんの力にもならない。

こんな大変な思いをするぐらいなら、本来の記憶の一部なりとも残しておければよかったのに。



今でもミジュクモノの私ですが、今以上にいろいろなものが見えていなかったころ、心が弱るたびに よくこんなふうに恨めしく思ったものです。



そんなあるとき、興味深い話に出会いました。



キャロライン・メイス著「第8のチャクラ」という本から。

キャロライン・メイス博士は 国際的な直感医療の第一人者。

クライアントのひとり、ポールをリーディング(相手の「氣の場」から 個人の深層心理や、過去の事象・体験等を読みとること)していて知ったのは、ポールがこの世に生まれ出る以前の記憶を持ち続けていることでした。

彼は、物質界の人生に“降りてくる”前に、二人の「光の存在」に手伝ってもらいながら、今生の人生の構成プランを練ったというのです。

覚えているのはごく一部ながら、今生のテーマを教えられ、出来事によっては複数の選択肢を提示され、果たす使命を決めるよう促されたそうです。

そして、本来なら「忘却の河」とおぼしき河の水を飲むことで、物質次元に降りる前に 生まれる前の記憶をすべて忘れることになっていたらしいのですが、彼はたったいまの出来事を忘れたくなくて、指示に反して 水を飲まないままこの世に生まれ出てしまったというのです。

ポールはうつ状態にあり メイス博士の診断を受けたのですが、そのうつの原因は、生まれる前の記憶を持ち続けているために、何をするにも 行動する前に それがうまくいかないことを 自分のどこかですでに知っているという怖れがついて回り、何を選ぶこともできなくなってしまったせいでした。



そっかぁ~

なるほど そうだよね。

わからないからこそ出来ることだってあるんだ。

それがどれほど苦しいか、大変か、前もってわかっていたら、選ぶ氣になれないような体験が この世にはたくさんあるんだもの。

実際私だって、これまでにしてきたしんどい体験を「ここでこんな痛い目に合いますよ~」「この辛さが○年続きますよ~」なんて前もって知らされてたら、とてもじゃないけど手が出なかったよ

結末も かかる時間も知らなかったからこそ、目の前の今・ここに集中して 必死になって、どうやらやってこられたんだもの。

いくらのちのち大いに役立つ体験だといっても、初めから挫折する、失敗に終わるとわかっていることに 長い時間をかけてわざわざ取り組むなんて、どうやってモチベーションを維持できる?




それに、苦しみを通り抜けた後の喜びだって、不意にやってくるから 躍り上がるほどうれしいんだよね。

全部わかっちゃってたら、お芝居の台本をなぞるようなもの。

そもそも、あえて本来の自分より不自由な身になって この世界に生まれてくるのは、喜怒哀楽、そのすべての体験を心ゆくまで味わいたいから。

なのに、“仕込み”の段階から明白に覚えていたら、人生に本氣で打ち込むなんてできるはずがない。

結末のわかっている推理小説を読むようなもの、なんの面白味もない。




選択肢について、結末について、なにもわからないからこそ 思い切りよく選ぶことができるんだ。

わかっていたら、どうしたって 手加減して選んじゃう。

自分の限界をぎりぎり超えるか超えないか、ありったけの力を振り絞ることで 器を広げて成長する喜びを味わう体験も、先が見えないからこそできることなんだね(^^)



ポールのエピソードが実話かフィクションかは どっちでもいいです

あえて目隠しされた状態で しゃにむに人生に取り組むことの素晴らしさを教えてもらったことに、変りはないから♪

苦しさの真っ只中で「うん、これでいいんだ」とにっこりできるほど強くはありませんが、先の見えない今に全力を尽くすこと自体が この世に生まれた喜びのひとつであり、見えないからこそ 何事にも希望を持って取り組めるんだと氣づかせてもらったことが 大きな支えになっているのは確かです



この世界に生を受けたことは、天からの大きな大きな贈り物。

プレゼントの中身は、知らないほうが 開ける楽しみがあるもんね (^_-)

