『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』 アイリス・チャン著 巫召鴻訳
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4886836178&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
まず最初に断っておくが、ぐり自身はこの本に書かれた内容の真偽については何の意見も感想も持たない。
南京大虐殺、あるいは南京事件と呼ばれる出来事が事実であったかどうかという議論にも、正直いってあまり興味はない。
この本を読もうと思ったきっかけは、著者のアイリス・チャン氏がぐりとほとんど年齢的に同世代といっていいほど若く、しかもアメリカで生まれ育った華僑という、彼女個人の来歴による。
1997年にアメリカで出版された本書は世界中で異様なセンセーションを巻き起こした。日本では記事の真偽をめぐって激しい論争が起き、日本語版の出版は一旦中止に追いこまれた。今回読んだ邦訳は去年、原著の発表から10年も経って、当初版権を取得した出版社とは別な会社から出されたものである。
実際読んでみて、内容的にはさほど新鮮味は感じなかった。少なくとも、ぐりがもともと知識として知っていた南京大虐殺(あるいは南京事件)と、チャン氏が調べ上げた南京大虐殺(あるいは南京事件)の間にはそれほど誤差はない。分量からいえば大した本でもない。
読みながら、ぐりは自分がいつどこでこういう知識を得たのか、具体的に思いだそうとした。学校の授業で教わったのだとすれば小学校と中学校の歴史の時間だろう(高校では世界史選択だったので日中戦争よりもヨーロッパ線戦や太平洋戦争の方を詳しく習った)。あとはTVのドキュメンタリー番組や雑誌、戦争体験者の講演会や記録映画の上映会だと思う。そういう記憶は曖昧なのだが、自分ではそういった知識を特殊なものだと自覚したことはとくになかったし、高校時代くらいまでは常識だと思っていた。高校の同級生に南京大虐殺(あるいは南京事件)を題材にした絵や詩を書いていた友だちがいて、それを観たり読んだりする他の同級生たちもそれほどショックを受けたりしていた覚えはないから、ぐりの周りの似たような境遇の子たちにとっては、この本に書かれた程度の知識はやはり常識だったのではないかと思う。
だから、アイリス・チャン氏が1968年生まれの在米3世と知って驚いたのだ。なんでまた、そんなに若い人がわざわざこんな本を書かねばならなかったのかと。
著者はアメリカの哲学者ジョージ・サンタヤナの言葉を序文に引いている。
「過去を思いだせない者は、過去を繰り返すように運命づけられている」
この言葉を読んで、ぐりは映画『麦の穂をゆらす風』のケン・ローチ監督がカンヌ国際映画祭の授賞式で語った言葉を思いだした。
「過去について真実を語れたならば、私たちは現在についても真実を語ることができる」
繰り返しになるが、この本に書かれた内容には間違いがあるかもしれない。それがいったいいくつでどこがどう間違っていようが、ぐりはどうでもいい(訳者巫召鴻による解説書『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』は今後読む予定) 。
それよりも、なぜ、南京大虐殺(あるいは南京事件)から60年も経って、アメリカ生まれの華僑の女性がこんな本を書いたのか、どうして彼女が書く必要があったのか、そのことの方がぐりにとっては重要な疑問だし、主に日本の読者にとっても重要な課題であるべきではないかと思う。
本文によれば、アメリカをはじめアジア以外の世界各国では南京大虐殺(あるいは南京事件)はこれまでほとんど知られてこず、アメリカの華僑の若い世代にもまったく知らない者が多いという。原因は第二次世界大戦が終結して裁判になるまでに事件後8年もかかったことと、その後の国共内戦と中国の鎖国状態、日米が同盟国となって以降の長い冷戦時代の各国の情報操作など、複雑な要因が絡みあっている。そこは一概に誰の責任ともいえない。
けどやっぱり、いくらなんでもひどいよね。亡くなった人たちがたくさんいたことだけは間違いのない事実なのに、それがないがしろにされたままになってるなんて、ありえない。
人の生には二度の死があるという。
最初の死は肉体の死。肉体が滅び、姿が消える死。二度めの死は、人の記憶からの消滅だ。
この本は、あのとき亡くなった多くの人たちのために書かれた本だ。ただヒステリックに日本や日本人の罪を弾劾したかったわけじゃないと思う。それは読めばわかる。よしんばそうだったとしても、それだけがこの本の目的じゃない。
日本人が広島や長崎やその他各都市での大空襲での犠牲者を悼むように、ホロコーストの犠牲者を悼むように、中国で亡くなった人たちも世界中の人に悼んでもらいたい。単純に、人として著者はそう感じたのではないだろうか。あのときあの街で死んだ人たちにも、家族があり、生活があり、人生があったことを、誰にも忘れてほしくなかっただけではないだろうか。
幸いなことに、この本が出版されてから欧米での南京大虐殺(あるいは南京事件)の認知度は急激に上がり、去年が事件後70周年ということもあって映画化作品も各国で何本かつくられた。日本では今後そのうちの何本が公開されるのかはまだわからないけど、もし現在の国際世論をチャン氏が知ればさぞ喜んだろうと思う。残念ながら彼女は4年前に拳銃自殺で亡くなってしまった。36歳だった。
いろいろと問題のある本だとは思う。
でも、日本にいて内側からみているだけではわからない日本の姿を垣間見るひとつの手段として、ある意味では非常に有効な本ではある。
