『ガラスの動物園』 テネシー・ウィリアムズ著 小田島雄志訳
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読んだのはちょっと前ですが。再読です。
舞台は1930年代、セントルイスのスラムに住むウィングフィールドという一家の悲しい物語。
『去年の夏突然に』と並んでウィリアムズ作品の中でも自伝的傾向が強い戯曲といわれてるけど、最初読んだときはまだ十代のぐりにはこの話の悲しさがもうひとつぴんとこなかった。でもさすがに今はわかる。大恐慌時代のアメリカで父親が家出した一家の抱えた経済的窮乏、封建的な階級社会への憧れを捨てられない非現実的な母親と、定職もなく精神的にも問題のある姉の生活をひとりで支える青年の苦悩と絶望の深さは、ただ想像するだけで充分にせつない。
“ガラスの動物園”とは、脚に軽い障害を持つ姉ローラのガラス細工の動物のコレクションのこと。
彼女は誰もろくに気づかないほどの障害を気に病んで家にひきこもり、友だちもなく恋人もなく、てのひらにおさまるようなちっぽけなガラクタ相手に孤独な日々を暮す哀れな女性である。
自伝的ともいわれるこの物語の中で、南部の上流階級出身の母親アマンダや文学者志望の青年トムはもろに著者とその母親をモデルにしているが、ローラは著者の姉ローズをストレートに投影したキャラクターにはなっていない。ローズはガラス細工を集めてはいなかったし、身体障害者でもなかった。
それでもこの物語の根幹をなす“家族を捨てた青年の悔恨”という暗く重い感情がまっすぐに彼女を照らしているのは(ト書きには彼女にスポットライトをあてる演出が頻出する)、著者ウィリアムズ自身が姉を救えなかったことで自分をひどく責めていたからだろう。ローズはウィリアムズが転地療養で実家を離れていた間に両親の同意でロボトミー手術を受けて失敗し、廃人同様になってしまったのだ。
劇中で著者=語り手=トムのローラへの視線は憐れみと同様に厳しさも滲んでいる。誰にも彼女を救えないならば、どうにでもして彼女自ら運命を抜け出してほしかった、そんな悲鳴のような訴えが、トムが犯した仕打ちに反映されているようにも思える。
どんなに愛しあい求めあっていても理解しあえない家族に渦巻く懊悩と、狭い家の中に立ちはだかる心の壁の厚さと高さの悲しみ。
わかりたい、わかるはず、わかっているはずという家族ゆえの甘えが彼らを三者三様に苦しめる。
3人の苦しみは客観的にみればとるに足らない些細なものだ。母親は上流指向を棄てて、ローラは外の世界に目を向け、トムはもっと家族を思いやればいい。大したことじゃない、誰にでもできる、ちょっとした視点の転換だけで済むはずだ。背後にドアはあるのに、3人とも三方の壁に突き当たっては嘆いてばかりいる。立ち止まって振り向いてみればいいだけのことなのに。
ところが貧困と無知がそれをさせない。今の生活から抜け出したい、こんなのは自分の人生じゃない、現実をみるのが怖いという逃避願望が3人の目を晦ませ、よりつらい迷宮へと一家を追いたててしまう。
でもウィングフィールド家がとくに不運だったわけでもないし、同じように人知れず終わりのない地獄を味わっている一家は今も世界中のどこにでもいるだろう。もちろんこの日本にも。
ひさびさ読んで感動したので、今度は『欲望という名の電車』も再読してます。
『去年の夏突然に』も読みたいけど、邦訳は出てないんだよね。映画の方はこんどDVDが再発するらしーので観てみます。
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読んだのはちょっと前ですが。再読です。
舞台は1930年代、セントルイスのスラムに住むウィングフィールドという一家の悲しい物語。
『去年の夏突然に』と並んでウィリアムズ作品の中でも自伝的傾向が強い戯曲といわれてるけど、最初読んだときはまだ十代のぐりにはこの話の悲しさがもうひとつぴんとこなかった。でもさすがに今はわかる。大恐慌時代のアメリカで父親が家出した一家の抱えた経済的窮乏、封建的な階級社会への憧れを捨てられない非現実的な母親と、定職もなく精神的にも問題のある姉の生活をひとりで支える青年の苦悩と絶望の深さは、ただ想像するだけで充分にせつない。
“ガラスの動物園”とは、脚に軽い障害を持つ姉ローラのガラス細工の動物のコレクションのこと。
彼女は誰もろくに気づかないほどの障害を気に病んで家にひきこもり、友だちもなく恋人もなく、てのひらにおさまるようなちっぽけなガラクタ相手に孤独な日々を暮す哀れな女性である。
自伝的ともいわれるこの物語の中で、南部の上流階級出身の母親アマンダや文学者志望の青年トムはもろに著者とその母親をモデルにしているが、ローラは著者の姉ローズをストレートに投影したキャラクターにはなっていない。ローズはガラス細工を集めてはいなかったし、身体障害者でもなかった。
それでもこの物語の根幹をなす“家族を捨てた青年の悔恨”という暗く重い感情がまっすぐに彼女を照らしているのは(ト書きには彼女にスポットライトをあてる演出が頻出する)、著者ウィリアムズ自身が姉を救えなかったことで自分をひどく責めていたからだろう。ローズはウィリアムズが転地療養で実家を離れていた間に両親の同意でロボトミー手術を受けて失敗し、廃人同様になってしまったのだ。
劇中で著者=語り手=トムのローラへの視線は憐れみと同様に厳しさも滲んでいる。誰にも彼女を救えないならば、どうにでもして彼女自ら運命を抜け出してほしかった、そんな悲鳴のような訴えが、トムが犯した仕打ちに反映されているようにも思える。
どんなに愛しあい求めあっていても理解しあえない家族に渦巻く懊悩と、狭い家の中に立ちはだかる心の壁の厚さと高さの悲しみ。
わかりたい、わかるはず、わかっているはずという家族ゆえの甘えが彼らを三者三様に苦しめる。
3人の苦しみは客観的にみればとるに足らない些細なものだ。母親は上流指向を棄てて、ローラは外の世界に目を向け、トムはもっと家族を思いやればいい。大したことじゃない、誰にでもできる、ちょっとした視点の転換だけで済むはずだ。背後にドアはあるのに、3人とも三方の壁に突き当たっては嘆いてばかりいる。立ち止まって振り向いてみればいいだけのことなのに。
ところが貧困と無知がそれをさせない。今の生活から抜け出したい、こんなのは自分の人生じゃない、現実をみるのが怖いという逃避願望が3人の目を晦ませ、よりつらい迷宮へと一家を追いたててしまう。
でもウィングフィールド家がとくに不運だったわけでもないし、同じように人知れず終わりのない地獄を味わっている一家は今も世界中のどこにでもいるだろう。もちろんこの日本にも。
ひさびさ読んで感動したので、今度は『欲望という名の電車』も再読してます。
『去年の夏突然に』も読みたいけど、邦訳は出てないんだよね。映画の方はこんどDVDが再発するらしーので観てみます。