毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

上書き

2015年05月16日 17時38分50秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「美しき緑の星」 に関する話が止まりません(^_^;)

ときおり挟むかも、なんて言ってたのに、立て続けにこの映画の話題ばかり。

初めて見たときは あっさりしていて いささか物足りないぐらいの印象だったのに、つくづく 後へゆくほどじわじわ沁みてくる作品です。




感覚フォーカス、これって 言葉を使わないことで からだの感覚と そこから派生する感情のドラマを切り離す、まさに 「切断」 だなと思うのですが、最近 繰り返し執拗に上がってくる辛い記憶にも 二種類あるらしいと氣づきました。

ひとつは、まだまだ見つめ続ける必要があって上がってくる記憶。

根深い思い込みは、一度や二度のフォーカスで すぱっと解放できるものではないようで、同じ記憶を繰り返し味わいながら、そのたびに 前より深いところまで入り込んでは 手放してゆくことになっているらしいのです。

それとは別に もうひとつ、すでに解放は済んでいて、たまたま記憶のワンシーンが思い浮かんだだけなのに、根深い痛みと取り違えてフォーカスしたばっかりに かえって大きくしてしまい、繰り返しフラッシュバックするというパターンがあることがわかったのです。

わだかまりはなくなっても、脳の回路自体がなくなるわけではないので、ちょっとした連想から 過去の場面がちらつくということはあるようで、その場合は いちいち取り合わず、さらっと流して 他に意識を移してしまえば そのうち薄らいでゆくものらしい。

流しても流しても 静かにつきまとって離れない記憶は前者、あっさり忘れられるものは後者、と、だんだん見分けがつくようになりました。




で、さらっと流すときは、すばやく肯定的イメージに焦点を移そうとするのですが、これが私には けっこう難しいのです

長年不安と怒りと劣等感の塊だった私、そういう否定的な感情や思い出はこれでもかというほどあって、間髪を入れず自動的に意識がいくのに、愛と分かち合いとか、溶けるような幸福感とかいうのは ほとんどイメージの持ち合わせがなくて、瞬時に呼び出すのが困難で。

が、いいことを思いつきました

ここ数日、そういう場面になった時、「美しき緑の星」 の ミラたちの星での平和な場面を思い浮かべることにしたのです(^^)

すっかり好きになって 繰り返し見るうち、郷愁さえ感じるほどになった、冒頭の集会や エンドロールの場面、また ミラの息子たちが マーシャたち地球人に 自分たちの星の生活を話して聞かせる場面、すでに一瞬で鮮やかに思い浮かぶほどに刷り込まれているようで、ここに意識を移せば、いやな記憶なんて たちまち消え去ります。




あの映画、否定的な観念が強い人たちに、誰もが大切にされて 争いのない世界って こういうものだよ、と、具体的な世界観を上書きしてくれるような役目も果たしているのかもしれません。

ますます好きになっていくなぁ




















私たちの中の 「美しき緑の星」 

2015年05月15日 08時23分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きのうの記事には書かなかったけれど、「美しき緑の星」 から連想した話がもうひとつあります。

ライアル ・ ワトソン著 「アースワークス」 に出てくる “ビーチウォーカー” の話。

お貸ししたまま長いこと手元から離れている本なので、内容もうろ覚えですが。。。。

ワトソン博士が浜辺を散歩していて 埋葬されたらしい古い人骨を見つけるんですね。

その骨のつくりや 埋葬の状態、埋葬品などから、この古代の人とその仲間たちは、並外れた知能を持ちながら、それを物質文明の発達の方向でなく 豊かな精神性を育てる方向に生かしたらしいと思われ、博士は そんな彼(彼ら)のありように 敬意を込めて “ビーチウォーカー” という呼び名を奉るのです。




日本の古代史でも、縄文人は 稲作について知りながら、そこから生まれるであろう物質への執着や 身分制などの害を見通して、あえて選択しなかった、という話を聞いたことがあります。

「美しき緑の星」 のミラたちも、いったんは物質的に栄える道を選んだけれど、生き方を見直して 物欲を手放し、自然の一部として 心豊かに生きる道を選び直したのですよね。




物質への欲求を手放した生き方というテーマは、小学生のときになぜか心惹かれた 「かもめのジョナサン」 に始まって、これまでにもここで取り上げたことのある 「パパラギ」 ほか、エンリケ ・ バリオス作 「アミ 小さな宇宙人」、ダン ・ ミルマン著 「やすらぎの戦士」、そして 写真家 ・ 星野道夫さんや ターシャ ・ テューダーさんのご著書などを通じて、私の中で 少しずつ大きくなっていました。