山あり谷あり、何が起こるかわからないスリリングさを、これからも手に汗握って味わっていくとしましょうか♪




























春の贈り物♪

2013年04月15日 09時15分06秒 | 紡ぐ暮らし

けさも ゴミ出しのその足で 川を眺めに行こうとしていたら。。。

向こうから 市議会議員選挙の候補者さんと支持者さんたちが ぞろぞろとこちらに向かってやってくるのが見えて、朝からあの空氣はちょっと。。。 と、急いで土手を上がり、川べりに駆け下りました(^^ゞ



夕べの雨で 少し水かさが増しているらしい川、きょうもきらっきら、なんて清々しい空氣

まだ湿り氣を残しているのでしょう、山のあちこちにかかった靄が 少しずつ吹き払われてゆくようです。

川端のいろいろな植物を眺めながら のんびり歩いていたら、なんと ヨモギの群生しているところを見つけちゃった \(^o^)/

さっそく新芽を摘ませてもらいました♪

産毛の生えた 銀色のヨモギの新芽。。。いい香りが鼻先に漂ってきます♪

たっぷり一握りほどを恵んでもらい、ついでに落ちていたビニールゴミも拾って帰ってきました。



思いがけない春の贈り物、さっそく茹でて刻んで ヨモギ団子でも作らせていただきましょうか♪

うれしいなぁ











シンプル

2013年04月14日 18時18分13秒 | ふと思うこと

最近 自分のブログの過去記事を読み返すことってほとんどないんですが、それでもときどき「あ、これとおんなじこと、たしか前にも書いたことがあるな」って思い出すことがあります。

たぶん、記憶している以上に そういうことって多いのでしょう。



ブログでも 日記でも、前と同じことを 新しい発見でもしたようにワクワクと書いてるのを見つけると、無性に恥ずかしくなります

前のときだって「すごい氣づきだぁ」って胸が躍ったはずなのに、それをきれいさっぱり忘れて また新しい氣づきだと思い込むなんて。。。ぜんっぜん学んでないじゃん と。



でも、そういうことが度重なって だんだんわかってきました。

同じようだけど、同じじゃないってことが。



たしかに テーマは同じなんですが、繰り返すごとに より理解が深まっていく感じなんです。



「氣づく」って、ピンボケの映像が 突如パッと焦点が合わさって くっきり鮮やかに変るようなイメージがありますが、次にもう一度同じことで焦点が合わさったとき、くっきり見えたと思っていた前の映像が 実はまだまだ粒子が粗く ぼやけていたことを思い知らされるわけです。

つまり、それだけ“心の目”の精度が上がったっていうこと(^^)



わかりやすいので よくらせん階段の例えを使わせてもらいますが。

一見同じところをぐるぐる回って 何度も同じポイントに来るようでいて、実は高さ(深さ)が変化しているから、見えるものは 同じようで同じじゃない。

幾度も繰り返しながら、そのたびに より理解を深めていくんだよ、と。



五感を超えた世界って、あまりにも大きくて複雑で、とても手に負えないと思っていた時期がありました。

でも 最近は、実はすごくシンプルな世界なんじゃないかって氣がしています。

ややこしく思えたのは、私が頭でややこしく捉えていただけのこと(^^ゞ

ごちゃごちゃと渦巻きざわめくものを落としてゆくと、やがて現れたのは 意外にすんなり・すっきりわかりやすい世界。

ごちゃごちゃして見えたのは、さえぎり 覆い隠していたものの方だったんですね。



私たちは、幸せになるために生まれた。

ほんとうの自分を、ただ知るだけでなく 体験し味わいたくて この世界にやってきた。

本来の自分ではないものを 見つけては手放し、内なる調和を取り戻しながら、今を楽しむ、それだけのことなんだよ、って、もっと楽な氣持ちでふぅわりと受け止めていいのかもしれません




  
            










