落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

あれは避難だったのか

2017年10月30日 | 復興支援レポート
小さな命の意味を考える会 第3回勉強会「何が起きたのか」



東日本大震災の津波で、全校児童108名中74名の死者・行方不明者を出した宮城県石巻市大川小学校のご遺族・関係者による語り部の会と、恒例の勉強会に参加してきた。
今回は遠方からの参加者や報道を含めた有志数名で、前日から泊りでの交流会もあって、交流会にもご遺族・関係者の方々が交代で出席してくださり、震災前後の詳しい事情を聞かせていただいた。

6年以上、震災復興支援の活動を続けているけど、正直にいうと、震災でご親族を亡くされた被災者の方の体験をここまで詳細に、長時間、何人も続けてうかがうのは初めての経験だった。
というのは、災害ボランティアの鉄則として「当事者が自ら語らない限り、ボランティアの立場から震災体験を訊きだしてはならない」という不文律があるからである。

ひとくちに被災者といっても事情はひとりひとり違う。被害の大きさも、受けとめ方も、ご自身の中での時間の流れ方も、誰ひとり他と重なるものはない。
もちろん、つらい体験を言葉にして第三者に伝えることで、なんらかの癒しになるケースもある。しかし逆に、話すことで心の傷を自らなぞってしまうケースもある。
相手が遠くから来てくれたボランティアだから、あるいは取材に来てくれたメディアだからといった理由で、サービスのつもりで、話したくないことを話そうとしてしまう方もなかにはおられる。
話してくださることは何でもうけとめたい、と思う。
でも、ほんとうは好きこのんで話したくないことを無理に聞きだしたいとは思わないし、これまでにもそうしたことはない。

今回お話を伺った方々全員が、お子さんや親御さん、ご兄弟やパートナーといった、日々の生活をともにしていたご親族を、津波で喪っていた。
地震が来て、津波が来るまでの間に交わした言葉のこと。
逃げなさいといったのに。逃げるよといったのに。ほんとうは助けられたはずなのに。
行方がわからなくなって、ものいわぬ遺体になってから再会した時のこと。
眠ってるみたいだった。呼べば、つかんで揺すれば、目を開けて起き上がりそうだった。
火葬場がなくて、遺体安置所も足りなくて、あちこちたらいまわしにされてるうちに、綺麗だった肌の色がかわっていってしまったこと。
仮土葬のとき、遺族に連絡が行き届かなくて、最後のお別れもできないまま埋められてしまった子がいたこと。
遺体捜索現場のにおい。損傷した遺体が流す血。
遺族である前に、地域の安全をまもる役目を全うするために、毎晩飲み明かしては早朝から捜索現場に出かけ続けた日々。

まるで昨日のことを話すみたいに細密であざやかな記憶の言葉のすべてが、津波が家を浸水するように、全身を満たしていく。
あの春先の、冷たく巨大な津波の感触を、改めてありありと感じる。
どんなに寒くて、怖くて、苦しかっただろうと。

勉強会にも複数のご遺族と関係者が参加され、一般参加者やメディアも含めて会場全体から募った疑問点をもとに、当日、小学校で起きていたことを時系列に検証した。

そこで明確になってくるのは、やはり小学校の危機管理意識の甘さだった。
地震発生時、校庭に集合した後の二次避難場所が決まっていなかったことはすでに過去の記事で紹介しているが、決まっていなかったのはそれだけではない。
災害発生時の教職員それぞれの役割分担さえ決まっていなかったか、決まっていても教職員本人が把握していなかった可能性があるのだ。
たとえば、2011年3月11日にさかのぼること2日前にも同じ地域で地震が起こっていたが、その際に近隣の幼稚園では保護者に園児引き渡しの緊急連絡があった。連絡を受けた保護者は、下の子の幼稚園からはあるのに上の子の小学校からはないことを不審に思って問合せをしたというが、回答は「そういうものは小学校にはない」だった。もちろん、同じルールは他校には当然存在している。
引き渡しの担当者が教頭だったり、他の教諭だったり、途中でころころと変わっている。教頭は家族にしか引き渡せないとし、家族が迎えに来た児童の名前も記録していたが、他の教諭では記録もせず、家族以外にも簡単に児童を引き渡している。教頭が近所の級友の家族に対し引き渡しを許可しなかった児童は、そのまま津波の犠牲になっている。
引き渡しの際に使用されるはずの記録用カードは金庫の中にあったが、校長は震災後に遺族にその資料を見せられて「初めて見た」と発言している。

教員だという一般参加者によれば、文科省の方針で1年前から学校の危機管理体制が強化され、避難マニュアルの整備や避難訓練の実施が全国各校に対してつよく求められていたという。
だが2日前の地震の後にも、大川小学校ではマニュアルを再確認した形跡すらない。保護者からの問合せがあってさえ、して当たり前のダブルチェック、トリプルチェックは行われなかった。
個人的に今回もっとも衝撃を受けたのは、津波到達1分前に始まったとされる避難のとき、避難後に子どもを迎えにくる保護者対応のためにと、学校に居残った教職員がひとりいたことだった。
いうまでもないが、彼女は津波で命を落とした。

それもう、避難じゃないよ。
違うよ、それ。

例によってかなり繊細な議論になってしまうため、これ以外の詳細は省略するが、聞けば聞くほど、74人の子どもたちと10人の先生たち、スクールバスの運転手さんは助かったはずだったと強く感じるし、だからこそ、こんなことは二度と繰り返されるべきじゃないと思う。
そしてこれだけの過ちが起きてしまった事実は、きちんと解明されて責任が追及されるべきだし、その実現のために為されるべきことはすべて為すべきだと思う。
その重さを、再確認した2日間だった。

語り部と勉強会の前日は、大川小学校の最後の学芸会だった。
今年度いっぱいで閉校になる大川小学校の子どもたちに、「あの悲惨な事故の学校の子」である以前に、「大川の子」としてここで生まれてよかったと思ってほしいとご遺族は語られた。
会の終わりに、児童と保護者と招待された遺族みんなで合唱した校歌を録音して聴かせてくださった。
歌っている皆さんの胸のうちを、私は理解することなどできない。想像するしかない。
でも、聴いていたときの胸の痛みは、決して忘れたくないと思う。


石巻市立大川小学校校歌「未来をひらく」
作詞:富田博 作曲:曽我道雄 

風かおる 北上川の  
青い空 ふるさとの空             
さくら咲く 日本の子ども           
胸をはれ 大川小学生             
みがく知恵 明るい心             
くちびるに 歌ひびかせて           
われらいま きょうの日の           
歴史を 刻む  

船がゆく 太平洋の
青い波 寄せてくる波
手をつなぎ 世界の友と
輪をつくれ 大川小学生
はげむわざ 鍛えるからだ
心に太陽 かがやかせ
われらこそ あたらしい
未来を ひらく




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