毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

この世の旅

2013年04月07日 18時19分09秒 | ふと思うこと
前の続き。



せっかく貴重な情報をもらって、感覚と感情を切り離すことで 今度こそ怒りの暴走を止められるようになるかとうれしかったのに。。。

たしかにえんえんと大荒れすることはなくなったけど、いくら収まっても すぐまた新たな怒りが持ち上がる いたちごっこの繰り返し。

いったいいつまでこんなことやってればいいんだろう。。。



そんなあるとき ふと氣づきました。

私、「イヤなもの、ジャマものを消し去りたい」っていう氣持ちで これをやっている!



いつまで性懲りもなく上がってくるの、こんな苦しい感情。。。これだけがんばってるのに。。。いいかげんきれいさっぱり消えてよ

そういう氣持ちで、「消すために 見つめる」という作業を機械的にこなす自分に いつの間にかなっていた。

でも、ちょっと待って。

すべてのことは 意味があって起こってるんだよね。

私たちは そもそも完全無欠の存在だったのに、わざわざ制限された不自由な身として この世に生まれてきたんじゃなかったっけ?

不自由である、欠けているという体験を通して、本来の完全さを心ゆくまで味わうために。

だったら、怒りでも苦しみでも ただ疎ましがって消そうとするのは違うんじゃない?

これこそ 私が進んで体験したかったことなんじゃないの?



無心に見つめていたはずが、いつの間にか 「消したいから見つめる」と 消し去るための手段になっていた。

すべての体験を糧に成長するはずが、いつの間にか イヤなところからさっさと抜け出したい自分になりかわっていた。

氣がつかないうちに、あり方そのものがずれちゃっていたんですね。



これを機に、初心に帰って ただ無心に自分と向き合い、今(からだに)起こっていることを観察する立場に戻りました。

「これを体験したくてここにやってきたんだよね」って声をかけながら。



そして ふとまた氣づいたら、怒りそのものがなくなったわけではないけれど、持続時間がびっくりするほど短くなっていました。

事あるごとに「ムカッ」と発火するのは相変わらず。

でも、そのあとの“怒りのストーリー”は 自分が好きこのんでせっせと紡いで発展させている構図が 自分で自分にバレバレになっちゃってるんですね。

そうなると すっかりしらけちゃって エキサイトできない。

はいはい、そのお話もういいよね~って 自然鎮火してしまうんです



これ、余計な感情移入なしに ひたすら観察し続けたから はっきり見えたんだと思います。

言い訳も正当化も抜きで、ただ自分の中で何が起こっているかが あからさまになった。

理屈でなく からだ全体で「ああ、そういうことだったのね」と すとんと腑に落ちた。

ここまでからくりが明白になってしまえば、いまさらお芝居に戻って熱演なんて、しらじらしくて できるものではありません。



無心に観察することの意味を知りました。

「神との対話」の「抵抗すれば 相手は強くなる。見つめれば 消える」ってこういうことだったんだなぁ。

そういえば、バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)の「究極の旅」にも「<ものみ>でいなさい」っていう言葉があったけど、あれも同じだね、きっと。



怒りは相変わらずちょくちょく発生します。

発生しては すみやかに消えていきます。

ときたま うっかり発展させかけて、「そうだったぁ、感覚、感覚」ってなることも(^^ゞ

まあどのみち そう大きくなることはありません。

たぶん、怒りの回路自体は この先もずっと残るのでしょう。

でも、感情を通すことがなくなれば その回路はいずれないのと同じになっていくんじゃないかな☆



怒りを例に出したけれど、他のあらゆることも同じですね。

自動的に反応していることに氣づけば、コントロールを自分の手に取り戻すことができる。

こうやって 三次元世界でさまざまな体験をし、少し離れた高みから その全体を見渡して観察し、意識的に選び直して、この世での人生を さらに洗練させ 楽しむ。

さまざまな次元(視点)を行ったり来たりしながら 曇りを落として だんだん成長して賢くなって、いつの日か すっかり本来の自分に還る。

早くゴールにたどりつくのが目的じゃない、私たちみんな、このプロセスを存分に体験するために この世にやってきたんですね。

しみじみ味わい深い旅です(^^)














進む、あきらめないで

2013年04月07日 09時52分59秒 | ふと思うこと
前の続き。



「今怒っている」ように見えて 実は過去の記憶に反応してた。。。これは大きな氣づきでした。

じゃあ、そこからどうする?

どうやって怒りから解放される?

