Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

にっぽん昆虫記

2008-04-05 | 日本映画(な行)
★★★★★ 1963年/日本 監督/今村昌平
「力強く、美しいショットの数々。傑作」

<このジャケット、めちゃかっこいいぞ>


私は今村作品が好きだ。生身の人間を真正面から捉え、エロティックに、滑稽に、人間の“欲”や“業”を貪欲に突き詰めて描く。しかし、久しぶりに「にっぽん昆虫記」を見直してみて驚いたのは、そのエネルギッシュあふれる演出よりも、構図の美しさだった。

天井からぶら下がる縄に必至にしがみつき、苦痛に顔を歪める出産間近の女を俯瞰で捉えるショット。工場の裏の茂みでトメを手籠めにする課長を捉える地面すれすれのショット。汗だくになって裸で抱き合う信子と情夫を枕元から捉えるアップのショット。数え出すときりがないのだが、こりゃかっこいいやと思う印象的なショットが本当に多いのだ。ますます、他の作品も見直したい気分が湧いてくる。

物語は、「とめ」という東北の農村に生まれた女の波瀾万丈の一生を描く。(前半部はあまりに方言がきついので、何を言っているのかわからないセリフ多数)「とめ」を演じるのは左幸子。10代と思しきおぼこい田舎娘の女工から、コールガールを取り仕切るやり手ババアになるまでを迫真の演技で魅せる。左幸子以外にも、佐々木すみ江、春川ますみ、北林谷栄と最強メンバーが連なる。まあ、どの女優陣もふてぶてしいことこの上ない。

戦後の東京の猥雑なムードも十分面白いのだが、やはり前半の農村での暮らしぶりのインパクトには負ける。じめじめした閉鎖社会、男尊女卑、農民的いじけ根性が満載で、そこに潜むあらゆる差別は、現代日本人のメンタリティにも少なからず潜んでいる。娘とめがあふれ出る母乳を田んぼのあぜ道で父に吸わせるような描写も実に今村昌平らしい。

さて、この作品を紹介するにあたり「戦中・戦後を生きた女の人生をエネルギッシュに描く」と言う言葉が最も使いやすい文面だろうと思う。しかし、私はエネルギッシュに描くとは書けない。なぜなら、とめの人生は悲惨極まりないからだ。突然奉公に出され、父なし子を孕まされ、働き先の工場の課長にも手籠めにされ、人生を変えるべく東京に出てきたら一杯食わされて売春させられ、辿り着いたのはコールガールの元締め。つまり、人生のほとんどがセックスの強要なのだ。強姦と言ってもいい。しかし、悲しいかな、この時代こういう女はたくさんいた。そう思うと、今を生きる私はこの物語をどう咀嚼したら良いのか、途方に暮れる。

しかし、「にっぽん昆虫記」と言うタイトルからもわかる通り、本作はとめの人生を昆虫観察のごとき客観性で眺めた映画だ。これだけの目にあった女を「昆虫」と見立てる。その発想と勇気こそが、本作品の面白さであることに間違いはない。この客観性がとめの人生を一方的に「悲惨だ」「かわいそうだ」と情緒的に感情移入することを阻む。そうすると、とめの「今を生きる」という生き様だけが迫ってくる。男や社会に裏切られ、川の流れに身を任せるような人生であっても、そこに「とめと言うひとりの女が生きた」という事実がしっかりと我々の脳裏に刻み込まれるのだ。


ビッグ・リバー

2008-04-05 | 外国映画(は行)
★★★★ 2003年/アメリカ 監督/舩橋淳
「どこまでも高いアメリカの空」


何も起きない淡々と流れる映画といろいろ聞いていたのですけど、
いや、これがね、意外と良かったんだな。

砂漠のど真ん中、まっすぐに進む道。時折見えるのは、巨大な岩だけのアメリカの大地。こういう景色を舞台にしたロードムービーは多い。しかし、撮る人間によってこうも印象を変えるものなのかとこの作品を通じて再確認できた。例えば「イージーライダー」ならワイルドで荒くれたイメージ、「バグダッド・カフェ」なら憂いのイメージ。本作では、この広大な景色に私はアメリカの「包容力」を感じた。小さな摩擦を起こしながらもほんのひと時の旅を続ける3人をすっぽりと包む込むアメリカの大地。

構図も非常に計算されていると思う。狙ったショットが多い。そこが、ジャームッシュもどきと感じてしまう方はダメなのかも。でもね、私はとても気持ちよく受け止めることができた。たぶん、それは高い高いアメリカの空のせい。そして、常にシンプルである続ける絵の美しさ。車のボンネットに座る3人と青空。画面の中にそれしかない。そんな最小限の情報しか存在しない映像がやけに心地いい。

「袖振り合うも多生の縁」。バックパックで旅した私にも経験がある。旅が終われば二度と会うことはない、そんな人たちとのひと時の邂逅。それらは、後で思い出すとやたらにセンチメンタル。そして、彼らを思い出す時には、必ず出会った場所も同時に思い出す。哲平がサラを思い出す時、そこには必ずアメリカの大地のぬくもりが伴うだろう。舩橋監督は、アメリカで映画を学んだ方のようだが、アメリカに対する温かい目のようなものを私は感じた。

さて、白人の金髪女性とベッドシーンを演じられる日本人の俳優は、今のところオダギリジョーしかいないんじゃないでしょうか。渡辺謙や真田広之のような「私はニッポン代表です!」みたいな看板しょってる俳優はまず無理ではないかと。「ニッポン」という記号性と金髪美女の組み合わせは、どうしても滑稽に見えるんですよ、悲しいかな。でも、オダギリジョーの無国籍なイメージは、「ニッポン」という看板を観客に忘れさせる。これは、海外作品に出るにあたり、大きなメリットだと思う。ぜひまた海外作品にもチャレンジして欲しい。金髪美女を振り回すなんてカッコ良すぎるよ、オダギリくん。