Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

赤い殺意

2008-04-13 | 日本映画(あ行)
★★★★★ 1964年/日本 監督/今村昌平
「ほてる頬」


この時代の今村監督の作品は、モノクロのコントラストが実に美しい。市川崑が「黒を作り出す」巧さだとすると、今村昌平は「白を作り出す」巧さではないでしょうか。いや「白」と言うより「光」の使い方と言った方が正しいか。

春川ますみ演じる主人公貞子は、いつも毛糸の帽子に野暮ったいスカートを履き、体も太っているし、はっきり言って美人ではない。そんな彼女が幾度となく強盗犯に陵辱される。のけぞる彼女の顔、特にぽっちゃりとした頬に光が照らされる。その時の彼女の艶めかしさと言ったらこの上ない。それは、レイプされる女を美しく撮ろうというごまかしの映像では決してなく、言われなき陵辱に為す術もない女の顔に迫れば迫るほど、恐ろしいような美しさが際だってくるのだ。

このようにどこに光を当てるかで、見せたいもの、強調したいものを瞬時に観る側に悟らせる。これは、モノクロ映画ならではのテクニックだろう。光の存在は、特に室内の撮影で効果を発揮している。安普請の日本家屋、無理矢理連れて行かれる連れ込み宿、強盗犯が勤めるストリップ小屋。どこにいても光の存在が際だつ。不幸を絵に描いたような貞子と言う女の物語の泥臭さと「白」の強調がもたらす映像の美しさが見事に溶け合っている。先に書いた「にっぽん昆虫記」も同様だ。

夫、姑、社会、制度。あらゆる呪縛にただただ耐える女、貞子。夫からぶたれようが、姑からいじめられようが、愛人から馬鹿にされようが、「わたしはなにもできない女」という思い込みは、骨まで染みている。あげくの果てに強盗犯にレイプされ、付きまとわれ、いいことなんかなんもないと世の中を嘆く。貞子という女はとことん無力で、自分を卑下して生きている。その様は、現代人にはとてつもなく愚鈍に見えるが、しかし、女という生き物の一つの側面であることには間違いない。一方、貞子を囲むふたりの男。妻をいびることしか頭にない夫(西村晃夫)と死期を前に強引に女に迫る男(露口茂)は非常に身勝手だし、器が小さい。が、しかし、その狭量さもまた、男という生き物の確かな側面なのだろう。人間の醜さやずるさを切り口にして、「生」を鮮やかに描く。これぞ、今村昌平の真骨頂。

自ら自分を変えようという積極的な意思はかけらもなく、ただ男の好き放題に呑み込まれるだけの貞子だが、それゆえ、多くの修羅場を切り抜け、ほんの少しの強さを身につける。夫には絶対服従だった貞子が、夜中にザッザッと編み機を動かす。「うるさい」と言われても動かす。「子どもの学費がいりますから」と初めて口答えする。そのほんの少しの第一歩は貞子をこれからどう変えていくのか、彼女の後ろ姿に思いを馳せる、秀逸なラストシーンだ。

アラキメンタリ

2008-04-12 | 日本映画(あ行)
★★★ 2004年/アメリカ 監督/トラヴィス・クローゼ
「ドキュメンタリー以前」



若い外国人監督と言うことで、ほとんどアラーキーの紹介に終始していて、ファンとしては目新しいことがなく、ちょっと残念な作品。外国人の目から見た、日本的エロスの代表者なんでしょう、アラーキーは。ゆえに緊縛などのヌード写真の様子をメインに展開している。が、しかし、緊縛写真だけで荒木を語ることができないのは、ファンなら誰しも知っていることで、確かに陽子夫人の話やその他の写真も展開されているが、全体的には女性の局部の残像だけが残ってしまった感じだ。もう少し、違う切り口があっただろうに。

例えば、女性の緊縛写真を海外で発表する際、フェミニズムの観点から「こんな写真は展示できない」と拒否されることがあると言う。その摩擦はなぜ起きるのか。海外に向けて荒木というカメラマンを紹介するには格好の材料だと思うのだけど。なぜ、荒木の前で女たちは何もかもさらけ出すのか。見た目ただのエロ爺にしか見えない荒木をなぜみんなはモンスターと恐れるのか。ネタはいっぱい転がってるのに、ただ撮影風景と関係者のインタビューをダラダラと撮っているだけなんだなあ。これは、ドキュメンタリーと言うよりも、もっと前段階のフィルムですよ…

