『グアンタナモ、僕達が見た真実』
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B000PGTEIS&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
グアンタナモとは、アメリカ政府がキューバから反強制的に借り受けているキューバ東部にある米軍基地のこと。ここに設置されている外国人テロリスト拘禁施設で、2002〜04年の2年間にもわたって、無実の青年3人がテロ行為に関与した疑いで拘束された。
この作品は、当事者3人のインタビューとそれに基づいた再現ドラマ、ニュース映像、記録映像を交えたノンフィクション映画である。
映画をみていてあまりの怒りと悔しさに何度も涙が溢れた。
映画をみて、悲しくて、あるいは感動して涙が出ることはよくあるけど、腹がたって涙が出たのは記憶にある限り初めてだと思う。
主人公3人はごくふつうのそのへんにいる若者だ。結婚式のために故国パキスタンを訪れ、戦時下の隣国の実情をみたいというほんの好奇心で国境を超えた。結果的にはこの好奇心があだになり、彼らは知らないうちにどさくさに紛れてアルカイダのアジトに連れてこられ、爆撃を受け、捕虜になり、そしてテロリストの烙印を押されてしまった。
ここまでの流れが映画には非常にリアルに表現されている。彼らの行動と辿った道程に、客観的な説明を加えられるだけの余裕はいっさいない。その場に流れに身を任せる以外、誰にもなす術がない。
一旦テロリストとして米軍に拘留されてしまったら、あとは人権もジュネーブ協定もいっさい無視した虐待と拷問の日々が延々と続く。3人は事件直前までイギリスで暮して、学校に行き、仕事もしていた。身元はハッキリしているし、アリバイだってある。それなのに無実が証明されない。ひたすら威され、脅かされ、自白を強要され続ける。
この映画をみてしまうと、なぜ世界中でテロ行為が繰り返されるのか、宗教対立がここまで深刻化するのかがかなり切実にわかってくる。
そこに、理解とか歩みよりというものがまったくないからだ。
無理解と不寛容、それは無知と無関心という敵意から生まれる。
イスラム教がどんな宗教で、パキスタン人がどんな民族なのか、ぐりも具体的には知らない。だが少なくとも、「知らない」ということだけはわかっているつもりでいる。「知らない」ということがわかっていれば、人種や宗教によって人を判断したり規定したりすることはできない。
しかし、対テロ戦争を戦って、堂々と「我々は悪人と戦っている」などといえる人たちは、自分たちがなにを「知らない」のかもわからないに違いない。ぐりはそう思う。
知らないことは罪なのだ。知らないから自分は関係ない、というのでは、世の中すまされないことはたくさんあるのだ。
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グアンタナモとは、アメリカ政府がキューバから反強制的に借り受けているキューバ東部にある米軍基地のこと。ここに設置されている外国人テロリスト拘禁施設で、2002〜04年の2年間にもわたって、無実の青年3人がテロ行為に関与した疑いで拘束された。
この作品は、当事者3人のインタビューとそれに基づいた再現ドラマ、ニュース映像、記録映像を交えたノンフィクション映画である。
映画をみていてあまりの怒りと悔しさに何度も涙が溢れた。
映画をみて、悲しくて、あるいは感動して涙が出ることはよくあるけど、腹がたって涙が出たのは記憶にある限り初めてだと思う。
主人公3人はごくふつうのそのへんにいる若者だ。結婚式のために故国パキスタンを訪れ、戦時下の隣国の実情をみたいというほんの好奇心で国境を超えた。結果的にはこの好奇心があだになり、彼らは知らないうちにどさくさに紛れてアルカイダのアジトに連れてこられ、爆撃を受け、捕虜になり、そしてテロリストの烙印を押されてしまった。
ここまでの流れが映画には非常にリアルに表現されている。彼らの行動と辿った道程に、客観的な説明を加えられるだけの余裕はいっさいない。その場に流れに身を任せる以外、誰にもなす術がない。
一旦テロリストとして米軍に拘留されてしまったら、あとは人権もジュネーブ協定もいっさい無視した虐待と拷問の日々が延々と続く。3人は事件直前までイギリスで暮して、学校に行き、仕事もしていた。身元はハッキリしているし、アリバイだってある。それなのに無実が証明されない。ひたすら威され、脅かされ、自白を強要され続ける。
この映画をみてしまうと、なぜ世界中でテロ行為が繰り返されるのか、宗教対立がここまで深刻化するのかがかなり切実にわかってくる。
そこに、理解とか歩みよりというものがまったくないからだ。
無理解と不寛容、それは無知と無関心という敵意から生まれる。
イスラム教がどんな宗教で、パキスタン人がどんな民族なのか、ぐりも具体的には知らない。だが少なくとも、「知らない」ということだけはわかっているつもりでいる。「知らない」ということがわかっていれば、人種や宗教によって人を判断したり規定したりすることはできない。
しかし、対テロ戦争を戦って、堂々と「我々は悪人と戦っている」などといえる人たちは、自分たちがなにを「知らない」のかもわからないに違いない。ぐりはそう思う。
知らないことは罪なのだ。知らないから自分は関係ない、というのでは、世の中すまされないことはたくさんあるのだ。
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