落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

極楽通りにて

2007年02月21日 | book
『欲望という名の電車』 テネシー・ウィリアムズ著 小田島雄志訳
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『ガラスの動物園』で1944年アメリカの演劇界に彗星のように現れたテネシー・ウィリアムズがその3年後に発表しピュリッツァー賞を受賞した不朽の名作。
舞台はニューオリンズ・フレンチクォーター。上流階級出身の若い主婦ステラを訪ねて姉のブランチが故郷ローレルからやってくる。酒と女とポーカーにしか興味のないステラの夫スタンリーとブランチの仲はしっくりいくはずもなく、また永く実家を離れていたステラにも姉の精神状態はつかみどころのないものだった。

再読です。最初に読んだのはやっぱり高校生のころ。
実はぐりはこの戯曲を映画でも舞台でも観たことがない。本でしか読んだことがない。あまりにもヒロインの人物造形が強烈で、ブランチというこの女性を生身の人間が演じているところを想像しにくい─というか、誰が演じても自分のイメージとあわないか、あるいはイメージにハマりすぎていて退屈しそうで怖い、という先入観を捨てきれない。機会があれば是非一度ブロードウェーで鑑賞してみたいものです。
『ガラスの動物園』や『去年の夏突然に』同様、この物語の悲劇もまた階級社会の崩壊と凋落、時代の流れに置き去りにされる女の不幸を描いている。
世界中の文学には階級社会の終末をテーマに採った作品が数限りなくあるが、ウィリアムズ作品はなかでも最も醜悪かつ悲惨な捉え方をした作家かもしれない。たとえばフィッツジェラルドやヘミングウェイやオースティンなど欧米の他作家たちがそれらを時代の転換期のひとつの情景とし、人の生をその情景の中の点としてあくまでセンチメンタルに描こうとしたのに対して、ウィリアムズはそれを時代の明らかな「死」としてはっきりと物語の前面に押し出している。その姿勢には、階級社会への複雑な愛憎と憐憫の情が伺えるのと同時に、時流に従順な社会の冷徹さも激しく糾弾しようとしているようにも感じさせる。社会から「過去」として黙殺される階級社会の人間に対する視線には、皮肉に満ちた厳しさとともに誰にも彼らを救うことのできない焦燥感が現れている気がする。

もうひとつこの作品でぐりがひっかかるのは、ブランチが少女時代に結婚/交際した若い恋人の存在。
アランというこの少年は文学者志向の秀才でまたたいへんな美少年でもあったという。ブランチは彼に夢中になるが、ある日アランが男と性的な行為に及んでいる現場を目撃し、それがもとで彼は自殺してしまう。同性愛者であったがゆえに死に至る劇中人物は『去年の夏~』にも登場し、その体験がヒロインの精神に致命的な打撃を与えるという展開も同じ、そしてその本人は物語の中では“過去の人”となっている点も同様である。
ウィリアムズ自身も同性愛者でありゲイバッシングの被害にも遭っているというが、彼が自作の中で同性愛者をあえて「大切な人にトラウマを植えつける人物」として描いたのはなぜなのか。まだ同性愛が市民権を得ていない時代、そのようなかたちでしか同性愛者を作中に登場させることができなかったからなのか、ではなぜそうまでして同性愛者を舞台に描かなくてはならなかったのか。

70年代ごろからブロードウェーでは数々の同性愛者が登場する演劇が上演されるようになり、いくつかは大ヒットし、映画やドラマにもなり海外でも演じられるようになった。『バードケージ』『トーチソング・トリロジー』『エンジェルス・イン・アメリカ』『蜘蛛女のキス』『ベント』『真夜中のパーティー』『ジェフリー!』『ボーイ・フロム・オズ』『滅びかけた人類、その愛の本質とは…』『ビクター/ビクトリア』『プロデューサーズ』 『レント』・・・。
そんなブロードウェーで古典ともなったウィリアムズ作品だが、これらの戯曲を上演し演じている演劇人からは同性愛者のアーティストとしてどうみられているのだろう。またウィリアムズ自身は、こうした時の流れをどう感じていたのだろうか。