さらに この流れを一段と鮮明に印象付けてくれたのが、マルロ ・ モーガン著 「ミュータント ・ メッセージ」 という本。

仕事のため移り住んでいたオーストラリアで ひょんな成り行きで あるアボリジニの部族と砂漠への放浪の旅に出ることになったモーガンさん。

断りたくとも断れない状況で、水も食料も持っていないらしい様子から せいぜい2~3日のことと考えて やむなく参加しますが、その徒歩での砂漠横断旅行は なんと数ヶ月に渡って続くのです。

砂漠を知り尽くしている部族の人たちは、およそそんなものがあろうとは思えないところから 食べ物や水を見つけ出す力を備えており、動植物のあらゆる部分の生かし方や 薬草などの扱いにも長け、天から与えられるものだけで 砂漠での暮らしを十分成り立たせています。

また彼らは テレパシー能力も持っていて、言葉を使わず会話できるほか 進む先に 自分たちの必要とするものがある(待っている?)のを感じ取ることができ、さらには呪術めいたやり方で 手術などの西洋医学的な手立てまったくなしに 怪我を治すこともできるのです。




実はこの本、いろいろとあって 当初ノンフィクションとして刊行されたものが、のちにフィクションと訂正されたという話を 最近知りました。

が、そういういきさつとは関係なく 今なおこの話に愛着を感じるのは、事実であろうとなかろうと この本の提示した世界観が、深い共感と共に 私の中に眠っていた新しい価値観を呼び覚ましてくれたからだと思うのです。




これも長いこと読んでいないので 正確な言葉は思い出せませんが、「やすらぎの戦士」 の中に こんなふうな公式が出てきます。


              手に入るもの = 幸福
               欲しいもの


この公式を示した人物が言おうとしたのは、大きな幸福を味わうのに 分子を大きくすることもできるし、また分母を小さくすることもできるんだよ、ということ。

これまでの私たちの生き方は ひたすら分子を大きくするほうに邁進してきましたが、その結果 今 分母を小さくするほうに意識の向く人たちが増えてきているようです。

そして、その新しい方向が示す 新しい豊かな生き方を 具体的に鮮やかに見せてくれているのが、この 「ミュータント・メッセージ」 であり、映画 「美しき緑の星」 であると思うのです。




映画のミラたちのようにはとてもいきませんが、小さく地道にこつこつと 感覚フォーカスによって 「ミニミニ切断」 とでもいうようなことを続けてきた今、自分の内にはっきりと感じます。

心が満たされるほどに 外側のものへの執着は薄れると。

きのう書いたように、ガマンではなく 自然と欲しがらなくなるのです。




私たちは 本来ミラたちのように 満ち足りて豊かな心の持ち主だったんじゃないかと思います。

道を外れて いろいろと体験して、再びほんとうの自分に戻る決心をして。

「美しき緑の星」 は、今はまだ眠っているかもしれないけれど、私たちひとりひとりの中に すでに存在していると感じます。

そして今 急速な広がりを見せているらしいこの映画、忘れていた私たちのそんな意識を呼び覚ます役目を担っているんじゃないかな、とひそかに思っている貴秋です(^^)






















おのずと起こる

2015年05月14日 09時20分01秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先日のこの記事に書いた、「その望みが叶ったら 次はどうしたいですか?」 という問いかけ。

このときは、満たされた否定的感情は 力強い肯定的感情に反転するという面からお話しましたが、この問いには もうひとつ 「ひとつのプロセスをきちんと終わらせて初めて 次へ進める」 という意味合いがあります。

ひとつの望みが叶い 満足したら 次の望みが現れる、順を追ってひとつずつ であって、どれひとつでも すっ飛ばして先へ行くことはできない ということ。

これを逆から言うと、ひとつの望みが完結すれば、次の流れはおのずと見えてくる、そこに無理は生じない、ということになります。




変化を起こそうとするとき、それがどのような変化であれ、無理しなければできないというなら、そこには何らかの順序の狂いがあります。

多くは、まず外側から、つまり外見や行動から先に変えようとするとき。

見えるところ ・ 知覚しやすいところの欲求からどうにかしたくなる氣持ちはわかるのですが、その欲求には さらに奥の見えないところに それを生むおおもととなった思いがあるので、ほんとうに変えたい ・ 変わりたいなら、そのおおもとの部分に光を当てることが どうしても必要になります。




その昔、無理やりベジタリアンになろうとして失敗したことがあります(^^ゞ

当時あがめていた人が肉を食べなくなったので、自分も同調しようとしたのですが、肉を食べたい氣持ちはそのままだから、ストレスの大きいこと

肉を使わずに 同じぐらい満足できるレシピや食材や調理法を探し回り、ベジタリアンの料理ブックを買い込んであれこれ試作し、それでもなかなか納得ゆくものを作れず、とうとう挫折。