引き波

2013年04月13日 18時33分19秒 | ふと思うこと


ポジティブとネガティブを行ったり来たりの日々ですが、ときどき 何を試そうとどうあがこうと、居座ってぴくりとも動かない負の感情に 頭を抱えることがあります。

そもそも 負に落ち込むわけがわからない。

朝起きたときから な~んか氣が重いんだよね、みたいな感じで、そうなったきっかけも理由も見えず、抜け出す道筋もわからない。

からだの感覚に意識を向けても、こういうときは どうもうまく集中できなかったり、どれだけ観察し続けてもまったく消えようとしなかったり。

いくら氣を引き立てようと 散歩に行ったり美味しいものを用意したりしてみても、効果なし。

なにかのメッセージを伝えてくれるわけでもなく いつまでものっぺりと心全体に覆いかぶさるようで、つくづく困りものだったんですが。




何度もこういうことがあるうちに、ふと氣がつきました。

これって、どうやら大きなステップアップの前触れみたい☆




大波が押し寄せる前に いったんぐーっと引くように、大きなジャンプの前に 助走をつけるためぐぐっと後ろに下がるように、大きな氣づきや心の成長、視野の広がりの前に 大きなネガが訪れることがあるようです。

そうとわかれば 大いに納得。

それなら そうあっさりと消えるわけがない。

いや、むしろ歓迎すべきでしょう




以前、カヌーの初心者教室に参加したことがあるんですが、そのとき教わりました。

流れの激しい瀬で カヌーが転覆したら、決してジタバタ暴れないこと。

岩のくぼみなどに手足がはさまって抜けなくなったら、水没したまま身動きとれなくなってしまうから。

そういうときは、流れがゆるやかな地点にたどりつくまで 亀のように手足を縮めて ひたすらじっとこらえること。

落ち着いて待っていれば、必ず立て直すチャンスがやってくるから、と。




この“引き波”とおぼしき負の感情がやってくるたびに、この言葉を思い出します。

うんうん、じゃあ 今は亀さんになって 静かにこらえて待っていよう。

じきにきっといいことがあるから、それを楽しみに

意味がわかってみれば、けっこう乗り切れるものですね(^_-)





こんなことにふと氣づくたびに、私たちの意図を離れたところで 何もかもが つくづくうまく仕組まれているものだなぁ、って思います












おはようございます♪

2013年04月13日 06時05分26秒 | 紡ぐ暮らし
大きな地震あったみたいですね。

こちらも震度4だそうですが、たいした揺れではなく、せいぜい2ぐらいかと。。。揺れそのものよりも エリアメールの着信音と 続いて響き渡った防災無線にびっくり(^^ゞ

とはいえ、こういうアイテムが いざというときしっかり機能してくれるのはありがたいこと。

奈良の父に電話したけれど、あちらもどうということはなかったそうです。

早朝からそうそうあちこちに電話もできないけれど、弟宅や友人たちもきっと大丈夫でしょう。

まずは無事であったことに感謝♪

震源近くの方々も どうかご無事ですように。



ちょうど朝日が差し込んできました。

きょうもいいお天氣(^^)

氣温はかなり低いです、4月半ばとは思えないぐらい。

鳥たちの声が あちこちから聞こえます。

うん、きょうもきっといい一日♪

イレギュラーな始まりだったけれど、からだの芯までぴしっと目覚めた感じ(笑)

さぁて、動き出すとしましょうか♪

みなさまも どうかよい一日をお過ごしくださいね (⌒∇⌒)ノ
















流れに乗って

2013年04月12日 22時00分14秒 | ふと思うこと


きのう書いたことと関連しているんだけれど。

ネガティブな現実に悩んでいるときに、「自分の世界は 自分の思いが創り出している」なんて言われると、自信をなくしてど~んと落ち込む、っていう話。

それはもうキツイです(T_T)

「自分のせいだ。自業自得なんだ」って打ちのめされるような氣の重さと、「このままじゃどこまで行っても 今の世界から脱け出せないかも」っていう焦り・絶望のダブルパンチ。

もちろんそういうニュアンスで語られているわけではなく、内容もたしかにその通りだと思うのですが、そもそも否定的な色眼鏡にはまり込んで脱け出せないからこそ ワラをも掴む思いでジタバタしているわけで、ただでも 万事ネガティブ色に染まって見えやすいときだからね