少なくとも、読みもしないで「どうせウソばっか書いたインチキ本でしょ」と決めつけるのはどーかと、ぐりは思うよ。
季刊 中帰連
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4886836178&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
まず最初に断っておくが、ぐり自身はこの本に書かれた内容の真偽については何の意見も感想も持たない。
南京大虐殺、あるいは南京事件と呼ばれる出来事が事実であったかどうかという議論にも、正直いってあまり興味はない。
この本を読もうと思ったきっかけは、著者のアイリス・チャン氏がぐりとほとんど年齢的に同世代といっていいほど若く、しかもアメリカで生まれ育った華僑という、彼女個人の来歴による。
1997年にアメリカで出版された本書は世界中で異様なセンセーションを巻き起こした。日本では記事の真偽をめぐって激しい論争が起き、日本語版の出版は一旦中止に追いこまれた。今回読んだ邦訳は去年、原著の発表から10年も経って、当初版権を取得した出版社とは別な会社から出されたものである。
実際読んでみて、内容的にはさほど新鮮味は感じなかった。少なくとも、ぐりがもともと知識として知っていた南京大虐殺(あるいは南京事件)と、チャン氏が調べ上げた南京大虐殺(あるいは南京事件)の間にはそれほど誤差はない。分量からいえば大した本でもない。
読みながら、ぐりは自分がいつどこでこういう知識を得たのか、具体的に思いだそうとした。学校の授業で教わったのだとすれば小学校と中学校の歴史の時間だろう(高校では世界史選択だったので日中戦争よりもヨーロッパ線戦や太平洋戦争の方を詳しく習った)。あとはTVのドキュメンタリー番組や雑誌、戦争体験者の講演会や記録映画の上映会だと思う。そういう記憶は曖昧なのだが、自分ではそういった知識を特殊なものだと自覚したことはとくになかったし、高校時代くらいまでは常識だと思っていた。高校の同級生に南京大虐殺(あるいは南京事件)を題材にした絵や詩を書いていた友だちがいて、それを観たり読んだりする他の同級生たちもそれほどショックを受けたりしていた覚えはないから、ぐりの周りの似たような境遇の子たちにとっては、この本に書かれた程度の知識はやはり常識だったのではないかと思う。
だから、アイリス・チャン氏が1968年生まれの在米3世と知って驚いたのだ。なんでまた、そんなに若い人がわざわざこんな本を書かねばならなかったのかと。
著者はアメリカの哲学者ジョージ・サンタヤナの言葉を序文に引いている。
「過去を思いだせない者は、過去を繰り返すように運命づけられている」
この言葉を読んで、ぐりは映画『麦の穂をゆらす風』のケン・ローチ監督がカンヌ国際映画祭の授賞式で語った言葉を思いだした。
「過去について真実を語れたならば、私たちは現在についても真実を語ることができる」
繰り返しになるが、この本に書かれた内容には間違いがあるかもしれない。それがいったいいくつでどこがどう間違っていようが、ぐりはどうでもいい(訳者巫召鴻による解説書『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』は今後読む予定) 。
それよりも、なぜ、南京大虐殺(あるいは南京事件)から60年も経って、アメリカ生まれの華僑の女性がこんな本を書いたのか、どうして彼女が書く必要があったのか、そのことの方がぐりにとっては重要な疑問だし、主に日本の読者にとっても重要な課題であるべきではないかと思う。
本文によれば、アメリカをはじめアジア以外の世界各国では南京大虐殺(あるいは南京事件)はこれまでほとんど知られてこず、アメリカの華僑の若い世代にもまったく知らない者が多いという。原因は第二次世界大戦が終結して裁判になるまでに事件後8年もかかったことと、その後の国共内戦と中国の鎖国状態、日米が同盟国となって以降の長い冷戦時代の各国の情報操作など、複雑な要因が絡みあっている。そこは一概に誰の責任ともいえない。
けどやっぱり、いくらなんでもひどいよね。亡くなった人たちがたくさんいたことだけは間違いのない事実なのに、それがないがしろにされたままになってるなんて、ありえない。
人の生には二度の死があるという。
最初の死は肉体の死。肉体が滅び、姿が消える死。二度めの死は、人の記憶からの消滅だ。
この本は、あのとき亡くなった多くの人たちのために書かれた本だ。ただヒステリックに日本や日本人の罪を弾劾したかったわけじゃないと思う。それは読めばわかる。よしんばそうだったとしても、それだけがこの本の目的じゃない。
日本人が広島や長崎やその他各都市での大空襲での犠牲者を悼むように、ホロコーストの犠牲者を悼むように、中国で亡くなった人たちも世界中の人に悼んでもらいたい。単純に、人として著者はそう感じたのではないだろうか。あのときあの街で死んだ人たちにも、家族があり、生活があり、人生があったことを、誰にも忘れてほしくなかっただけではないだろうか。
幸いなことに、この本が出版されてから欧米での南京大虐殺(あるいは南京事件)の認知度は急激に上がり、去年が事件後70周年ということもあって映画化作品も各国で何本かつくられた。日本では今後そのうちの何本が公開されるのかはまだわからないけど、もし現在の国際世論をチャン氏が知ればさぞ喜んだろうと思う。残念ながら彼女は4年前に拳銃自殺で亡くなってしまった。36歳だった。
いろいろと問題のある本だとは思う。
でも、日本にいて内側からみているだけではわからない日本の姿を垣間見るひとつの手段として、ある意味では非常に有効な本ではある。
少なくとも、読みもしないで「どうせウソばっか書いたインチキ本でしょ」と決めつけるのはどーかと、ぐりは思うよ。
季刊 中帰連