今は ベジタリアンなんてことさら意識せずとも、食べたいものを作ると 結果的に ごくありきたりの昔ながらの日本食で 自然とそんなメニューになるので、あのころの苦労を思い出すたびに笑ってしまうのですが

そのときのことや ダイエット(体重だけ落とそうとしたときは リバウンドの嵐だったのに、心の問題が解消したら 何もせずに20kgやせた)の体験などから、自分の奥に潜む思いをそのままに 行動だけ変えようとすると、労多く益少ない結果になると思い知りました。




自分の意思のはずなのに すんなりことが運ばないときは、素直な望みの上に ほんとうの自分ではない 後付けのこだわりや価値観が貼りついているのかもしれません。




「美しき緑の星」 に出てくる 「切断」 とは、まさにここに働きかけるんですね。

怒りっぽい相手であれ 不健康な相手であれ、まずするのは そういう状態を生むおおもとの原因である思い込みやわだかまりを その人のほんとうの心から切り離すこと。

「切断」 された人は、誰に何を言われずとも、感謝の心を取り戻したり 不健康の元になるものを手放そうとしたり、進んで無理なくできるように変わるのです。

まあ 映画ではかなり過激な変わりっぷりでしたが(笑)




肝心かなめの根本原因が解放されれば、あとのことはおのずと動き出します。

それまで悩みの種だったものが、無理なしガマンなしで 自然にいらなくなり 離れてゆきます。

意志の力を使うとすれば、 クセづいて 反射的に起こしてしまう行動を直すところぐらいかな☆




私たちは 映画みたいにどーん! って感じで 一氣に 「切断」 しちゃうことはできないけれど、ノミ一本でこつこつ彫るようにであっても 根っこのところから正していく限り、時間は多少かかっても 確実によき変化を起こすことができるのです。

その先に待っているのは、人も自然も溶け合って調和した 豊かな暮らし。。。かな? (^^)




















心和む 「美しき緑の星」

2015年05月13日 23時41分42秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


先日削除されていた 「美しき緑の星」 の動画。

またアップされていて、さらに増えています。

これらもいつまで見られるかはわかりませんが。


     その1          その2          その3




この映画、あとからじわじわきます。

ミラたちの故郷の星でのシーンがふと思い浮かぶと、なんだかほっとしたり 懐かしくなったりして。

人の手で作られる物は必要最低限、あとは 自然の恵みを感謝して戴く暮らし。

冒頭の 総会のために集まった人々の食事風景なんて、平和の象徴みたい。

湖のほとりでの空中ブランコシーンを思い出すと、しみじみ心が和みます。

誰もが欠けることのないまあるく豊かな満ち足りた心を持っているからこそ、こういう生き方ができるのでしょうね(*^ー^*)  




「美しき緑の星」 を見ていると、これまでに読んだり聞いたりしたさまざまなエピソードが 次々とリンクして浮かんできます。

総会場面で真っ先にひらめいたのが、「これ 木内鶴彦さんの話しておられた 未来の理想社会そのまんま」 っていうこと。

木内さんは 「一品持ち寄り」 という表現を使っておられましたが、皆がめいめいの得意技を持ち寄って、出来た物は 必要なだけとったらあとはみんなで分かち合う お金を必要としない生き方、あの食事場面や 余剰作物を希望者どうしで分け合う場面に そっくりそのとおりに描かれていました。

また、「パパラギ」 のサモアの人たちの暮らしとも重なるところがあったな。

場面変わって地球でのシーン、肉屋を見たミラが 「死体の展示場?」 とつぶやくところでは 「アミ 小さな宇宙人」 のアミのせりふが思い浮かんだし、ミラの息子たちが地球にやってきて 「環境と調和し通信能力も高い原住民」 のもてなしを受けるところは、マルロ・モーガンの「ミュータント・メッセージ」でのアボリジニとの砂漠横断の旅を彷彿させます。

あのアボリジニの人たちも テレパシーで会話していたんだよね。

人々の心が変わると やはり自然とこういう生き方になっていくのかなって、親しみ深く感じました。




映画 「美しき緑の星」、まだご覧になっていない方は、感じるものがあれば ぜひ。



















    

映画 「美しき緑の星」

2015年05月12日 21時10分27秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きょうも二つ目の記事アップです♪

きのう動画のリンクを貼らせてもらった フランス映画 「美しき緑の星」 。

すぐに消されてしまうかと思いきや そうでもなさそうなので 急いでご紹介したら、じきに消えてしまったようですが(^_^;)