また、「最も強く信じる思考や言葉、感情が現実となる。信念よりも不安の方が大きければ、そちらのほうが現実化する」「望まないものに思考を集中することで、たくまずしてそれを引き寄せてしまうことになる。だから、意図的に望むほうへ思考を方向付けることだ」などというのも ほんとその通り、真実だと思います。

ただ、不安に駆られる中、少しでもよくなりたいってあがいているときに言われるのは やっぱりキツい。




問題は、ネガティブ思考が板についてしまった者にとって、ネガからポジへの切り替えが 言葉で言うほど簡単にはままならないっていうこと。

聞いた話では、人間の脳は、シナプスの基本配線が出来上がる3歳ごろまでに出会う情報については ほぼ無条件で受け入れてしまうのだそうです。

俗に言う「三つ子の魂百まで」っていうことらしい。

なるほどそうだよね。。。3歳じゃ まだ、吟味や取捨選択の基準となる価値観を作るための言葉なんて持ってないものね。

もしそこに「自分は価値のない存在だ」「世界は恐ろしいところだ」「他人とは残酷なものだ」「人生は苦労の連続だ」なんていうイメージが刷り込まれたら、無条件にそれを受け入れ、信念として抱え込んで生きていくことになってしまう。





一方で、大人になった私たちは、信念を書き換えようとするとき、まず言葉から入ろうとします。

よく言われる「すでに望みが叶ったつもりになってみる」とか、「今あるものに感謝する」とか、すべて 言葉を用いて意識を変えようとする。

でも、言葉は基本 意識の世界でのアイテム、無意識にがっちり入り込んでいる信念には そう簡単には届かないんですね。

肯定的に捉えようと懸命になればなるほど、その裏から「なんかしらじらしいなぁ、ウソっぽいなぁ」という思いが立ち上ってくる。

大丈夫と思い込もうとすればするほど、かえって怖ろしさが際立ってくる。

で、なかなか振り払えないネガティブな意識に、「結局またこちらが実現しちゃうじゃないの~」とますます落ち込み 自信をなく
す。。。という悪循環に



これ、ほんとうにブレイクスルーできるんだろうか。。。と どれほど悩んだかしれません。




でもね。

今振り返ると、そこで終わりではなかったんだなぁ(^^)




無意識の領域に刷り込まれたものは、たしかに強い。

でも、いくら深く入り込んでいるといっても、しょせんは後づけ。

それを言うなら、私たちが生まれながらに持っている いのちの力、常に 生きよう、よくあろう、という方向に向かうベクトル、これ以上に強いものなんてないんじゃない?