ダイアン・アーバスを見たばかりなので、ちょっとその観点で。フリークスを撮影したいという衝動に逆らえなくなったダイアンを夫のアランは理解できなかった。ダイアンはその後離婚し、48歳という若さで自殺している。一方、女性の裸を追い求め、局部にまで迫る荒木を、陽子夫人は理解した。いや、彼女こそ、最大の理解者であった。赤裸々なセックスの写真も含む新婚旅行での日々を撮った写真集を当時電通に勤めていた陽子夫人は自ら売り込んでいたと言う。(このエピソードは本作の中で荒木自身の口から語られていて、こういう部分をもっと突っ込めなかったかなあ、と思う)

やっぱり、自分の傍に理解者がいるかどうかということは、表現者の生き方に大きな影響を及ぼすんだなあ。だって、アラーキーはどこに行っても歓迎され、多くの人に愛され、陽気にふるまう。きっと、それは陽子夫人が彼を理解し、彼に大きな自信を与えていたからだと思う。というわけで、作品が今イチだったので、今から「センチメンタルな旅」でも見て気分を盛り上げるのだ。

犬神家の一族

2008-04-11 | 日本映画(あ行)
★★★★★ 1976年/日本 監督/市川崑
「全てはここから始まった」



横溝作品の映画化が大成功を収めた一番大きな要因は、市川崑の「様式美」が持ち込まれたことだ。横溝作品に美しさがないということはないが、作品に「品格」を与えるような美しさが生まれたのは、やはり市川監督の手腕に他ならない。その「様式美」を成すのは市川流の流麗なカメラワーク。そして、古い日本建築の徹底的なこだわりようだ。犬神家では、壮大なお屋敷の中の襖絵や金屏風、古びた商人宿の柱時計に至るまで戦後の日本が美しく再現されている。超都会っ子の小学生の私にとっては、横溝+市川版は一種のファンタジー映画だった。その完璧なまでの世界観は、ありえない世界。おとぎ話だったのだ。

そして、原作よりもコミカルな部分が多いこと。原作において、喜劇的な側面はほとんど金田一耕助がひとりで担っている。しかし、映画では「よーし、わかった!」の名ゼリフの橘警部を演じる加藤武を始め、三木のり平や坂口良子といったメンバーがそこかしこで軽妙なムードを作り出す。それは、おどろおどろしい殺人事件と絶妙な緩急を作り出している。そして、ルパンシリーズで有名な大野雄二の音楽が、実に現代的でいい。

こうした、現代にマッチさせるための工夫がある一方で、市川監督は本シリーズに横溝作品における大切なモチーフを、より増幅させて表現している。それは「哀切」のムードだ。最も代表的なのは、ラストの金田一の別れのシーンだろう。「見送られるのは苦手なんです」と事件現場を去る金田一の後ろ姿に、事件のやるせなさが余韻としてじんわりと残る。このラストの切なさこそ、金田一シリーズの肝になった。犯人松子を殺人に駆り立てていたのは、佐兵衛翁の怨念ではないか、という含みも実は映画独自の解釈なのだが、これまた悲しき殺人者像を作り上げるすばらしいアイデアであったと思う。

何度も見てもラストまでぐいぐい引っ張る。横溝作品に限らず、あらゆるミステリーにおいて真犯人の独白は、この上ないカタルシスを見る者に与えるが、本作においては高峰三枝子の熱演が光る。最初は金田一の来訪にも堂々とふるまっていた松子。が、観念して静馬殺害を告白し回想シーンの後、アップに切り替わった時の、あの魂が抜けたような表情。本作以降、殺人犯こそ、女優としての気概を見せる格好の役どころになった。これまた、実に画期的な出来事だったのではないだろうか。

ラッキーナンバー7

2008-04-08 | 外国映画(や・ら・わ行)
★★★☆ 2005年/アメリカ 監督/ポール・マクギガン
「どんでん返しと言うほどでも…」


あんまり「大どんでん返し」ばかりを宣伝文句にしちゃうと、おもしろい映画も見方が変わって来ちゃう。そんなことを本作でしみじみ感じました。というのも、どんな大どんでん返しが行われるのか、そこばっか気になっちゃって。やっぱりストーリーそのものに興味をそそられて、見るべきなんですよね、映画って。