あの記事の追記にも書いたとおり、私は3日間で4回見ました。




削除後にストーリーをご紹介するのもどうかと思うのですが、これからも動画や自主上映会などで まだまだ多くの人の目に触れる機会がありそうな映画なので、遅ればせながらあらすじを。




人々が 豊かな分かち合いの心を持ち、自然と調和した暮らしを営み、貨幣経済も 行過ぎた物質文明も はるか昔の話となった、ある美しい惑星。

この星からは、他の星の発展成長に支援の手を差し伸べるため 定期的に人が派遣されるのですが、その中で 地球だけは、あまりに原始的で意識が遅れていて危険なため 誰も行きたがりません。

そんな中、ひとりの女性が 「私行ってもいいです」 と名乗りを上げます。

さっそく地球に到着した彼女 ・ ミラですが、笑顔を忘れた人々、土も緑もほとんど見当たらない街、お金がないと何も入手できないシステム、からだに悪い食べ物や水、と いきなり難題続出。

そんなミラが 携えてきた 「切断プログラム」 。

前にも書いたように、人々本来の意識と 後付けの刷り込みによって思い込まされた概念を切り離す力を持っています。

やがてミラは、ひょんなことから “切断第一号” となった ある医師の家に世話になり・・・・




1回目に見たときは、いろいろと思い当たることもあり 面白いなとは思いましたが、想像したより淡々とした印象で、まあ一度見れば十分か、という氣持ちでした。

が、なぜか2回、3回と重ねて見るうちに、この映画の世界観にじわじわ引き込まれ 次第に愛着が湧いてきたのです。

面白いとか エキサイティングだとかいうのとは違う、親しみというか 懐かしさというか。。。。

ふとした折に浮かぶ 数々の場面が さまざまな思いを喚起し、見られなくなった今になって かえって味わいを増し、さりげなく身近に寄り添うような、不思議な映画です。

「美しき緑の星」 にまつわる話、これからも時おり挟み込ませていただくかもしれません(^^)




おしまいに、この映画の監督兼主演女優(ミラ役) ・ コリーヌ・セローさんのメッセージを。




世の中の仕組みを根底から問い直すクレイジーな映画を撮ってみたいと思いました。それで長い時間をかけて考証を行ったのです。無駄になったシーンやアイデアを書き留めたノートが何冊にもなりました。次から次へと疑問が生じたのですが、そのすべてに答えが得られたわけではありません。

そうして、風にそよぐ木々に見守られながら、台本の執筆に取りかかったのでした。完成した台本を見た人たちの反応は実にさまざまでし た。このプロジェクトの資金援助には乗り気でない人たちが何人もいるとプロデューサーのアラン・サルドが言います。「本当にこの映画を撮るつもりです か?」と彼が言うので、私は熱を込めて「もちろんです」と答えました。かくして映画は封切られたのですが、完全な失敗でした。誰も興味を示さなかったのです。客が入らず、批評家からは酷評されました。業界にとって、この作品は理解不能のUFOだったのです。しかし、この映画は死にませんでした。

こうした逆風にもかかわらず「美しき緑の星」は生き残り、生き物のように成長し話題となったのです。必要とされているからでした。この映画が世の中に発するメッセージのためだった。一緒に映画を見て語り合う「美しき緑の星」クラブのサイトが、いくつもネット上に見られるようになりました。

私は早すぎたのでしょうか? この映画のように価値観を根底から問い直すことで世の中を変えることが必要な、ぎりぎりの瀬戸際まで私たちは来ているのかもしれません。



コリーヌ・セロー





















行き先不明も面白い

2015年05月12日 09時37分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


今から7年ぐらい前になるのかな・・・彗星探索家で臨死体験者の木内鶴彦さんの講演を 立て続けに4回ほど聞く機会があったのですが、その中で 奇妙なことに氣がつきました。

話の内容によって たやすく記憶されるものと 何度聞いても記憶に残らないものとがあるのです。

理数系に弱い私のこと、天文学 ・ 科学分野の話が頭に入りにくいのは不思議ではありませんが、木内さんが臨死体験を超えて ほとんど死亡体験といっていいような状況で 時空を超えて見たさまざまな世界の、歴史的 ・ 宇宙的な話題などについても、とても面白いのに どうしても記憶にとどめられない。

その一方で、里山の循環だとか 未来の経済のあり方、木内さん的アセンション論などは、人に伝えられるぐらいしっかり残っているのです。

まあ 関心のあるものほど身が入るから、留まり方に差があるのは 当たり前といえば当たり前なんですが、ただ その抜けっぷりが半端ないというか。

学生時代 テストのたびに一夜漬けで鍛えた短期集中記憶には 今でもそこそこ自信があるのに(笑)、このとき覚えられなかった話題については、今度こそ覚えてやるぞとすごく意識し 集中して聞いていたにも関わらず、あとになってみると その部分の記憶にぼかしがかかったようになっていて、単に忘れたというより むしろ意図的に見せまいとでもしているかのようなのです。