なぜ、「うまくいってない」「こんな自分じゃダメだ」などという思いが上がってくるのか。

うまくいくとはどういうことか、ダメじゃない素晴らしい自分とはどういうものか、そのイメージをしっかり持っている自分が 最初からどこかにいるっていうことだよね。

そんな理想像があるからこそ、まだそこに追いついてない自分を感じ取って 不満を覚えたりもできるんだよね♪




私たちが生まれながらに、いや、生まれる前から携えている 一番の土台は、分け出される前のおおもと、すべてであり、全知全能である自分。

その前に立ちはだかるネガティブな意識は、太陽にいっときかかる雲みたいなもの。

どんなにしぶとく見えても、やがては消え去り、輝くお日さまが顔を出す。

どんな紆余曲折があろうとも しまいには本来の自分に帰り着く。。。そもそもそういう流れになっているんだよね




結局のところ、「どうしても不本意な状況から抜けられな~い(TдT)」なんて頭抱えてる間も、実はこの流れにちゃんと運ばれていたようです。

とにもかくにも ここまで来られたのが何よりの証拠。。。時間はやたらとかかったけどね




あの 否定的な思いにさいなまれていたころに、これを知っていたら、信じられていたら、どんなにか楽だったろうなぁって思います。

でもまあ それはともかく、魂の旅はまだまだ続いていくのだから☆

これからは、もっと肩の力を抜いてやっていけるね♪

迷走しようと 逆走しようと、ときには動いてないように見えようとも、誰もみな 実はいのちの流れにしっかり乗ってるんだとわかっているから、ね


















出会う ~ 「 『奇跡の脳』 ジル・ボルティ・テーラー」

2013年04月11日 22時14分02秒 | 大好きな本・映画・ほか

これまで、数知れないほどの いろいろな情報と出会い、影響を受けてきました。

そのときは氣づかなかったけれど、あとから振り返ると これ以上ないほど絶妙なタイミングで。




で、今回出会ったのが こちらの動画。


「奇跡の脳」 脳卒中体験を語る/ジル・ボルティ・テーラー




やはりパーフェクトな出会いだった。。。って、後々きっと思うだろうなぁ (^^)











飛び越えて

2013年04月11日 13時43分33秒 | ふと思うこと
私たち分け出された存在が 「個」という殻をまとっている間は、めいめいが “自分だけの答え”を見つけ、あるいは創っていくんだと思っています。

「私はこれこれこういう人間だ」「こう生きる」「これを大切にする」という それぞれの信条に照らし合わせた選択によって。

たとえ何かを丸信じするとしても、丸信じすると決めたのは やはり自分。

だから、どこかに誰にでも当てはまる完璧な答えがあって それを見つけさえすれば幸せになれる、っていうのは、当てのない望みに思えます。

たとえ、神さま御自らのお言葉だろうとも、それを信じる・信じない、実践する・しないの決断は 「個」である自分がするしかないのだから。



自分で選び、自分で結果を引き受ける。。。な~んていうと やたら重く聞こえてしまいそうだけど、なんのことはない、それ抜きで生きるなんて不可能だよ、っていうこと




で、これまで さまざまな媒体・メッセンジャーの方々から たくさんの情報をいただき、ぴんとくるままに選んで組み合わせ、自分なりにやってきたわけですが、ここに思わぬ落とし穴があったんですね。

それは、選び取った情報を いつのまにか 自分なりの解釈で「正解」として固めてしまい、その枠の中でしか判断ができなくなってしまう、ということ。




「あなたの世界は あなたが創っている」という言葉が、「自分のせいなんだから 辛くても仕方ないでしょ」「自業自得」って聞こえて すっかり自信を失ったり。

ネガティブな氣分のときに「否定的な思いは 否定的な現実を引き寄せる」と聞いて、このままじゃいか~んと焦って、かえってネガティブのサイクルにどっぷりはまり込んでしまったり。




また、こういう世界の本を何冊も読んでいると、最大公約数とでもいうのかな、共通するメッセージが浮かび上がってくることがままあるんですが、当然ですよね、書かれている方の視点が違うだけで、おおもとはひとつなんだもの。

で、「答えをくださ~い」っていう立場で そういうメッセージをキャッチすると、いつのまにか自分の中で、「これに反したら幸せになれないんだ、決して背いてはいけないんだ」という禁忌と化して 拘束力を持つようになってしまったり。




元の文章はひとつでも、その解釈は人の数だけある。

不安なとき、自信がないときほど そういう指針に頼りたくなるから、そんな心細い思いがしっかり反映した形で取り込まれちゃうことが多いんですね

あとから振り返って、「このメッセージを こんな浅い解釈で掴んでたんだ~」とか 「こんな歪んだ形で取り込んでたんだ~」とか 驚いたり呆れたりの多いこと(笑)




でも、なんか「うんうん、わかるわかる」って感じでもあります(^^)