本作で言えば、ニックという男に間違われたことで2つのマフィアから目を付けられてしまう男、スレヴンの物語。そこに、なぜかグッドキャットと呼ばれる殺し屋の影がちらつく。一体彼は誰の味方なのか、そしてスレヴンはこの危機をどう脱することができるのか…と言ったところでしょうか。

時折挿入されるフラッシュバックの映像をヒントに、振り回されながらも何か企みがありそうなスレヴンの真意を読み取る作業はなかなか楽しい。映像もとてもスタイリッシュで、マフィアが潜むホテルやニックのアパートなど、ニューヨークらしいオシャレな建築物も全体の雰囲気とぴったり合ってる。

ただね、私はだいぶ前からオチが何となくわかってしまいました。だけども、件の「大どんでん返し」が頭にこびりついていたため、まさか私の予想通りではないだろうと、もっともっと裏をかいたオチがあるんだろうと思っていたのですが…果たして予想通りでした(悲)。というわけで、あまり深く考えずに見るのが正解かと。

それにしても、ルーシー・リュウってアジア人で若く見えるからなのか、実年齢より若そうな役が回ってきて、結構おいしいポジションですね。

毛皮のエロス

2008-04-08 | 外国映画(か行)
★★★★ 2006年/アメリカ 監督/スティーヴン・シャインバーグ
「アーティストが目覚める時」


「写真」ほど、「自己」と「対象物」の関係性がシビアなメディアはないと思う。確かに映像の世界も、映すモノがあってこそ成り立つものだけれど、カメラのシャッターを切ると言う行為は、その「一瞬を切り取る」ということ。それは、映すモノがそれでなければならぬ必然性、その瞬間でなければならない必然性がある。この作品は、ダイアンの自己開放の物語であると同時に、カメラマンという人種が撮りたいものをどう捉え、どの瞬間に撮る決意に至るのかを示している。つまり、本作の主人公ダイアン・アーバスその人もその作品もかなり特異ではあるが、撮るに至るプロセスは全てのカメラマンも彼女と同じであると私は思う。

ダイアン・アーバスは撮影前には彼らとベッドを共にすることもあったと聞いたことがある。本作では、ダイアンにとっての「対象物」が彼らでなくてはならない理由が紐解かれていくが、そのベースにあるのは「好奇心」と「自己開放」。ダイアンは元々持っていた自己顕示欲をいいところのお嬢さんであったため、満足させることができなかった。それが多毛症の男との出会いから一気に開放されていく。彼らの前ではダイアンは自分らしくいられた。夫のことも娘のことも忘れてのめりこむ様子は、まさにひとりのアーティストの目覚めのプロセス。有名なドイツ映画で「フリークス」という作品があるが、彼らのような障害を抱えた人たちを神の子と捉える人もいる。対して、ダイアンにとっての彼らは、自分が自分でいるための存在。自分が生きるために必要不可欠な存在ではなかったのだろうか。

しかしながら、本作は実話に基づいたものではないと言っている。夫と共に広告写真を撮っていたことなど、取り巻く環境のある程度は事実に基づいているけれども、まさにこの作品のモチーフである「目覚め」については完全にフィクションである、と。しかし、ダイアン・アーバスの人生と作品が観るものの様々なイマジネーションを掻き立てるものであったからこそ、このような作品が生まれたと言える。私は仕事でいろんなカメラマンさんとご一緒するのだが、「撮る」という行為は、実にストイックだと思う。対象物が自分の撮りたいものであればあるほど、自分の身も心も削られていくよう。本作は、ダイアン・アーバスをニコール・キッドマンという有名女優が演じたことで、写真に興味のない方でも本作を観るきっかけができた。それは、新しい世界への誘いとして実に意義あることだと思う。

あの子を探して

2008-04-07 | 外国映画(あ行)
★★★☆ 1995年/中国  監督/チャン・イーモウ
「どこまで素直に受け止めていいか、わからない」


過疎の村の小学校の代用教員になった13歳の少女ウェイは、1ヶ月間生徒が誰ひとり学校を辞めなかったら50元もらえるということで、授業もそっちのけでひたすら生徒たちの監視を続けていく。そんなある日、クラスのひとりホエクーが、出稼ぎに行ってしまった。ウェイはチャンを探しに町へ赴くのだが…。