思いつくのは、過去の記憶に遡って どこでどんなふうに感情のしこりやつかえが残っているのか確かめてみよう、ということ。

いったんそういう目で見直すと、幼い頃のことでも案外覚えているものなんですね。

2、3才ぐらいの記憶でも、たまにとても鮮やかに焼きついているものがありますが、そういうのって このプロセスで手がかりになるようあらかじめ残された記憶なのかもしれないな、と思ったものです。

これこれの感情のおおもとを知りたい、という意思を持つと、それが引き寄せの原動力になるのか、磁石に吸い寄せられるように 必要な記憶が集まってきたり、ふいのひらめきで 一見関係なさそうな記憶どうしが結びついて 答えが見えたり。

また、親との何氣ない思い出話の記憶が 思いがけない手がかりになることも。

が。。。あれこれ思い当たる出来事の発見に、ときには涙を流しながら 幼い自分の痛み・苦しみに共感し、とりあえず心の奥に封じるという手段で耐えながら ここまでいのちをつないでくれたことに感謝もし、そのときはしみじみ癒された、という氣持ちになれるのですが。

ちょっと経つと、すぐまた前と同じ 怒りに満ちた状態に戻っちゃうんだよね

長年強化され続けてきた回路は それだけ強くクセ付けられてもいるもの、ここはひとつ根氣よく、と、癒しのプロセスをえんえん繰り返す日々が続きました。



そんなあるとき。

ひとつの情報が目に留まりました。



「私たちは、何かの出来事に遭遇したとき湧き起こる反応を『感情』だと思っているが、実際に上がってくるのは ある種のからだの感覚であり、この感覚に『不安』『怒り』『悲しみ』などと名づけて分類したものを『感情』と呼んでいるのだ。

過去に否定的な状況で起こった出来事の記憶が、そのときのからだの感覚と否定的な感情が結びつく形で残り、同じような状況に再び置かれたとき 感覚 → 感情 と展開する形で再現されるのだ。

つまり、ある出来事に連動して からだの感覚が上がってきただけなのに、そこに貼られたレッテルの影響で、不安だの怒りだのの反応を、自分の意思と関係なく 自動的に繰り広げてしまう。

そうとわかれば、体の感覚に氣づき そちらに集中することで 感情のドラマと切り離し、意図せぬ感情に振り回されないでいられるようになる」



以前にも幾度かあったことですが、ことさら大事な情報というのは、大事としっかり認識させるためか 互いに関連のない複数の情報源から(多少のタイムラグはありますが)重複して入ってくるようなのです。

このときもそう。

あるブログでこの話を読んで、ぴーんとくるものがあったところに、たまたま前から持っている本を読み返していて、それまで読み流していた箇所に それを裏づけるようなことが書かれているのに氣がつきました。

負の感情をコントロールできない長年の悩みのからくりを解き明かしてくれるこの情報、きっと重要な手がかりに違いない

さっそく“仮説”として取り入れさせていただきました。



で、仮説に従って観察してみると。

カッとなる、ど~んと落ち込むなど、感情の動きはたしかに派手でわかりやすいのですが、そのインパクトは 同時に体感する感覚(不快感)によるところも大きいのに、つい感情の紡ぐストーリーを追うほうが先になってしまい、からだの感覚のほうは「そういえば。。。」という感じで あとから思い出すか、まったく見落としたままか。

だから、確かに感情のほうばかり見えがちなのだけれど、氣をつけて見ていると、感覚と感情とほぼ同時、どちらが先ともいえないタイミングで起こっているようでもあり。

で、仮説の言うとおり、感情はわきに置いて、感覚に集中してみました。

最初は 集中しすぎて感覚と一体化してしまい、かえってしんどくなったり、という失敗もありましたが、少し離れたところから「ふむふむ、みぞおちのあたりががずしんと重いな」「喉元が締めつけられるようで息苦しい」などと冷静に観察していると、不思議なことに そのうちそれがすぅーっと消えてゆくのです。

そして氣づくと、感情の激しい揺れも ほぼ収まっている。

なるほど、感覚のほうが引き金だというのなら、そのおおもとが消えれば 感情はそれ以上発展しようがないよね。。。うん、この仮説、当たっていそう。

「神との対話(ニール・ドナルド・ウォルシュ著)」っていう本に 「抵抗すれば、相手はかえって強くなる。見つめれば、消える」とあったけど、こういうことだったのね。。。文字通り感覚消えてるし。




