Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

イン・ザ・カット

2007-10-01 | 外国映画(あ行)
★★★★☆ 2004年/アメリカ 監督/ジェーン・カンピオン

「闇あってこその官能」


これはポルノなのか、サスペンスなのか、文芸作品なのか、どれにしても中途半端だなんて、言う人もいるらしい今作品。なぜ、みなさんそんなにジャンル分けしたがるのかしら?そのまま受け止めればいいじゃない。メグ・ライアンはコメディにしておくべき、なんて私ちっとも思いませんでしたわ。むしろ、ハマリ役だった。私はこの作品、好きです。

そもそもニコール・キッドマンを念頭に置いて書かれた脚本に、メグ・ライアンが惚れ込み、どうしても、と主演に収まり、ニコールも本作への思い入れがあるため製作側にまわっている。このハリウッドを代表するふたりの女優がなぜこれほどまでにこの物語に惹かれたのか、私はわかるような気がする。

知的でキャリアのある独身女の孤独というのは、「ピアニスト」同様、わからない人には何とも不可解で滑稽に見える。主人公のフラニー(メグ・ライアン)は大学で文学を教える講師。しかし、スラングを教えて欲しいと黒人の学生と一緒にいかがわしい雰囲気のバーに行くし、以前付き合っていた男は変質的なストーカーと化している。知的な女性がなぜこんなことをいう疑念が、「これはハーレクインばりのソフトポルノにしたいからなのね」と短絡的に決めつけられるのはあまりに悲しい。

自立している女性というのは、基本的には男に頼りたいという意思はない。男性諸氏には申し訳ないが、本当に全くない。またフラニーは5度も離婚を繰り返したという父親のトラウマがあって、男性に心を開くことができない。しかし、男に抱かれたいという欲求はある。その「抱かれたい」という気持ちは、あくまでも満たして欲しいという思いであり、相互の依存関係を求めているわけではない。しかし、そんな虫のいい要求を満たしてくれる男も少ないし、社会通念がそれが阻む。頭と体のジレンマは自立した女性の永遠のテーマだ。

ニコールを押しのけてこの役に挑んだメグ・ライアン。とてもエキセントリックで心に闇を抱えた女性をミステリアスに演じている。基本的にはぎすぎすした女ということなんだろうが、メガネをかける仕草などにとても性的魅力を感じさせる。疲れた感じだからこそ出る女のエロチシズム。先が読めない不穏なイメージや殺人事件が絡むミステリアスなムードにもドキドキさせられる。

文学を教えるフラニーは、地下鉄の広告などで気になった文章を書き留める、という習慣がある。言葉に何かを見いだしたいという彼女と、殺人犯かも知れない男に欲情を覚えるという彼女は、私の中でぴったり符合する。メグ・ライアンは、イメージチェンジしたいとか、新境地を開きたいとかそういうことではなく、本気でこの役をやりたかったんだと思う。