これほど、感想を書くのが難しい作品は未だかつてないかも。なぜなら、セミ・ドキュメンタリーという構成は、どこまでが現実でどこからが虚構なのか、わからなくなってしまうからだ。表向きは感動作品であり、もちろん、このまま素直に受け止めればいい。ラストの黒板のシーンなんて、とっても美しくて思わず泣けてきた。ところが、このシーンにとあるナレーションがかぶさって、一気に私の涙が止まる。それは、ウェイがテレビに出たことによって、これこれの寄付があり、そのお金をこのように使いました、と言う内容のものなのだ。

ホエクーが出稼ぎに出かけ、必至にウェイが街で彼を捜し、テレビで涙の訴えをする。それらは、私はあくまでも素人の子供たちを使った架空の物語だと思っていた。もちろん、この物語の背景である中国や抱える教育問題は事実なんだろうと思う。過疎で貧しい子供たちが直面している現実。それこそがこの作品の訴えたいことであろう。しかしながら、この物語がきちんとした脚本に基づいたものだとしたら、この寄付をした人はいっぱい食わされたということにならないだろうか。

それとも、ウェイが代用教員になったことも、ホエクーが出稼ぎに出かけたことも、事実なの?だったら、寄付の話も納得できるんだけど。本作、メイキングが出ているらしいので、この疑問もそれを見ればわかることなのかも知れない。でも、メイキングを見ないとはっきりとした感想が書けない作品って、どうも納得できない。だから、セミ・ドキュメンタリーという作風は感想が書きづらいのだ。

出てくる大人が、子供たち対して冷たい。これにしても、本当にそういう反応だったのか、それともイーモウ監督の演出なのか。どちらかによって、私の感想も変わってくる。ああ、ややこしい。

子供たちの生き生きとした様子は見ていて気持ちよかった。貧しいながらも女の子たちが来ている洋服がかわいくてね。やっぱり女の子だから赤い色の洋服が多くて、それが村の景色と相まってすごくきれいに見える。ホエクーに勉強をさせたいわけじゃなくて、ただお金が欲しいから探しに行くんだって言う動機も実に子どもらしくていいなと思う。ウェイという女の子の性格は、とても頑固なのよね。融通が効かないの。いつもぶすっとしているし。その辺は妙なヒューマニズムを持ち込んでなくて、とてもいいと思う。ラストに向けて「いい話だなあ」とじわ~んとしていただけに、なんで最後の最後になって現実に戻すようなナレーションを入れたのか、本当に合点がいかない。

潜水服は蝶の夢を見る

2008-04-06 | 外国映画(さ行)
★★★★ 2008年/フランス・アメリカ 監督/ジュリアン・シュナーベル
<京都シネマにて観賞>
「蜜を吸えない蝶の哀しみ」


突然倒れて、病院で一命を取り留め、片目でまばたきするしかないという悲惨な状況に陥ったジャン・ドゥ。しかし、彼のモノローグが、関西弁で言うところの「ぼやき」に近いモノがあって、何だかコミカルな雰囲気が漂います。また、ジャンの目線で描くことによって、病院関係者があの手この手で世話をするのも、ありがた迷惑のようにすら見えます。これだけ気の毒な病状だと、普通はかわいそうだと同情を誘うような演出にするんでしょうけど、全然そんなことはないのです。

ずっと映像は、ジャンの片目が捉えたものです。そして物語も中盤にさしかかった頃、ようやくジャンの状態が顕わになります。唇が歪み、目を剥いた彼の姿は、我々をぎょっとさせますが、ここで観客の視点が転換します。つまり前半は、ジャンの立場で周りの人々をとらえ、このシーンからはジャンを取り囲むひとりの人間としての視点に切り替わるのです。本来ならば死に至るような発作を起こした人が、実に体の不自由な状態となって命を取り留めたこと。それは、本人にとってどういうことか、周囲の人間にとってどういうことか。観客が両方の視点からいろいろと思いを馳せることができる。だから、観た後に何度も思い起こして、あれこれと思いふけることができるのではないでしょうか。

さて、ジャンの周りには、美人ばかり集まってきます。言語療法士、理学療法士、別れた内縁の妻、まばたきを読み取る秘書。あまりにもみなさんとびきりの美人なので、これは明らかに何か意図があるのではないか、と思いました。それは、タイトルにある「蝶」です。潜水服に身を包んだような何もできない自分を蝶に見立てる。だとすれば、周りの美女は「花」ではないでしょうか。蝶は花から花へと飛んでゆきます。彼の視線が常に彼女たちの美しい足元や胸元に伸びていることを思えば、そんな想像も膨らみます。しかし、ジャンは決して美しい花を愛でることはできない。そこに、「男」としての根源的な欲求を満たせぬ哀しみを私は感じ取ってしまいました。

