落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

乙女よ永久に

2008年06月19日 | book
『内藤ルネ自伝 すべてを失くして―転落のあとに』 内藤ルネ
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先日愛知県の刈谷市立美術館で内藤ルネ展を鑑賞したときのこと。
会場は6つの展示室に時期とジャンルで分類したルネ作品がふんだんに飾られ、最終日前日ということもあって親子連れや10〜20代の若い女性や年輩のグループなど、幅広い層の観客がぎっしりとひしめいて大盛況だったのだが、最後の6つめの部屋だけがガラガラに空いていた。閉館間際の時間だったせいもあるかもしれないが、その部屋に展示されていたのが他の5つの部屋とはまったく違った作品群だったからかもしれない。
最後の部屋に飾られていたのは、ルネが晩年の10数年間に手がけた雑誌「薔薇族」の表紙絵だった。
同行の友人たちはこの一群の作品にとても驚いていたが、正直な話ぐりはまったく驚かなかった。予めルネが同性愛者だったことを知っていたわけでもないし、それまでの作風からそう予測したわけでもない。ただ、ここまでかわいいもの、美しいものを追求しきった人なら、どんな側面をもっていようと不思議はないと思っていたことは確かだ。いや、単にぐりの感覚が常識からズレていただけかもしれないが。

ただ、展示の後にひやかしたルネグッズの中に見つけた自伝のタイトルが「すべてを失くして」だったことはやけにひっかかった。どう考えても展示内容─元気で自由な女の子ワールド─とはあまりにかけ離れたタイトルだったから。それで帰京後に読んでみたのだが、結論からいえば「すべてを失くし」たのは90年代に詐欺事件に巻き込まれて7億円にものぼる資産の大半を失った経験のことだった。
確かに、血をわけた家族を持たない同性愛者にとっての財産は、そうでない人間の財産とは違った意味あいを持っているかもしれない。ルネも当時は自殺を考えるほどまで落ち込んだという。
だがこの不運な出来事を除けば、この自伝を読む限り彼の人生はむしろ恵まれていた、ハッピーだったという風にしか読めない。結婚こそしなかったが半世紀近く生活を共にした伴侶に恵まれ、親兄弟との関係も終始あたたかいものだった。子どものころは「変わった子」とはいわれたものの、同性愛者であることで身近な人間に理不尽な仕打ちを受けたこともない。
好きな絵を描き続け、好きなものを世界中で買い集め、日本中の少女たちをロマンチックに“オルグ”しつづけた一生。天晴れなほど乙女チック一色の生涯だ。

この本を読んでいると、ルネが青年〜壮年期を過ごした昭和の時代と、今との日本の社会のありようの差に愕然とする。
ネットやら携帯やらゲームやらとにかく便利なもので満ちあふれた現代だが、心の自由さという点では、みんながおなかを空かせて欲しいものを夢幻にみるのが楽しみだった貧しい時代の方が、むしろずっと豊かだったように感じてしまう。ルネのしていたようなことを、今の日本にそっくり置き換えてみて成立するかどうかが想像できない。セクシュアリティだけの問題ではない。男らしさ/女らしさを、男/女に強要する社会通念の威力が、昔より今の方が容赦ないような気がする。
でもほんとうは、自由などというものは人ぞれぞれの心の中の問題なのかもしれない。ルネがたまたま心の自由を持って生まれ、生涯それを失わなかったというだけの問題なのかもしれない。同性愛者=少数者=不運な人、という捉え方もまたこちこちの固定概念でしかない。
心の自由さえあれば、人はどこへでも飛べる。必要なのははばたく勇気だけなのだろう。
そんな当り前のことを痛感させられる自伝だった。

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