いったいなんなんだ、これは。。。。とずっと不思議だったのですが、あるとき不意にひらめきました。

記憶に残らない情報は、私の人生やお役目には関わりがなく (少なくとも今現在は) 不要だから残らないのだ。

だから それは抜けるに任せて、もっと自分に必要なことや意味のあることに集中しなさい、ということらしい と。




自分が思いもよらないほうへと導いたり 遠ざけたりしてくれる力の存在については、前から感じていましたが、こんな形での働きかけは このとき初めて知りました。

また、集中を妨げないためばかりでなく、繰り返し接するものに いつも新鮮な氣持ちで出会えるように、という配慮から 記憶を薄れさせる場合もあるようです。

心友に教わった 「エンジェルナンバー」、お氣に入りの占いと並んで よく自分の氣持ちを確かめる手がかりにさせてもらいますが、これも 同じ数字の項目を何度読んでも 内容がほとんど頭に残らない。

CMだって 10回も繰り返せばたいがい覚えるだろうに、と おかしいやらあきれるやらなのですが、確かに 毎度おなじみの数字に、ああまたそれ?もうよ~く知ってるし・・・と退屈に感じるのと、おお、こんな意味が! と毎回感動できるのとでは、信頼度が大きく違います。

また同じ文言、と思い込むと、ていねいにその意味を読み取ろうとする意欲が落ちてしまいますから。

そのつもりで読むと、同じ文でも その時々のシチュエーションによって違う意味合いを帯び、いい手がかりをいただけるメッセージです。




記憶に限らず、顕在意識が氣づかないところで、潜在意識がいろいろと配慮し 取捨選択して 私たちを守り導いてくれるというのは、頻繁にあることのようです。

だから、自分が意図したのと別のところで あれ? とか あらまあ、とかいうことが よく起こる。

以前は 起こっていることすら氣づいていなかったけれど (^^ゞ




      「人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと」


これは、写真家 ・ 星野道夫さんの友人で、著書にもたびたび登場する シリア・ハンターさんの言葉。

初めてこの言葉に出会ったときには よくわからなかったけれど、今は(私なりの解釈なのだろうけれど)大きくうなずけます。

意識できる範囲で立てる計画は 氷山の一角に過ぎない、もっと大きな私 ・ もっと大きな意思があり、それに沿って 人生は動いていくんだなって。

そう頭ではわかっていても、自分の思い通りに事を運びたいと執着してしまうことも まだまだあるのだけれど、あとから見ると、大きな意思に運ばれた先というのは、自分の小さな計画より はるかにスケールの大きい視野から選ばれた最善の場だと 思い知らされるんですね。

何度もそんな体験を重ねて、前よりジタバタせずにお任せできるようになったかも☆

1ヶ月、いや 1週間先のことさえまったくわからない今の暮らし、不安でないといえばうそになるけど、愛着も深いのです。

























よろしければどうぞ♪

2015年05月11日 10時06分39秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きょうは続けてもうひとつ。




この動画

「美しき緑の星」 という 1995年製作のフランス映画。

テレビ(しかも深夜)で 試験的に二度放送されただけで、あとは事実上発禁となってしまった映画なのだとか。

いえ、決して過激だとかいかがわしいとかではなく。




中に 「切断」 という言葉が出てくるのだけれど、これは 貴秋的にいうと、本来の自分と インセプションされた後付けの観念を切り離すようなことらしい。

そして うわさによれば、これを見た人にも その 「切断」 が起こるのだとか。

そういう現象を好まない人によって 上映が阻止されたとかされないとか、まあそのへんの話は置いといて




動画でも アップされるや否やすぐ削除されてしまうと聞いていたんだけど、これは丸2日以上経っても まだ無事なのよね♪

すでに3回見てます♪

「切断」 が起こったかどうかはわからないけど、見るたびに この世界観に だんだん愛着が深まってゆくのを感じます(*^^*)




たまたま、まったく別のふたつのブログでお勧めいただいたのがきっかけ。

やはり、こういうものに追い風が吹いている時代なのかなぁ、と




上映約1時間半、あったかくて楽しい映画です。

いつまで見られるかわからないけれど、よろしかったらごらんくださいませ








p.s.

残念ながら、12日早朝に見たら 削除されちゃってました。

私は4回目見られたけれど、みなさまはいかがだったでしょう?