自由な自分を想像する時によく出てくるイメージは「鳥」なのですけど、この「蝶」に例えるあたりが、なんともたおやかで優雅でフランス映画(資本はアメリカですが)らしいなと思うのです。尽くして看護してくれる妻がいるのに、愛人への未練が断ち切れないジャンの身勝手さなんかもね。「本」という形あるものを残したことに意義はあるのでしょうが、ジャンにとっては耐え難き苦悩ばかりの日々だったように思います。それにしても、まばたきを読み取る周囲の人物の忍耐強さには頭が下がります。果たして、私にできるだろうかと考えてしまいました。結局を死を目の間にした人を描く、ということは、それを周りの人々がどう受け止めるのか、どう受け入れるのかを描くことなのだと痛感したのです。

にっぽん昆虫記

2008-04-05 | 日本映画(な行)
★★★★★ 1963年/日本 監督/今村昌平
「力強く、美しいショットの数々。傑作」

<このジャケット、めちゃかっこいいぞ>


私は今村作品が好きだ。生身の人間を真正面から捉え、エロティックに、滑稽に、人間の“欲”や“業”を貪欲に突き詰めて描く。しかし、久しぶりに「にっぽん昆虫記」を見直してみて驚いたのは、そのエネルギッシュあふれる演出よりも、構図の美しさだった。

天井からぶら下がる縄に必至にしがみつき、苦痛に顔を歪める出産間近の女を俯瞰で捉えるショット。工場の裏の茂みでトメを手籠めにする課長を捉える地面すれすれのショット。汗だくになって裸で抱き合う信子と情夫を枕元から捉えるアップのショット。数え出すときりがないのだが、こりゃかっこいいやと思う印象的なショットが本当に多いのだ。ますます、他の作品も見直したい気分が湧いてくる。

物語は、「とめ」という東北の農村に生まれた女の波瀾万丈の一生を描く。(前半部はあまりに方言がきついので、何を言っているのかわからないセリフ多数)「とめ」を演じるのは左幸子。10代と思しきおぼこい田舎娘の女工から、コールガールを取り仕切るやり手ババアになるまでを迫真の演技で魅せる。左幸子以外にも、佐々木すみ江、春川ますみ、北林谷栄と最強メンバーが連なる。まあ、どの女優陣もふてぶてしいことこの上ない。

戦後の東京の猥雑なムードも十分面白いのだが、やはり前半の農村での暮らしぶりのインパクトには負ける。じめじめした閉鎖社会、男尊女卑、農民的いじけ根性が満載で、そこに潜むあらゆる差別は、現代日本人のメンタリティにも少なからず潜んでいる。娘とめがあふれ出る母乳を田んぼのあぜ道で父に吸わせるような描写も実に今村昌平らしい。

さて、この作品を紹介するにあたり「戦中・戦後を生きた女の人生をエネルギッシュに描く」と言う言葉が最も使いやすい文面だろうと思う。しかし、私はエネルギッシュに描くとは書けない。なぜなら、とめの人生は悲惨極まりないからだ。突然奉公に出され、父なし子を孕まされ、働き先の工場の課長にも手籠めにされ、人生を変えるべく東京に出てきたら一杯食わされて売春させられ、辿り着いたのはコールガールの元締め。つまり、人生のほとんどがセックスの強要なのだ。強姦と言ってもいい。しかし、悲しいかな、この時代こういう女はたくさんいた。そう思うと、今を生きる私はこの物語をどう咀嚼したら良いのか、途方に暮れる。

しかし、「にっぽん昆虫記」と言うタイトルからもわかる通り、本作はとめの人生を昆虫観察のごとき客観性で眺めた映画だ。これだけの目にあった女を「昆虫」と見立てる。その発想と勇気こそが、本作品の面白さであることに間違いはない。この客観性がとめの人生を一方的に「悲惨だ」「かわいそうだ」と情緒的に感情移入することを阻む。そうすると、とめの「今を生きる」という生き様だけが迫ってくる。男や社会に裏切られ、川の流れに身を任せるような人生であっても、そこに「とめと言うひとりの女が生きた」という事実がしっかりと我々の脳裏に刻み込まれるのだ。


