毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

DO IT YOURSELF ! \(^o^)/

2015年05月08日 11時22分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


私が精神的 ・ 魂的なことに目覚め始めたウン十年前ならともかく、これほどまでにスピリチュアルが公認され、本もサイトもワークショップも充実して、情報が溢れ さまざまな技法が氾濫する この恵まれたご時世。

なのに、五感を超えた世界の知恵を身につけ 輝くように幸せな人が さほど増えたように見えないのは なぜ? というのが 長年の疑問だったんですが、だんだんわかってきました。




どれほど知恵を授け、技法を施し、支え 応援してくれる人がおおぜいいても、

さいごのさいごは 自分ひとりでやるしかない!

という、ここがネックだったんですね。




自分の成功体験を分かち合いたい、ひとりでも多くの人に幸せになってほしい、との熱い思いをこめて、ご自身の体験を語ってくださったり、知恵を伝授してくださったりする方々は、いまやおおぜいおられてありがたいことです。

でも、どんなに真心のこもったアドバイスも、言葉が媒体である以上、届くのは相手の外側まで。

その 外側に置かれたものを 取り込んで 自分のものにするところは、ひとりでやるしかない。

どれほど細やかに説明してくれていても、それを試行錯誤しながら 実際の感覚に置き換えるのは 自分しかいない。

どんなにからだにいいとわかっている食べ物でも、それを口にすると決めるところから 消化 → 同化 (プラス不要なものの排泄) までのプロセスは 自分でまかなうしかないのと同じことですね☆

もちろん 言葉にならないところで伝わるものもあるけれど、それをキャッチできるかどうかは やはり自分次第なわけで。




また、心やからだに溜まった緊張をほぐしたり ブロックを外したりしてくれるセラピーやワークショップも いろいろとあるようですが、それも 万事おんぶに抱っこというわけではなく、楽になった身を自力で保つ知恵を身につけ、その身をもって 自分を変えてゆくのは、やはり自分の仕事。




私も いろいろな本やサイトや講座のお世話になったけれど、一番肝心かなめの 「具体的にどうすればいいのか」 が目隠しされている感を 長いこと拭えなくて、なんだか意地悪されているみたいに思ったこともありましたが、ひとり悪戦苦闘しながら 徐々に手応えを感じてゆくうちに、そこに自力で取り組むことにこそ意味があったんだと わかってきました。

私たちがわざわざ 不自由をおしてこの世界にやってきたのは、一刻も早くゴールするためではなく、そこまでのプロセスをじっくり体験するためなのだもの。

それを 他者にすっかり代わってやってもらったり 答えを丸ごと教えてもらったりしたのでは、せっかく生まれてきた意味がなくなってしまいます。

ここで失敗を重ねて苦労するからこそ、うまくいったときの喜びも大きく、自信もつくし、外からの情報を 自分の知恵や力として確実に身につけることができるんですね。




それに、いくらさいごはひとりといっても、同じ道を歩く友と励まし合うこともできれば、ヒーラーやセラピスト ・ また本やメルマガ等の著者などとして 力を貸してくれる人もいっぱいいるわけで、決して孤立無援ではないのですから。

さらに私は、見えない世界の存在さんたちからも 大きな助けをもらっていると感じています。




多くの先人たちから知恵を借り、歩みを同じくする者どうし 情報交換したり 応援し合ったり、そして ここぞというところは 自分の力でがっちり掴む。

DIYの楽しみは、料理や手芸や大工仕事にも 五感を超えた分野にも 共通のようです(^^)
























ある意味健全

2015年05月07日 23時53分59秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


このところ 心が落ち着ている時間が 以前よりずっと長くなり、時として至福と言いたいほどの幸福感が わけもなくこみ上げてきたりします。

そんなあるとき ふと氣がつきました。

このまろやかでうっとりするような感じって、甘いものやこってりしたものを口にしたときに感じる心地とそっくりだ、と。




やたら甘いものやミルキーなもの、しつこいものが食べたくてたまらなかったとき、私がほんとうに切実に欲しかったのは 食べ物自体ではなく安心感や幸福感だったんだと、改めて腑に落ちました。

もちろん当時は そんなからくりになっていようとは思いもよりませんでしたが。。。。

不安に取り巻かれっぱなしだったあのころ、空腹でもないのに しょっちゅう欲求が起こっていたのも納得です。




でも、食べることで得られるそれは やはりほんものではない一時的な氣休め。

ほんとうの安らぎや陶酔するような感覚は 心のバランスがとれて 落ち着いている時に起こるけれど、食べ物への欲求は 不安から逃れたいと必死になっている時に起こる、つまり 安心ベースと不安ベース、まったく正反対のところから湧いてくるという点が 大きく違います。

不安から逃れれば とりあえずはほっとするし、それを私は長いこと 幸福感と取り違えていたのだけれど、「ほっとする」 のほうは しょせんはまがいもの、根本的な解決とはならず じきまた不安に引き戻されるから、からだが必要としないものを バランスを欠いて やたらと食べ続けることになり、過食となって やがては健康を損ねてしまう。




そのときは、それしか思いつけなかったのだから 仕方なかったとも思います。

からだには負担をかけてしまったけれど、一時しのぎとはいえ、それがあったおかげで 心が壊れずにすんだのだから。

ただ、抑えようのない食欲に手を焼き わけがわからず悩んでいた時に、ほんとうに求めていたのは 心の安らぎだったのか、と今振り返ると、なんだか当時の自分が痛ましいような いとおしいような 切ない氣分になります。

あのころこれがわかっていたら、あんなに悩まなくて済んだのにね。

応急処置はあくまでも応急処置、いずれはきちんと問題と向き合う日がやってきます。

このようなからくりが より具体的に見えてきた今は、アンバランスな食べ方をしたくなる衝動に対して、ダイエットなどのように やみくもにがまんするのではなく、不安定な欲求を起こさせるおおもと ・ 心の様子に注目することが 真の解決につながる、という 以前から思っていたことを、いっそう自信を持ってお伝えしていきたいと思います。




その昔 過食がひどかったときに、何回ダイエットをしても すぐリバウンドで元に戻ってしまう自分を、意志が弱いとさんざん責めたけれど、実は命を守ろうとする防衛本能に素直に従っていたわけで、ある意味健全な反応だったんですね。

ちょっとフクザツな氣分ですが(笑) ( ̄ー ̄;)ゞ