また見つけたら上げますね。



















自分の体験でなくとも

2015年05月11日 09時26分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


宮崎 駿監督のジブリアニメ 「魔女の宅急便」 の原作である 角野栄子さんの 「魔女の宅急便」 全6巻を 図書館で見つけて借りたのは、4~5年ぐらい前のこと。

映画のイメージとはまた違う空氣感が心地よく、原作も大好きになりましたが、この6巻の中で どうしても普通に読めないものが一冊あって。

「キキともうひとりの魔女」 という副題のついた第3巻なんですが、この内容が ときにひどく辛かったり痛かったりで、まともに読み進められないのです。

「あ、ここ辛い」 と思うたびに読み飛ばし、さらに 不安で先の筋が知りたくて 後ろのほうを先に読んでは また前に戻ったり、と、あたかも早送りと巻き戻しを繰り返しながら 指の間からホラー映画を覗き見るがごとし。

おかげで、ストーリーの大まかな流れは いちおう把握しつつ 細部はよくわからないまま、ぜんぜん読んだ氣がしないという 妙なことに (^_^;)




その後も 一冊だけちゃんと読めていないこの巻が氣になって、何度かトライしたのですが、どうしても辛くて読めない。

それが、少し前 不意に思いついたのです。

これほどまでの拒否反応には、きっとまだ向き合えていない大きなわだかまりが潜んでいるはず。

だったら、辛くなるたびに そのからだの感覚にフォーカスしながら読み進めてみたら? と。

で、さっそく試してみました。




3巻は、宅急便の仕事をしながら パン屋のおソノさんのところで部屋を借りて暮らしているキキの前に、風変わりな年下の少女ケケが突然現れ、半ば強引に押しかけ同居を始めるというお話。

1巻で コリコの町に魔女修行の場を見つけて 宅急便の仕事を始め、2巻では 町にも人にもすっかりなじみ、仕事にも自信をつけて 一段と成長したキキが、この3巻では ケケに押され 振り回されて、大きく自分を見失ってしまいます。

私は そんなキキに感情移入して キキの痛みや苦しみを生々しく感じ取り、また 意図的にキキを追い込んでいるらしいケケに、物語の登場人物相手とは思えないほどの ほとんど憎悪といっていいぐらいの反感を覚えてしまっていたのですが、実のところ それが 弟が生まれたときの 幼い自分の不安定な心理と重なっているらしい、ぐらいのことは、おおよそ察しがついていました。

で、ほとんど半世紀を経てなおわだかまっている そのからだの感覚に集中しながら読み進めていったら、理屈ではたどりつけないほど深くにあった 自身に対する無価値感や無力感と相対することになり、ときには号泣したりして、 およそいい歳の大人が児童書を読んでいる姿とは思えないようなありさまでしたが、痛みが浮かぶたびに本を置き、すっかり溶け去るまで感じ抜く、その繰り返しのおかげで、初めて 飛ばすことも前後することもなく 無事きちんと読み終えることができたのです。

そしてさらに確認のため もう一度続けて最初から読んでみたら、それまでのぎくしゃくは いったいなんだったんだと思うほどすらすらと、まったく動揺することなく ごく普通に読み通すことができました。

ケケの言動にいちいち感じていた腹立ちも どこへやら、第6巻で 手紙でだけ再登場するケケの描写に、決して悪い人ではないんだよね、と自分に言い聞かせながら なおもすんなり受け止められずにいたのも、今はすっかり思い出です(^^)




当ブログでおなじみ、ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」 に、“高度に進化した存在” つまり 高い意識レベルの他星人の話が出てくるのですが、「われわれ地球人が 正誤 ・ 善悪など 相対する概念や経験を通じて学びを得るのに対し、進んだ存在である彼らが 否定的なものごとをすべて撲滅しているのなら、どうやってほんとうの自分を経験できるのか?」 というウォルシュ氏の疑問に対し、神はこのように答えます。


      高度に進化した存在は、目の前の自分の世界に 「否定形」 がなくても、自分たちの文明がいかに 「肯定形」 かを知っている。
      
      否定形を創造して証明しなくても、ほんとうの自分を 「肯定的に認識」 している。

      高度に進化した存在は、相対性の場のどこかにある 「自分ではないもの」 を観察すれば、ほんとうの自分に氣づく。


そしてさらに、私たち地球人も、ほんとうの自分 ・ 選択する自分を経験するのに、対立する要素を創造する必要はない、ただ、どこかですでに創造されているものを観察すればいい、とも教えてくれます。




最近私は、からだの感覚フォーカスに この教えを応用させてもらっています。

自分は心穏やかに平和に暮らすことができても、いったん外に目を向ければ、ニュースや映画やドラマ、本、ネットなどを通して 苦痛を覚えるような情報をいくらでも見つけることができます。

