『生きながら火に焼かれて』 スアド著 松本百合子訳
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イスラエル領ヨルダン川西岸地域の農村に生まれたスアドは、17歳のとき近所の男性と恋に堕ち、数回のデートで妊娠してしまう。
まったく教育も受けず、生まれてからずっと家事と農作業に酷使され、虐待され続けて来た彼女には、避妊を含めて性の知識はいっさいなかった。
彼女の郷里では、夫以外の男性と目をあわせたり言葉を交わしたりするだけで「ふしだら」とみなされ、死に値する罪を負う。結婚前の少女ならなおさらである。女がそうした罪を犯した場合、死刑を執行するのは親族の義務であり、それは「名誉の殺人」と呼ばれ罪には問われない。
義兄に火あぶりにされ瀕死の重症を負うものの、欧州の人道支援団体に救出され、海外で第二の人生を歩みだすことができたスアドの回顧録。
「名誉の殺人」の犠牲者は今日でも年間に5000〜6000人の犠牲者がいるといわれている因襲である。
主に中東から北アフリカ、南アジアなどイスラム圏で行われているため、イスラム教徒の慣習と認識されやすいが、実はコーランの教えとはまるっきり関わりのない、土着の習慣でしかない。女性器切除と同じく、イスラム教がひろまるかなり以前から、厳格な家父長制とともに存在し続けてきたといわれている。
スアドの村の女性に課せられた運命は「名誉の殺人」だけではない。
というか、ここでは女性は人間として扱われない。スアドは自分の誕生日を知らない。時計をもったことがない。学校に行ったこともない。自分の名前を書くこともできない。親のいうことは絶対で、父親は毎日なにがしかの理由をつけて彼女を虐待する。母親も決して彼女を守ろうとはしない。母親も父親に毎日暴力をふるわれているからだ。
着るものは親が与える地味でみすぼらしい民族衣裳のみ。靴も履いたことがない。髪や肌を手入れすることは許されていない。
彼女の世界は家と畑と牧草地だけ。それ以外の何ものと接することも、彼女には叶わなかった。
麦畑は緑豊かに生い茂り、空は青く、レモンやいちじくやぶどうのとれる美しい村で、彼女は孤独だった。
そんな村で生まれ育ちながら、それでも彼女は自分が受けている仕打ちに適合しようとは思わなかったらしい。
外へ出たい、綺麗になりたい、誰かに優しくされたい、優しくしたい、愛されたい、愛したい。ごく当り前の人間の感情として彼女は心の自由を求めてやまず、そしてついにそれを手に入れる。世にも苛酷な宿命とひきかえに。
こういうことをいうのが適当かどうかわからないけど、そこまでひどい社会に生まれついたなら、その社会のルールも自分にとって当り前のものとして適合してしまった方が得かもしれない。だってどこの世の中にもルールはあるから。
でも、スアドはそうではなかったし、おそらく、適合しない人はいくらでもいるだろう。なぜならこのルールがあまりにも非人間的すぎるからだ。人は生まれながらに自由と幸福を求める生き物で、誰にもその渇望は押しとどめられるものではない。もし、人が自由と幸福を望まなくなってしまったら、そこで人類の発展は終わったも同然である。そういう人間に生きる意味はどこにあるだろう。
スアドの訴えは、素直に正直に自由と幸せを求めて生きた少女の、つらく悲しい告白である。
そして、今も続いている悪習の無数の犠牲者の声を代表してもいる。
彼女たちにわれわれができることがあるのかどうかはわからないけど、せめて、ひとりでも多くの人に、このような暴力の存在を知ってほしいと思う。
関連レビュー:
『ブッダは恥辱のあまり崩れ落ちた』
『生贄の女 ムフタール 屈辱の日々を乗り越えて』 ムフタール・マーイー著
『カブールの燕たち』 ヤスミナ・カドラ著
『砂漠の女ディリー』 ワリス・ディリー著
『ディリー、砂漠に帰る』 ワリス・ディリー著
『刺繍─イラン女性が語る恋愛と結婚』 マルジャン・サトラピ著
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イスラエル領ヨルダン川西岸地域の農村に生まれたスアドは、17歳のとき近所の男性と恋に堕ち、数回のデートで妊娠してしまう。
まったく教育も受けず、生まれてからずっと家事と農作業に酷使され、虐待され続けて来た彼女には、避妊を含めて性の知識はいっさいなかった。
彼女の郷里では、夫以外の男性と目をあわせたり言葉を交わしたりするだけで「ふしだら」とみなされ、死に値する罪を負う。結婚前の少女ならなおさらである。女がそうした罪を犯した場合、死刑を執行するのは親族の義務であり、それは「名誉の殺人」と呼ばれ罪には問われない。
義兄に火あぶりにされ瀕死の重症を負うものの、欧州の人道支援団体に救出され、海外で第二の人生を歩みだすことができたスアドの回顧録。
「名誉の殺人」の犠牲者は今日でも年間に5000〜6000人の犠牲者がいるといわれている因襲である。
主に中東から北アフリカ、南アジアなどイスラム圏で行われているため、イスラム教徒の慣習と認識されやすいが、実はコーランの教えとはまるっきり関わりのない、土着の習慣でしかない。女性器切除と同じく、イスラム教がひろまるかなり以前から、厳格な家父長制とともに存在し続けてきたといわれている。
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というか、ここでは女性は人間として扱われない。スアドは自分の誕生日を知らない。時計をもったことがない。学校に行ったこともない。自分の名前を書くこともできない。親のいうことは絶対で、父親は毎日なにがしかの理由をつけて彼女を虐待する。母親も決して彼女を守ろうとはしない。母親も父親に毎日暴力をふるわれているからだ。
着るものは親が与える地味でみすぼらしい民族衣裳のみ。靴も履いたことがない。髪や肌を手入れすることは許されていない。
彼女の世界は家と畑と牧草地だけ。それ以外の何ものと接することも、彼女には叶わなかった。
麦畑は緑豊かに生い茂り、空は青く、レモンやいちじくやぶどうのとれる美しい村で、彼女は孤独だった。
そんな村で生まれ育ちながら、それでも彼女は自分が受けている仕打ちに適合しようとは思わなかったらしい。
外へ出たい、綺麗になりたい、誰かに優しくされたい、優しくしたい、愛されたい、愛したい。ごく当り前の人間の感情として彼女は心の自由を求めてやまず、そしてついにそれを手に入れる。世にも苛酷な宿命とひきかえに。
こういうことをいうのが適当かどうかわからないけど、そこまでひどい社会に生まれついたなら、その社会のルールも自分にとって当り前のものとして適合してしまった方が得かもしれない。だってどこの世の中にもルールはあるから。
でも、スアドはそうではなかったし、おそらく、適合しない人はいくらでもいるだろう。なぜならこのルールがあまりにも非人間的すぎるからだ。人は生まれながらに自由と幸福を求める生き物で、誰にもその渇望は押しとどめられるものではない。もし、人が自由と幸福を望まなくなってしまったら、そこで人類の発展は終わったも同然である。そういう人間に生きる意味はどこにあるだろう。
スアドの訴えは、素直に正直に自由と幸せを求めて生きた少女の、つらく悲しい告白である。
そして、今も続いている悪習の無数の犠牲者の声を代表してもいる。
彼女たちにわれわれができることがあるのかどうかはわからないけど、せめて、ひとりでも多くの人に、このような暴力の存在を知ってほしいと思う。
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