ここで直前の荒れ模様の記憶にちょっとでも戻ると たちまち元の木阿弥なので、そこに触れないよう すっと他のことにうまく氣を移せば、以前とは比べ物にならないほどすんなりと 感情の嵐を終わらせることができます。

感情のほうをなだめていたときよりスムーズで、時間もエネルギーもはるかに少なくて済む。

これはいいこと教わった~♪ と、嬉々として使わせていただくようになりました。



が。。。

やはり長年のクセ付けは強固なのでしょう、少しするとまた 同じような感情の荒れが起こってきます。

しぶといのは最初からわかっていたこと、ここであきらめたらおしまいよ、と自分を励まし続けましたが、先が見えないままでの同じことの繰り返しは、なんだか賽の河原の石積みみたい。

次第に氣持ちがマヒしてくるっていうのか、なんのためにこんな努力を続けているのか見失って、ルーティンワークのように いささか投げやりに 機械的に続けたり、ときには感覚を見つめること自体を忘れてしまったり。

それでも すっかり投げ出してはしまわなかったおかげで、時間はかかったけれど、その先に とても大切なものを見ることができたんですね。




けっこう長いなぁ、この話・・・また次に続けますね(^^ゞ













チャンス到来!

2013年04月04日 13時40分26秒 | ふと思うこと
先日 こちらの日記に 「言葉には ほとんど無意識のうちに 過去の体験から想起されるイメージがついて回る」と書きました。

つまり、言葉を使って暮らしている私たち誰もが、自分の「今」を 過去に左右されているケースが 非常に多いんですね。



長年 自分のいろんな思考癖に悩まされてきたけれど、とりわけ手こずったのが「怒り」。

いったん事あれば 瞬時に点火、怒髪天を衝く勢いで荒れ狂う

それを無理やり押さえ込んで(いい子をウリにしてたからね)外に表さないようにするものだから、消耗度も怨念の溜まり具合も半端なくって



しかし この「怒り」、ひとつひとつをよぉく見てみると、リアルタイムで怒っているものって 実のところ まずないのです。




誰かにいやなことを言われてカッとなる。

怒りの感情が沸き上がってるのは たしかに今。

でも、ちょっと待って。

言われたのが「いやなこと」だと判断したのは なぜ?

それは以前、同じ言葉を 不快なシチュエーションで浴びせられて 怒りを覚え、「これはいやな言葉、怒るべき言葉だ」というレッテルが貼られたから。

もしまったく知らない外国語で同じようなことを言われたら、とっさにどう対応すればいいか迷うはず。

意味がわからなければ、反応も決められない。

反応できたのは、過去の体験から その言葉に自分なりの意味づけをして どう対処するかがすでに決まっていたから。

意味が決まった時点で、その言葉は「怒り」と書かれた心の引き出しに仕分けて入れられてたんだね。



でも。

起こることそのものは、すべて中立。

反応は 自分の意味づけによって決まるけれど、過去はともかく、今それが必ずしも毎回同じ「怒り」である必要はないはず。

氣に留めずにいることもできるし、笑ってやり過ごしても ジョークで応じても構わない。

なのに なぜ ほとんど瞬時に「怒り」と結びついて、ほかの反応が選べないんだろう?



自分をさんざん観察してわかったのは、“最初にその言葉を体験したときの感情が、まだ自分の中で消化できてないから”。



初めてその言葉を言われたとき、言葉そのものだけでなく、前後の状況や 相手のかもしだす雰囲氣などから総合的に なんとなくいや~なものを感じたと思うんです。

でも、幼かったから それをうまく言葉で表現できなかった。

その上、日頃から 感じたことを率直に言い表すことを嫌がられ 禁じられていた。

ある程度の年齢で、素直にすっと感じを言えていたら、たぶんそうそう引きずらなかったと思います。

言葉そのものよりも、その場の空氣から感じ取った不快感と、それを押さえ込んで我慢するしかなかった圧迫感が やり場のない怒りとなり、件の言葉とセットで 心の奥にしまい込まれた。

それ以後、誰かがその言葉を口にするたびに、スイッチが入って、初回に感じたのと同じ不快感&怒りがどっとこみ上げてくる、という自動回路が作られ、使い込まれてますます精度を増していったんですね。

成長して力をつけた自分が システムを解除しに来るまで、それは繰り返し発動する。

いつまでもその言葉につきまとう怒りは、実は「ここに未消化の感情のしこりがあるよ」っていう合図だったと。




つまり、今目の前の相手が自分を怒らせたように見えて、実はそうじゃなかったっていうこと。

その人は たまたまスイッチを押しちゃっただけであって、その人に向けて放ってしまった怒りは、実際には 過去の記憶の再燃でしかなかったんですね。

いわば その人は 合図を送るのを手伝ってくれた“協力者”だったんですね。

そう思うと むしろなんて気の毒な人なんだ~。。。損な役回りを引き受けてくれて(T_T)