ほんと、ひたむきで一生懸命なんだよね。

ただ、心細くて頼りなくて 自分に自信が持てなくて、だから、確かなものにすがりたい、答えが欲しい、っていう氣持ちに ついついなってしまって。

そういうのも あり

間違いに氣づいて見直せば、それはもう間違いではなくなるんだから




今思うのは、「もっと自分の氣持ちや感情を信じてもいいのかもね」っていうこと。

正しい答えを選ばなきゃ身の破滅、みたいな強迫観念は、過去の暮らしの中で培われた 誤った観念。

家でも学校でも、限られた選択肢の中から正解(相手がOKをくれる答え)を言い当てることばかり繰り返して、長年かけて刷り込まれた思い込みなんだよね。

何でも ほんとうのところを知りたければ、自分で決めて 自分で試してみるしかない。

もちろん、やみくもに突進しろっていうことではなくて、信頼できる人の言葉にはしっかり耳を傾けて、大いに助けてもらえばいいのだけれど。

でも、その人を信頼するかどうかだって、結局は自分で決めなければならないのだから。

しっかりアンテナ張って、よぉく吟味して、でも、最後の最後は 自分の思いに沿って 自分で決める。




一番マズイのは、「正しく選べなかったらどうしよう」という怖れにかられて 立ちすくんで動けなくなること。

この怖れをつかんだまま 五感を超えた世界に臨むのが どれほど怖いことか。。。思い出しても身につまされます(T_T)

でもね、どのみち自分で決める以外の道はないのだし、現に毎瞬毎瞬決めちゃってるんだから。

その積み重ねの上に 今の人生があるんだから。

もし結果に満足いってないのなら、「氣づいたらいつのまにか選んじゃってました」っていうのと 納得して意識的に選ぶのと どっちがいい?っていうことだよね☆




意識的に選んで、結果 うまくいくかいかないかは、実はそう大したことじゃないのです。

うまくいけば「これでいいんだ」、うまくいかなければ「これはしないほうがいいんだ」というデータが得られるだけのこと。

どっちにしても ひとつ賢くなれることに変りはない。

いや、むしろ「失敗したぁぁぁ」とはっきり自覚できるデータは 成功データ以上に 値千金。

「これは私じゃない」と確信した部分を 自信を持って削り落とし、ほんとうの自分を掘り起こす 貴重な手がかりなのだから。




落ち込んで自信を失ったら、そんな自分を認めるしかない。

そして、「もういいもん、や~めた」と背を向けるもよし、あきらめ悪くジタバタするもよし、動けないままじっとしてるもよし。

どんな選択をしようと、その先に 必ず見えてくるものがあるから。




多くの人に共通する「こうしたら?」というアドバイスにどうしても納得いかないなら。。。思うがままにやってみるしかないでしょう

それが 今ここの“自分”なのだから。

自分の意に逆らって 正しいと思しき答えを追うばかりじゃ、人の人生をなぞっているだけ、ほんとうに自分を生きていることにはならない。




ひとつであるおおもとから分け出された 数ある視点のひとつ、という意味では、正誤も優劣もない。

おんなじ見方しかなかったら、数ある意味がないもの。

いろいろな価値観があるからいいんだよね。

ある視点を答えとあがめて、自分なりの見方を放棄したら、せっかくこの世に生まれてきた値打ちがなくなってしまう。

思い込みや決め付けの枠を飛び越えた 他とぜんぜん違う自分の選択が、この世界に 斬新な答えをひとつ付け加えることになるのかもしれないよ♪




この世界のどんな視点も意見も それぞれに価値があるけれど、すべてのものが絶えず変化する以上、どんな答えも いずれ身の丈に合わなくなる日がやってくる。

自分の導き出した答えに 自分が捕らわれてしまわないよう、必要と感じたときは、枠を飛び越え 思い切った選択をするのもありだね♪




私たちは ただ探し求めるだけじゃない、私たち自身が 答えでもあるんだよ(^^)






















きょうもいい日♪

2013年04月10日 09時28分40秒 | 自然
ゴミを出しに行くと、時間のある日は決まって 横の土手を上って 川を眺めます。

土・日にたっぷり降った雨のためか、きょうはいささか水量多め、水音も大きめ。

きらきら輝く川面に目を奪われて しばし立ち尽くします。



きょうの日ざしはやや柔らかく、重なり合う山々の稜線の向こうに広がる空も 優しい青。

土手の下に大きく枝を伸ばす木には 淡い黄緑の若葉がいっぱい、土手上の桜も もうすっかり葉桜。

桜終わっちゃったなぁ、と思いつつ見渡す目に飛び込んでくるのは、ひと足遅れて咲き始めた八重桜の濃いピンク。

濃淡さまざまな緑の中に点在する濃ピンクは ひときわ鮮やか。

なんだかうれしくなります。



10分ほどの休息で、豊かな自然から たっぷりとエネルギーもらいました♪

さあ、することいっぱいあるぞ~♪

きょうもいい日、いい一日(^^)












