Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

SAW

2007-10-12 | 外国映画(さ行)
★★★ 2004年/アメリカ 監督/ジェームズ・ワン

「謎解きのためだけに殺人を利用することを私は肯定できない」


パート3まで製作されるほど、一大ブームになったサイコスリラー。廃墟のバスルームに閉じこめられたふたり。どちらかを殺した方が命が助かる、という一方的なゲームを告げられ、最初はとまどうものの、極限的な状況に追い詰められるに従いパニックに墜ちていく…。

「誰が」「何のために」殺し合いをさせるのか、という根本的なところはもちろん、なぜこの二人が選ばれたのか、どうやってここに連れてこられたのか、など次から次へと謎のオンパレード。しかも、その謎を解くためのヒントが何気ないカットやセリフ、小道具などに隠されているため、観客は何事も見逃すまいと映画にのめりこんでいく。いきなり、殺し合いをしろ、という幕開けにぎょっとしてしまうのだが、有無をも言わさぬ展開はまさにアイデアの勝利。

しかし、次から次へと出されるヒントにうんうん唸りながら推理しているうちに、なんだかプレステのゲームでもやってるような気分になってくる。ポケットをクリックすれば「ここに○○が入っている!」とかダイアログが出てくるようなゲーム、あるでしょ?あんな感じ。

確かに真犯人の居場所が判明した時には感心したけど、私はその動機にいささかがっくりした。ちょっと道義的すぎやしないか?これだけ残忍で不愉快なゲームを仕掛けた犯人のくせに「コイツ、いいこと言ってるな」なんて気分を観客に持たせていいもんだろうか。

と、ここで私の頭に浮かんできたのが、あのレクター博士だ。残忍きわまりない、レクターの犯行に同情の余地は全くないのだが、レクターのダークな部分に惹かれずにはいられない。しかし、ジグソウの理由は「生を大事にしないから殺す」なんてえらくマトモなものなのだ。なんだか、腑に落ちないんだな、これが。

確かに真犯人は最後までわからないのだから、犯人の人物造形ができないのはしょうがない。だとしたら、やはり謎解きゲームとして楽しむのがこの映画の正しい楽しみ方、ということになるんだろうか。でも、これほど、残忍な殺し合いを純粋に謎解きとしては、私は楽しめない。犯人の人物像、動機、社会的背景などうかがい知るべきものがあってこそ、殺人の映画は意味を持つ。そう考える私は甘いんだろうか。それとも、堅物なんだろうか。