これまでは 極力そういうものは避けてきましたが、今は 進んでとまではいわずとも、たまたま触れた情報については、そのとき心に湧き起こる自分のネガ感情を からだの感覚を通して消化 ・ 昇華するチャンスとして ありがたく活用させてもらっています。

わざわざ自分の体験として創り出さなくてもいいのですね。

生まれる負は できる限り少ないほうがいいもの。

そして、辛い出来事に悲しんだり憤ったりするよりも、それを通じて自分の内に潜む負を減らしてゆく人が増えれば増えるほど、辛い出来事も 辛い思いをする人も減っていく、そんな氣がしています。






















あきらめない氣持ちこそ 最強の味方

2015年05月10日 01時17分34秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


4月に一度リンク貼ったことがある この記事

今回は、本文のほうがテーマです。




このワークのときにはわからなかった 自分の中でいったい何が起きていたのか、今は手に取るようにわかります。

のびのびさんは、やはりというか 希望的意味合いでの のびのびさんだったんですね。

のびのびしてるからのびのびさん じゃなくて、のびのびしてるんじゃないかな? そうあってほしいな 的な のびのびさん。

もうちょっと言えば、のびのびしてると思い込もう の のびのびさん(笑)




でも、もう一方の不安さん、すなわちネガさんは、カン違いやごまかしで 当てのない希望にふらふら迷い込んだりすることのないようしっかり見張るのがお役目ですから、そんな自分にウソをついて のびのびを演じているのびのびさんが 自分の仕事の邪魔をしているようで、目障りでならない。

のびのびさんのほうは、自分でも信じ込もうとしている 偽りののびのびっぷりを 不安さんに見透かされている氣がして 落ち着かないので、なんとか自分のペースに引き込もうと懸命。

でも、そんなごまかしは、不安さんに本氣を出されれば 一発でバレバレ、あっという間に 思い込みの裏に潜んでいた不安のほうが 表に出てしまいます。




不安さんのほうは、矛盾する氣配を発し続けていたややこしいのが退散し、お役目も果たせたので すっきりいい氣分。

のびのびさんと不安さん、完全に立場逆転です (^_^;)

でも、不安さんは ウソをついたりごまかしたりには厳しいけれど、のびのびさんをいじめたいわけじゃない。

やっと正直になれたのびのびさんを励まし、力を合わせて仕事をしようと、お花をプレゼントしたんですね。

のびのびさんは それを見て、正直になってよかったんだ、とほっとして、胸のつかえが下りたことでしょう。




で、このときの “ごまかしなりすましのびのびさん(笑)” は、とりも直さず この私だったわけですが、あれから10年近く経った 今、いや、あれはあれでよかったんだよ、と擁護したい氣持ちなのです。




何であれ、180度方向転換するっていうのは 大きなエネルギーのいること。

ましてや、配線未完の脳にがっちり刻み込まれ、そこから数十年 上塗りに上塗りを重ねてきたセルフイメージを変えるとなったら、それはもうえらいことです。

とりわけ初期の頃ほど抵抗も大きく、それに負けないだけの踏ん張りが必要なのだから。

目を背けるほどに 相手が強くなるからくりをわかっていても あえて無視して、たまたま調子よかったときの様子を拡大し、もう自分はよくなったよ、大丈夫だよ、と思い込ませて セルフイメージの書き換えを図ったのびのびさん、なんともけなげです。



とはいえ、不安さんの厳しい態度も、今はよくわかるのです。

いくらがんばっても、自分にウソをつききれるものではなく、かえって裏に潜む氣持ちのほうが大きくなり 逆効果なのを 根を張るのが仕事の不安さんは よぉく理解していて、ストップをかけたんですね。

