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章子怡(チャン・ツィイー)主演の映画『SAYURI』の原作小説。1年くらい前、一度読みかけて放ったらかしてたんだけど今回改めて挑戦。
ぐりは基本的に観たい映画は事前情報をなるべく排除して先入観なしで観る習慣なんだけど、『SAYURI』にはとくになんにも期待してないし(爆)、小説はおもしろいみたいなので読んでもいいかなと思い。
おもしろかったですよ。うん。時間も手間もしっかりかけて練りに練り上げた工芸品のような小説です。
ぐりは花柳界にはまったく不案内なのでここに描かれた世界がリアルなのかそーでないのかは皆目わからない。わからないけどちゃんとリアルには感じます。不思議なことに。それだけ構成力はしっかりしている。
ストーリーとかキャラクター描写とかは日本人が読んでもそんなに新鮮味はないけど、これをアメリカ人が書いたってのはスゴイかもしれない。よくこんなに日本人がわかるなー、と感心してしまう。
てゆーのが、ほぼ同じ時代背景で高知を舞台にした宮尾登美子の花柳小説は何冊か読んでるんだけど、それとかなり通じるところがあるのね。はっきりいって人物描写はそっくりかもしれない。宮尾作品の物語そのものは女の不幸な側面がもっと強調されてるけど。
お話はNHKの朝の連続テレビ小説になりそーな話です。そんなとこも宮尾登美子的。
舞台は昭和初期。田舎の漁村に生まれた少女が芸妓の置屋に売られて舞妓になり、芸妓になり、戦争が来て旦那を失い、終戦後花柳界に戻ってほんとうのしあわせをつかむまでの一生を、NYに移り住んだ老妓の回顧録として描いている。
だから全編一人称の語り言葉で、いきいきとなめらかにあざやかにかつやさしい文体で物語が運ばれていく。この文体がぐりの大好きな小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に似ている。彼の作品は再話文学といって小説ではないが、その多くは妻や使用人や近所の人などから語り聞かせられた日本の昔話を英語で構成しなおしたものだ。それらはみな、現象のひとつひとつを指先でゆっくりと撫でては、撫でたところから片目でそっと覗きこむような、やわらかくたおやかな繊細な文体で描かれている。
だから結果として、「史学者による老妓のインタビュー」形式で書かれた『さゆり』のスタイルが八雲作品に似ているのは当り前といえば当り前のことかもしれない。あるいは、著者ゴールデン自身が直接八雲の影響を受けていてもおかしくはない。八雲の著書は英語圏における日本文化研究の専門書としては古典中の古典だからだ。
そんな文体のせいもあって最後までとても楽しく読むことができた。
大好きな小泉八雲は明治37年に54歳という若さで亡くなっていて、『さゆり』に描かれた時代には既にこの世の人ではなかったし、亡くなるまでに日本を舞台にしたオリジナルの長編小説は1作も書かなかったけど、もし生きていたらこんな小説を書いてくれたかもしれない、そんな気分で読んでました。ゴールデン氏にはとても申し訳ないけど。
ちなみに八雲は芸者を主人公にした短編は書いている。「きみ子」という文庫本で10ページ程度のほんの小品で、聡明な売れっ子芸者が心から愛する人の幸せのために自分自身の人生を捨てて姿を消すという、悲しいが美しい物語だ。
だがさゆりは愛する人を決して最後まで諦めはしなかった。
彼女はしなやかにたくましく逆境を乗り越え、したたかに祇園という戦場を生き抜いていく。彼女は愛する人に一歩でも近づくために芸妓の道を自ら選びとり、その目的のためだけに全てを耐え忍び、何もかもを犠牲にして厭わない。
予定調和といってしまえばそれまでの話だ。彼女独特の瞳も、初恋の人に最初から地位があったことも、その結末のためだけに用意された設定でしかない。
それはそれとして、やはりこの作品の魅力はさゆりという主人公にして語り手の言葉そのものにつきるような気がする。作中に描かれる若きさゆりではなく、それを語って聞かせてくれる老いたさゆりが、その世界観のなかで最も美しく魅惑的なのだ。不思議なものだけれど。
ゴールデン氏はこの小説に10年近い歳月を費やしたという。今はまた次回作を執筆中らしいが、またもしこんな文体で書いているのなら是非読んでみたいと思う。
そう思う自分がちょっと申し訳ないけどね。
でも一流の工芸品は芸術には違いない。見た目に綺麗なだけじゃなくてつくりがしっかりした工芸品は普遍的に人に愛されるものだし、ぐりもそういうのは大好きです。