人生という物語

2013年04月08日 14時24分57秒 | ふと思うこと
私たちは、生きることで 「自分の物語」を作っているとも言える。

ただ、言葉はその性質上 今ここにないものも言い表せるので、実在の自分に関係なく 頭の中だけで 空想の物語をいくらでも作れてしまうんですね。

空想もうまく使えば楽しいアイテムなんだけど、ネガティブな感情と結びついてしまうと困りもの。




きのうまで書かせてもらった 感覚と感情の話。

今になって、最初に思いついた 「幼いころの自分を癒すことで 負の感情をクリアにしよう」という試みが うまくいかなかったわけがわかります。

昔 ショックを受けるような出来事があったのは、鮮明に覚えているわけではないけれど おそらく事実。

そして、当時と同じような状況に置かれると、反射的に 当時と同じからだの違和感が上がってくるのも事実。

でも、そこから先は、その感覚に「怖い」「悲しい」などと感情のレッテルを貼るところから始まった、自作の物語。

私は、自分でふくらませた空想の物語をもとに、幼い自分を癒そうとしてたんだね。

からだの感覚に意識を集中するのは、「そもそもあるのは感覚だけ、そこから先のお話は幻だから 悩まされる必要はないんだよ」とはっきり認識すること。

こちらのほうが的確だったのは 当然ね(^^ゞ




氣をつけて見ていると、日常のあちこちに この空想物語が散りばめられているのに氣がつきます。

誰かを嫌ったり 腹を立てたりするのもそう。

出会った瞬間は、「ん?」とか「え!?」とかいう違和感をからだに感じるだけ。

でも、その感覚と、以前同じような感覚を感じた人の 好ましくない記憶が瞬時に結びついて、「この人もきっと同じようにイヤな人に違いない」と判断してしまうんですね。

初めてこれに氣づいたときの驚きを思い出します。

日ごろは仲良くしている職場仲間の ある種の言動に決まってひどくイラ立ってしまう自分の不自然さが氣になって、よくよく見てみたら、子どものころから苦手だった親の言動とそっくりなことに思い当たって。

私が腹を立ててたの、ほんとうはこの人じゃなかったんだ~ って。

確かに違和感はあるけれど、そこで留めておけば それほどカッカする必要はないし、さらりと聞き流して その人のいい面にだけ焦点を当てて、いくらでも氣持ちよくやっていけるんですよね。

自分で自分をコントロールして、毎日をいくらでも氣持ちのよいものにしていける。




年がら年中 ヒリつく傷口を抱えたままのざらざらした心から ひと足抜け出して、見える景色が変った氣がします。

変ったのは 目に映るものじゃなく、受け止める心のほうなのね。

晴れのち曇り、ときに大荒れ(笑)、まだまだ変りやすい心模様だけど、改良の余地ありだからこそ これからもっともっと人生が素晴らしくなっていくのを楽しみに、魂磨きに励んでいける♪

曇りが取れるごとに、初めっからそこにいた ほんとうの自分の姿がはっきり見えてくるんだもの♪




きょうから お隣小学校に 5人の新1年生さんが入学しました。

毎年のことながら、30分ほどの式の間 じっと座っているのが窮屈そう(笑)

周りの世界とまっすぐ向き合い、ためらいなく受け入れ、感じたままをストレートに表現する、エネルギーではちきれんばかりの 元氣ないのち。

私たち大人も、1年生と同じとはいわなくても、目の前の世界をそのままに味わって、空想の物語じゃなく 人生の物語を思い通りに創っていけたらいいね(^^)