視点を変えれば、魂のころから助力を約束し合った学び仲間なんだろうなぁ、きっと。



これはひとつの例だけど、怒りに限らず 振り回されて始末に困る感情は、まずこういうからくりになっているようです。

このからくりが 実感を伴って鮮明に見えてくると、ビッグチャンス到来



そう、自分の力で 長年の悩みをクリアできるのです



また続きを書かせてもらいますね☆

















ありがとう、桜

2013年04月03日 23時23分18秒 | 自然
きのうの雨と きょうの強風で、桜の花々 一氣に散ってしまいました。

今年は 開花後の花冷えと お天氣の崩れが少なかったのとで ずいぶん長くもってくれたなぁ。



今まであんまりじっくり考えたことがなかったけれど、桜って 思えば思うほど独特な花ですね。

まず、葉っぱが出るより先に花が咲く植物って案外少ない。

また、ひとつひとつの花は小さいのに、数の多さで あたりの景色をみるみる染め変えるほどの存在感を見せる。

夜の暗がりにも、ほんのわずかな明かりだけで その白さが浮き立つほど。

そして、花びらが枯れて変色するのを待たず、美しい色を保ったまま、短期間のうちに散って姿を消す。

春の氣が 人間にも作用して、寒さに縮こまっていたからだが活氣を取り戻し、芽吹きのエネルギーに心が踊り出す、ちょうどそのタイミングに合わせるように 一氣に出現して、ひとときみんなの心を浮き立たせて、数日のうちにいっせいに消えてゆく。

季節の花は どれもうれしいものだけれど、その中でも桜はひときわ 独特の位置にあるような氣がします。



今春の桜はおしまい。

春の喜びをいっぱいいっぱい、ありがとう。

すでに顔を出し始めている初々しい若葉が これからぐんぐん成長し、新緑の初夏へとまた季節が移ってゆく。

早くも次の季節への予感に 胸がときめくようです。
















遊び心

2013年04月02日 13時54分26秒 | ふと思うこと
エイプリルフールのきのう。

ネットの行く先々で 罪のないウソが百花繚乱、さながら天下御免のウソの見本市 (^_^;)

わが身の騙されやすさが改めて身に沁みた一日でした(笑)



エイプリルフールって、大人も自由参加のハロウィンみたいって思ったの、私だけかな?

子どもたちが思い思いの仮装をし、この日ばかりは天下公認で「トリック・オア・トリート☆」と町中を闊歩してお菓子を要求できる、あのおおらかでいたずらっぽいお祭り氣分に どこか通ずるものを感じて、なんだかほほえましかったのだけれど♪



ウソの中身も人それぞれ、洒落っ氣にブラボ~♪と言いたくなるようなものから、ひねりが効いてて思わずニンマリしてしまうもの、さりげない仕掛けにころりと騙されて「やられた~!」って叫んで頭を掻きたくなるようなもの、と種々さまざま。

規模のほうも、一行の文章の 次の行に「な~んてね」とオチがつくようなあっさりしたものから、HP丸ごと使った大掛かりなものまで。

これだけのことするの 手間ヒマかかっただろうなぁ、どんなにかワクワクしながら作ってたんだろうなぁ、なんて想像が思わず働いたりして。



本来ならあまりいいイメージをもたれることのない「ウソ」も、エイプリルフールとなると、あっけらかんとして毒を含まず、罪のないジョークとしてそこここに散りばめられ、むしろ暮しを活氣づけてくれる。

わざわざこういう“お祭り日”を設ける遊び心や茶目っ氣が、陰の面を感じさせないのかもしれないね♪

この三次元世界では、どんなことにも プラスマイナス・明暗・陰陽といった相反する二面がついてまわるけれど、遊び心っていうのは どこか笑いやゆとりを含んでいて、明るく風通しのいい方に焦点を合わせる力を持っているのかもしれません。



私たち、こういった特別の日でなくても、日常のちょっとしたことから 人生そのものまで、もっと遊んでいいのかもね













あり♪

2013年04月02日 00時31分41秒 | ふと思うこと
※ タイトル注 : 蟻のことではありません(笑)