あのころ感覚フォーカスを知っていたら、もちろんそんなごまかしする代わりに、まっすぐ不安の元にあるからだの感覚に集中していたでしょう。

でも、そんな効果的な手立てを知らなかったあのころ、思いつく精一杯といえば、とにかく全力で反対向いて進むことだけだったんだもの、のびのびさんの苦労がしのばれます。




でも、じゃあ のびのびさんの頑張りは 逆効果でしかなかったのかといえば、決してそうではないと思うんです。

どんな効果的な手立てもテクニックも、まず 「必ず変る、よくなってみせる」 と強い意志があって 初めて成果が出せるもの。

のびのびさんは、どれほど不安でも 強力な引き戻しに遭っても、決してあきらめなかったんですね。

けんめいになればなるほど 不安も増す、そんな厳しい状況でも、決して希望を捨てなかった。

それは、強引にウソをつき続ける姿であると同時に 何が何でも望みを叶えてみせると宣言する姿でもあった。

その踏ん張りがあったからこそ、感覚フォーカスという素晴らしい情報を引き寄せ 今を迎えることができたとも言えるんだし




自分を変えようとすれば、最初はどうしたって ウソっぽさや白々しさがついてまわることもあります。

それでもいい、構わない。

それは ごまかして問題を感じないようにしたせいではなく、真正面から向き合ったからこそ感じるウソっぽさ、白々しさなのだから。

なによりも大事なのは、あきらめずにやり通す意志。

他のことはあとからついてきます♪




あきらめを知らず 粘り強いのびのびさんと、まっすぐで役目に忠実な不安さん、いまや見事な連携プレーで 力強く幸せへと導いてくれる ゴールデンコンビなのです(*^^*)






















手応えあり☆ のアファメーション

2015年05月09日 09時16分23秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「アファメーション」 という言葉を知ったのは わりと最近のことで、3年ぐらい前だったかな?

「アファメーション」 とは、こうなったらいいなという願望を、「そうなりつつある」 「すでになっている」 などの 断定の形に言い換え、繰り返し唱えることで 潜在意識に働きかけ、実現の推進力とすること。

でも、そんな呼び名を知らないうちから、「宣言」 と称して アファメーション自体はやっていたんですね。

言葉の持つ力は大きいと ずっとあちこちで聞かされていましたから。




ただ、今思うと あれが果たして効果あったかどうか いささか疑問です。

アファメーションすること自体がどうこうじゃなくて、私の場合は、という話なんですが。




というのは、肯定的な言葉を唱えるほど、その裏から 「それほんと?」 「ほんとうにそう信じてるの?」 との疑いの思いが いつもついて回っていたから。

当時は これはもうどうしようもないことと、その疑念や否定を上回るべく 芝居がかるほど情感を込め、何十回 ・ 何百回と執拗に繰り返していましたが、もしかすると 同じ数だけ否定も上書きされて 相殺か、悪くすると 否定のほうが勝っちゃっていたかもしれないなぁ




前にも書きましたが、成人してからも何十年と影響を及ぼすようなセルフイメージというのは、まだ脳の配線が未完成の幼少期に根付いた可能性が高いんですね。

脳が未完ということは、当然言葉もまだ使いこなせてないわけで、そのころ入り込んだ情報は 言葉になる前のイメージのまま、つまり より根源に近い形で刻まれたことになります。

言葉は そういうイメージを不完全な形ですくい上げる表現手段なので、その力は イメージそのものより弱いわけです。

だから、言葉になる前の形で根付いたものを 言葉で打ち消すというのは 困難なことなんですね。



とはいえ、アファメーション以上のいい手立てを知らなかったころは、とにかく手持ちの情報の中でベストを尽くすしかありませんから、「ホ・オポノポノ」 だろうと 「ありがとう百万遍」 だろうと、とにかく数を重ねればどうにかなるかもという希望を持って、手帳に正の字書いて数えたりしながら (ありがとうは 実際百数十万遍唱えた) 唱えに唱えていました (^^ゞ




それが、ここ1~2年 「からだの感覚にフォーカス」 という 大きな手応えありの手立てを得て、しばらくの間 アファメーションはすっかり忘れられていたのですが、先日ふと思いついたのです。

何十回 ・ 何百回と ポジティブな思いを口にするたびに それを打ち消すように上がってくる思いというのは、かなり根深いものに違いない。

だったら、その上がってきたネガな思いの感覚にフォーカスしてみたら? と

だいたい先日氣づいたように、ネガさんは敵じゃなくて、上っ調子にならないで 氣を引き締めるようアドバイスしてくれる頼もしい仲間なのだから、そのメッセージにはきちんと耳を傾けたほうがいい。

で さっそく試してみたら、効果絶大♪

内容によって 手放すまでの時間に差はありますが、一度消えると 次からはもう否定が上がってこないので、疑念なしに 氣持ちよく唱え続けることができ、氣持ちがぐっと上がります。

むしろ アファメーションのおかげで 氣づいていなかったネガティブなセルフイメージに氣づくチャンスをもらえたわけだから、効果もうれしさも倍増ですね




言葉にならない形で刷り込まれた思いは、言葉にする前の形で光を当てることで 効果的に解放されてゆくようです。

最近は、よほど根深いのか 手放しても手放しても またフラッシュバックする不安や恐れに、アファメーションと感覚フォーカスを組み合わせて唱えてみています。

まあ 年単位で試さないと 断定的なことは言えませんが、自分なりには手応えありで いい感じ♪

以前は なるべくウソっぽくならないよう 「~しつつある」 というのが精一杯でしたが、今は 「~だ」 と断定形多数でOKです (^^)v