ビッグ・リバー

2008-04-05 | 外国映画(は行)
★★★★ 2003年/アメリカ 監督/舩橋淳
「どこまでも高いアメリカの空」


何も起きない淡々と流れる映画といろいろ聞いていたのですけど、
いや、これがね、意外と良かったんだな。

砂漠のど真ん中、まっすぐに進む道。時折見えるのは、巨大な岩だけのアメリカの大地。こういう景色を舞台にしたロードムービーは多い。しかし、撮る人間によってこうも印象を変えるものなのかとこの作品を通じて再確認できた。例えば「イージーライダー」ならワイルドで荒くれたイメージ、「バグダッド・カフェ」なら憂いのイメージ。本作では、この広大な景色に私はアメリカの「包容力」を感じた。小さな摩擦を起こしながらもほんのひと時の旅を続ける3人をすっぽりと包む込むアメリカの大地。

構図も非常に計算されていると思う。狙ったショットが多い。そこが、ジャームッシュもどきと感じてしまう方はダメなのかも。でもね、私はとても気持ちよく受け止めることができた。たぶん、それは高い高いアメリカの空のせい。そして、常にシンプルである続ける絵の美しさ。車のボンネットに座る3人と青空。画面の中にそれしかない。そんな最小限の情報しか存在しない映像がやけに心地いい。

「袖振り合うも多生の縁」。バックパックで旅した私にも経験がある。旅が終われば二度と会うことはない、そんな人たちとのひと時の邂逅。それらは、後で思い出すとやたらにセンチメンタル。そして、彼らを思い出す時には、必ず出会った場所も同時に思い出す。哲平がサラを思い出す時、そこには必ずアメリカの大地のぬくもりが伴うだろう。舩橋監督は、アメリカで映画を学んだ方のようだが、アメリカに対する温かい目のようなものを私は感じた。

さて、白人の金髪女性とベッドシーンを演じられる日本人の俳優は、今のところオダギリジョーしかいないんじゃないでしょうか。渡辺謙や真田広之のような「私はニッポン代表です!」みたいな看板しょってる俳優はまず無理ではないかと。「ニッポン」という記号性と金髪美女の組み合わせは、どうしても滑稽に見えるんですよ、悲しいかな。でも、オダギリジョーの無国籍なイメージは、「ニッポン」という看板を観客に忘れさせる。これは、海外作品に出るにあたり、大きなメリットだと思う。ぜひまた海外作品にもチャレンジして欲しい。金髪美女を振り回すなんてカッコ良すぎるよ、オダギリくん。

シカゴ

2008-04-04 | 外国映画(さ行)
★★★★ 2003年/アメリカ 監督/ロブ・マーシャル
「ナイスバディに酔う」


俳優の惜しみない努力を当然と見るハリウッドに感服。それはもちろん、キャサリン・ゼタ・ジョーンズとレニー・ゼルウィガー、ご両人のこと。役作りのためにサーフィン習いました、とか、病院実習行きました、なんてのが子どもの戯れ言に聞こえる。いや、それはもちろん努力しないよりした方がいいに決まっているのだけれどね。キャサリンの見事な開脚、レニーのお尻ぷりっぷりのキャットウォーク。一体、彼女たちはどれほどの努力をしたのでしょうか。見上げたプロ根性です。そして、脇を固める超ナイスバディなダンサーたち。女のアタシもクラックラ来ちゃいました。

「ドリーム・ガールズ」のビル・コンドンが脚本担当ですが、やはりこの人は通常の演技の部分とミュージカルシーンの境目、つまり歌への導入部分が実にスムーズに行くよう配慮しているのだというのがよくわかる。よって、私のようなミュージカル嫌いでも存分に楽しめる。ミュージカルの何がイヤって、突然歌い出すあの感じなの。でも、ストーリー全体の流れからミュージカルシーンが浮いてない。流れを大事にした上で、もっともっとスピード感を出そうと試みたのが「ドリーム・ガールズ」なんでしょう。しかし、冒頭においては「シカゴ」の勝ち。遅れてきた主役キャサリン・ゼタ・ジョーンズが楽屋で慌ただしく衣装を身につけ、手に付いた血を拭いて、いきなりセクシーなダンスで舞台に登場。歌い終わると、即殺人犯で刑務所送り。ぼーっとしてると置いてけぼりをくらいそうな実に鮮やかなプロローグです。