私、この「あり」って言葉、よく使うんですが。

「何でもあり」の「あり」。

ひらがなたった二文字の中に 豊かなニュアンスを含む、とても使い勝手のいい言葉なのです。



何かについて「あり」とするのは、その見方・解釈を選ぶ、ということ。

たくさんの可能性の中から、自分の観念・信念にいちばんぴったりくるそれを 意識して選ぶと。

同時に自分が選ばなかった それ以外の解釈がたくさんあることもわかっているし、それらすべての存在、さらに 自分と違う意見を選ぶ人の存在をも受け入れますよ、ということ。

さらに、この「あり」は あくまでも現時点での「あり」であって、自分の選択がこの先変化することも もちろんOKしますよ、ということ。

弾力的・流動的な意味合いを含んだ 奥行きの深い言葉なんですね。



小さいころの私は、他人と一緒にいるときは、自分が何を感じ 何を考えているか じっくり耳を澄ますなんていう余裕はまったくといっていいほど持てなくて、まわりにどう見られているかだけが氣がかりでした。

何かを自分の意見として選ぶときは、それが自分の心にほんとうにしっくりくるかどうかよりも、まわりの賛同をどれだけたくさん得られるかの方が重要だった。

だから、いったん握り締めた意見は強くこだわって譲らず、違う意見を聞くゆとりがまるでありませんでした。

自分と違う意見を持つ相手が「敵」としか見えなくて、学級会などの話し合いの場は、私にとってはいつも“戦場” (^_^;)

勝つことがすべてで、その意見が通ることが ほんとうにその場のみんなにとって一番いいことなのか 冷静に振り返るなんていう発想は、まったくといっていいほど持ち合わせていなかった。

成長して視野が広まるに従って、そこまで狭い意識で話し合いに臨むことはなくなりましたが、それでも自分の意見や提案が受け入れられないとき 心のどこかにしこりが残るクセは なかなか抜けませんでした。

自分の選択と違う世界があることを どうしても認められなかったんですね。



そして、今。

長い時間をかけて、自分のあり方や意識を少しずつ変えてゆく中で、それまで怖れからカチカチに固まっていた心が じわじわとほぐれてゆくようでした。

小さく分けられた「自分」よりも はるかに大きな「自分」があって、世界は思っていたよりもずぅっと広くて定まらないもので、正誤、白黒と 計ったようにきっちり線引きできるようなものではないんだとわかってきました。

そうわかるにつれて、どんどん楽に息をついて生きられるようになっていきました(^^)

「あり」が自分の表現としてなじむにつれて、自分のことが好きになり、生きていることが楽しく感じられるようになってきました



「あり」という言葉を使うとき、よく小さいころの自分を思い出します。

息詰まるような緊張の中、自分の視点以外の世界を想像することもできなかった、ちっちゃな私。

自分の世界を必死に守ろうとしていた、ちっちゃな世界のちっちゃな私。

そして、よくがんばったねぇ、よくここまで来られたね、としみじみつぶやく 大人になった自分に続いて、ふむふむ、そうやって外れてまた戻るように仕組んでおいたのね、とニンマリ現れる より広い視野を持つ自分

ほんと、世界がぐぅーっと広がって、肩の力が抜けました




「あり」という言葉。。。長い紆余曲折・試行錯誤の末に獲得した、眼差しの変化と自由の象徴。

これからも愛用させてもらうことと思います

















新しい始まり

2013年04月01日 10時06分30秒 | 紡ぐ暮らし
4月1日。

新しい月、新しい年度の始まり。



夕べは遅くまで起きていて、夜中の2時ごろ ふと思いついて外に出てみました。

ややおぼろな半月と、駐車場の桜の大木、きのうの雨でもっと散ってしまったかと思っていたけど、まだまだ盛りの美しさをしっかり残しています。

花の間から月がのぞくような位置まで近づいてみました。

夢のような美しさ。

もっと近づいて 桜の下に入り込むと、えもいわれず優しい氣配にすっぽり包まれます。

あんなに寒くなかったら、1時間やそこら 立ち尽くしていただろうなぁ。



そして朝、夜更かしだったのに 7時前にちゃんと目が覚めました。

窓の向こうはきらきらの朝日、幸先いいスタート。

鳥たちの ぴいぴいちゅるるると鳴き交わす声が さかんに聞こえます。

桜の花もあともう少し、早咲きの木では すでにみずみずしい淡緑色の若葉がどんどん育っています。

幸せな季節。



いつもいらしてくださってありがとうございます

みなさまも、どうかよい一日を