章子怡(チャン・ツィイー)主演の映画『SAYURI』の原作小説。1年くらい前、一度読みかけて放ったらかしてたんだけど今回改めて挑戦。
ぐりは基本的に観たい映画は事前情報をなるべく排除して先入観なしで観る習慣なんだけど、『SAYURI』にはとくになんにも期待してないし(爆)、小説はおもしろいみたいなので読んでもいいかなと思い。
おもしろかったですよ。うん。時間も手間もしっかりかけて練りに練り上げた工芸品のような小説です。
ぐりは花柳界にはまったく不案内なのでここに描かれた世界がリアルなのかそーでないのかは皆目わからない。わからないけどちゃんとリアルには感じます。不思議なことに。それだけ構成力はしっかりしている。
ストーリーとかキャラクター描写とかは日本人が読んでもそんなに新鮮味はないけど、これをアメリカ人が書いたってのはスゴイかもしれない。よくこんなに日本人がわかるなー、と感心してしまう。
てゆーのが、ほぼ同じ時代背景で高知を舞台にした宮尾登美子の花柳小説は何冊か読んでるんだけど、それとかなり通じるところがあるのね。はっきりいって人物描写はそっくりかもしれない。宮尾作品の物語そのものは女の不幸な側面がもっと強調されてるけど。
お話はNHKの朝の連続テレビ小説になりそーな話です。そんなとこも宮尾登美子的。
舞台は昭和初期。田舎の漁村に生まれた少女が芸妓の置屋に売られて舞妓になり、芸妓になり、戦争が来て旦那を失い、終戦後花柳界に戻ってほんとうのしあわせをつかむまでの一生を、NYに移り住んだ老妓の回顧録として描いている。
だから全編一人称の語り言葉で、いきいきとなめらかにあざやかにかつやさしい文体で物語が運ばれていく。この文体がぐりの大好きな小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に似ている。彼の作品は再話文学といって小説ではないが、その多くは妻や使用人や近所の人などから語り聞かせられた日本の昔話を英語で構成しなおしたものだ。それらはみな、現象のひとつひとつを指先でゆっくりと撫でては、撫でたところから片目でそっと覗きこむような、やわらかくたおやかな繊細な文体で描かれている。
だから結果として、「史学者による老妓のインタビュー」形式で書かれた『さゆり』のスタイルが八雲作品に似ているのは当り前といえば当り前のことかもしれない。あるいは、著者ゴールデン自身が直接八雲の影響を受けていてもおかしくはない。八雲の著書は英語圏における日本文化研究の専門書としては古典中の古典だからだ。
そんな文体のせいもあって最後までとても楽しく読むことができた。
大好きな小泉八雲は明治37年に54歳という若さで亡くなっていて、『さゆり』に描かれた時代には既にこの世の人ではなかったし、亡くなるまでに日本を舞台にしたオリジナルの長編小説は1作も書かなかったけど、もし生きていたらこんな小説を書いてくれたかもしれない、そんな気分で読んでました。ゴールデン氏にはとても申し訳ないけど。
ちなみに八雲は芸者を主人公にした短編は書いている。「きみ子」という文庫本で10ページ程度のほんの小品で、聡明な売れっ子芸者が心から愛する人の幸せのために自分自身の人生を捨てて姿を消すという、悲しいが美しい物語だ。
だがさゆりは愛する人を決して最後まで諦めはしなかった。
彼女はしなやかにたくましく逆境を乗り越え、したたかに祇園という戦場を生き抜いていく。彼女は愛する人に一歩でも近づくために芸妓の道を自ら選びとり、その目的のためだけに全てを耐え忍び、何もかもを犠牲にして厭わない。
予定調和といってしまえばそれまでの話だ。彼女独特の瞳も、初恋の人に最初から地位があったことも、その結末のためだけに用意された設定でしかない。
それはそれとして、やはりこの作品の魅力はさゆりという主人公にして語り手の言葉そのものにつきるような気がする。作中に描かれる若きさゆりではなく、それを語って聞かせてくれる老いたさゆりが、その世界観のなかで最も美しく魅惑的なのだ。不思議なものだけれど。
ゴールデン氏はこの小説に10年近い歳月を費やしたという。今はまた次回作を執筆中らしいが、またもしこんな文体で書いているのなら是非読んでみたいと思う。
そう思う自分がちょっと申し訳ないけどね。
でも一流の工芸品は芸術には違いない。見た目に綺麗なだけじゃなくてつくりがしっかりした工芸品は普遍的に人に愛されるものだし、ぐりもそういうのは大好きです。
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