「シカゴ」は文字通りシカゴ、「ドリーム・ガールズ」はデトロイト、そしてただ今公開中の「ヘアスプレー」はボルチモア。昨今のアメリカのミュージカルムービーは、地方都市らしさというのを存分に映し出しているのが特徴。「シカゴ」では禁酒法の話題はちらっとしか登場しないけど、むせかえるタバコの煙に包まれたキャバレーとショーガールたちのエロティックなコスチュームから、時代の空気がぷんぷん匂う。セットや小道具など、当時を彷彿させるこれぞプロ!と呼ぶべき作り込みもまた、観客を物語へぐいぐい引き込む大きな要因になっているのは間違いないだろうと思う。


サンシャイン2057

2008-04-04 | 外国映画(さ行)
★★★★ 2006年/イギリス 監督/ダニー・ボイル
「かなり抑制されたSF作品」

なぜか「中庸」という言葉を思い浮かべてしまった。SF大作と聞いてまず想像するのは壮大な物語とダイナミックな宇宙の映像だろう。しかし、本作品は、そのいずれもが抑制の効いた見せ方になっている。なるほど。映画館に見に行った方々の評価が芳しくなかったのもうなずける。シネコンにSF大作を見に行く人が期待するものを満足させてくれるものは、ここにはないかも知れない。

でも、私はそれなりに面白かった。それは、SFアドベンチャー的要素を過剰に盛り込まない行為、すなわち観客への裏切りを楽しむことができたから。まず本作、クルーをちゃんと紹介してくれない。宇宙船という閉じた空間で起きる人間ドラマ。ならば、まずはメンバー紹介をしてくれないとわからんではないか。なのに、物語はどんどん進む(笑)。しかも、イカロス1号はすでに行方不明になっているなど、まるで途中から見始めたような錯覚を覚える。ものすごく説明不足なのだ。これでつまずく人は正直多いかも知れない。しかし、私は、この語らなさは製作者の挑戦だと思って、そんなら受けて立つぞ、って気持ちになって一生懸命見てしまった。

「太陽の光に魅入られる」というコンセプトは、なかなか面白い。間近で見れば間違いなく視力を失う。なのにもっと近くで見たい、という欲求に逆らえないクルーたち。おそらくSFものって言うのは、宗教観とは切っても切れない。やっぱり宇宙に出ることは、神に触れることなのだろうし。でも、その宗教臭さの代わりに「太陽光」への畏敬の念をもってきた。それはなかなか新しい視点じゃないだろうか。

クルーが一人ずついなくなってしまう。まあ、ちょっと予測できる展開ではあるけど、最終的に核弾頭を投げ込む人物をヒーローにおだてあげたりしないのは好感が持てる。しかし、クルー同士の信頼や裏切りといった部分にもう少しドラマ性が欲しい。まあ、いろんな意味で裏切られる映画。そこを楽しめるかどうかですね。そして、全体的にとても地味なトーンなのに、船外で着る宇宙服だけが、目もくらむばかりのピッカピカの黄金宇宙服。これまた、妙な残像。


ピンポン

2008-04-03 | 日本映画(は行)
2002年/日本 監督/曽利文彦 
「みんな、みんな、輝いている」


マンガ的キャラの弾けっぷりとガンガンに攻め立てるノリの良さに反して感じるこの切なさは何だろう。「あんな時もあった」…誰もが感じる青春の輝かしい時。それを我が身に置き換えているからだろうか。もちろん、それもある。しかし、理由は他にある。それは、全ての役者たちがみんな輝いているからだ。まぶしいくらいに輝いているから、切ない。

20代の役者としての輝きは、ある意味その役者人生の中で最も美しい時代と言えるのではないか。窪塚洋介の役者としての資質は変わっていないけど、もうあのペコを演じることはきっとできない。中村獅童も、大倉孝二 も、ARATAも。この作品は、彼ら若手の役者陣がいちばん輝いていた時と見事に一致した。その偶然性が奇妙なノスタルジーを呼び起こす。

ペコ演じる窪塚洋介のすさまじいまでのパワーが他の役者陣を引っ張っていく。「俺も乗せてくれ」ドラゴンのセリフは、この作品そのものにも通じる。みんな窪塚洋介に乗って、高く高く飛んだのだ。今にも暴走しそうな役者陣をまとめあげ、スピード感いっぱいの演出と、迫力あるVFXを駆使した曽利監督の手腕はお見事。それぞれの名前からシンボライズした星と月のアイコンの使い方もカッコイイし、SUPARCARの音楽も最高にイカしてる。乱立する漫画の映画化作品の中で、間違いなく抜きんでた1本だと思う。

