Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

ラッキーナンバー7

2008-04-08 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★☆ 2005年/アメリカ 監督/ポール・マクギガン
「どんでん返しと言うほどでも…」


あんまり「大どんでん返し」ばかりを宣伝文句にしちゃうと、おもしろい映画も見方が変わって来ちゃう。そんなことを本作でしみじみ感じました。というのも、どんな大どんでん返しが行われるのか、そこばっか気になっちゃって。やっぱりストーリーそのものに興味をそそられて、見るべきなんですよね、映画って。

本作で言えば、ニックという男に間違われたことで2つのマフィアから目を付けられてしまう男、スレヴンの物語。そこに、なぜかグッドキャットと呼ばれる殺し屋の影がちらつく。一体彼は誰の味方なのか、そしてスレヴンはこの危機をどう脱することができるのか…と言ったところでしょうか。

時折挿入されるフラッシュバックの映像をヒントに、振り回されながらも何か企みがありそうなスレヴンの真意を読み取る作業はなかなか楽しい。映像もとてもスタイリッシュで、マフィアが潜むホテルやニックのアパートなど、ニューヨークらしいオシャレな建築物も全体の雰囲気とぴったり合ってる。

ただね、私はだいぶ前からオチが何となくわかってしまいました。だけども、件の「大どんでん返し」が頭にこびりついていたため、まさか私の予想通りではないだろうと、もっともっと裏をかいたオチがあるんだろうと思っていたのですが…果たして予想通りでした(悲)。というわけで、あまり深く考えずに見るのが正解かと。

それにしても、ルーシー・リュウってアジア人で若く見えるからなのか、実年齢より若そうな役が回ってきて、結構おいしいポジションですね。

毛皮のエロス

2008-04-08 | 外国映画(か行)
★★★★ 2006年/アメリカ 監督/スティーヴン・シャインバーグ
「アーティストが目覚める時」


「写真」ほど、「自己」と「対象物」の関係性がシビアなメディアはないと思う。確かに映像の世界も、映すモノがあってこそ成り立つものだけれど、カメラのシャッターを切ると言う行為は、その「一瞬を切り取る」ということ。それは、映すモノがそれでなければならぬ必然性、その瞬間でなければならない必然性がある。この作品は、ダイアンの自己開放の物語であると同時に、カメラマンという人種が撮りたいものをどう捉え、どの瞬間に撮る決意に至るのかを示している。つまり、本作の主人公ダイアン・アーバスその人もその作品もかなり特異ではあるが、撮るに至るプロセスは全てのカメラマンも彼女と同じであると私は思う。

ダイアン・アーバスは撮影前には彼らとベッドを共にすることもあったと聞いたことがある。本作では、ダイアンにとっての「対象物」が彼らでなくてはならない理由が紐解かれていくが、そのベースにあるのは「好奇心」と「自己開放」。ダイアンは元々持っていた自己顕示欲をいいところのお嬢さんであったため、満足させることができなかった。それが多毛症の男との出会いから一気に開放されていく。彼らの前ではダイアンは自分らしくいられた。夫のことも娘のことも忘れてのめりこむ様子は、まさにひとりのアーティストの目覚めのプロセス。有名なドイツ映画で「フリークス」という作品があるが、彼らのような障害を抱えた人たちを神の子と捉える人もいる。対して、ダイアンにとっての彼らは、自分が自分でいるための存在。自分が生きるために必要不可欠な存在ではなかったのだろうか。

しかしながら、本作は実話に基づいたものではないと言っている。夫と共に広告写真を撮っていたことなど、取り巻く環境のある程度は事実に基づいているけれども、まさにこの作品のモチーフである「目覚め」については完全にフィクションである、と。しかし、ダイアン・アーバスの人生と作品が観るものの様々なイマジネーションを掻き立てるものであったからこそ、このような作品が生まれたと言える。私は仕事でいろんなカメラマンさんとご一緒するのだが、「撮る」という行為は、実にストイックだと思う。対象物が自分の撮りたいものであればあるほど、自分の身も心も削られていくよう。本作は、ダイアン・アーバスをニコール・キッドマンという有名女優が演じたことで、写真に興味のない方でも本作を観るきっかけができた。それは、新しい世界への誘いとして実に意義あることだと思う。