くりぃむレモン

2008-04-02 | 日本映画(か行)
★★★★☆ 2004年/日本 監督/山下敦宏
「実にセリフが少ない。それがとてもいい」


兄と妹から男と女になって、心と体を通わせる。今まで蓋をしていた感情が開放され、24時間裸で抱き合っていたいという思いで心がいっぱいになる。いやあ、甘酸っぱいですね。「兄と妹の恋」という言葉から連想されるアブノーマルな香りは全然ありません。むしろ、非常にセリフの少ない、やけに落ち着いた雰囲気の作品でじっくりと鑑賞してしまいました。特に妹の亜美の口数の少なさが際だっていて、時折ぽつんとつぶやく言葉の中に様々な感情を読み取ってしまう。セリフが少ないことで、ふたりの言葉に出せない「もやもや」もより伝わってくる。

そして、ゆったりとしたカメラの動きが印象的。スクリーンの左右を上手に使って、空間を作り出す。部屋の中でゆっくりカメラを回して、余韻を出す。それらは取り立ててすごいテクニックというわけではなく、おそらく映画作りにおける基本的な空間演出なのだろうけど、セリフが少なくて静かな映画なのでとても効果的に見えます。

で、これまた、「ダメ男」の映画ですけども、このおにいちゃんは、妹が好きで好きでたまんないってのを全面に出してていいですね。憎めません。水橋研二くん、最近観ませんけど、どうしているんでしょう。それから山下監督は、ラストカットがうまいです。本作も、なかなか素敵です。ラストをどうするかって、物語が波瀾万丈な方がイージーだと思うんです。反して、この作品はふたりがどうなるってのを完結させるわけでもなく、ぶっちゃけ物語は途中で切れちゃうわけですが、それでもこのラストシーンの甘酸っぱいような、清々しいような気分は何でしょう。引き際が上手なんだな、山下監督は。

バンテージ・ポイント

2008-04-01 | 外国映画(は行)
★★★★ 2008年/アメリカ 監督/ピート・トラヴィス
<TOHOシネマズ梅田にて観賞>
「90分にぎゅっと凝縮」


こういう手が込んだ作品、結構好きですね。しかも、上映時間が90分程度とコンパクトなのがとてもいい。最近、無駄に長い映画多いですからね。ここは、ワタシすごく評価高いです。逆回しという手法に溺れず、しっかりと誰もが納得できる結論にまとめあげた手腕も見事。非常にすっきりとして良い脚本ではないでしょうか。

テキパキとカメラワークを指示するテレビ局のプロデューサー、シガニー・ウィーバーのシーンから始まるのですけど、あのカメラを何度も切り替えるリズミカルな展開がそのまま作品のスピードに繋がっているんですよね。これは、まるでオートバイの発進みたいです。1速からエンジン全開。2速、3速とギアをあげていくんですが、その度に主人公が変わる。それで、何度も逆回しがあって、いいかげん飽きたなって頃に、一回物語をひっくり返すんです。これが巧い。普通、ひっくり返すというのは、ラストに持っていきたいところなんですけど、これで一度観客は目が覚めるわけです。ラストは、ゴールまで直線コースをアクセル全開。

このカーチェイスのシーンも非常にダイナミックでハラハラします。ヨーロッパの石畳を車で追いかけっこするというのは、最近のハリウッド作品でよく見かけますが、「ナショナル・トレジャー」よりも断然興奮しました。それにしても、何台車を壊したんだろう…。

舞台にスペインのサラマンカという街をチョイスしたのも、とても良かったんじゃないかと思います。というのも、何度も逆回しをするという手法上、しつこく街並みが映ります。特にメイン会場を捉えたロングショットは毎回登場しますが、不思議と飽きないのです。みんながよく知っているヨーロッパの都市ならば、このしつこい逆回しも手伝って、見ていて飽きてしまったんじゃないでしょうか。赤茶けたシックな石造りの街並みが気ぜわしさを緩和しているような気がしました。

見終わってあれこれ考えるという類の作品ではないですが、観客の興味をとらえて離さないということで、かなりのクオリティ。面白いから見て!と誰にでもオススメできる作品だと思います。