落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

La Vie en rose

2008年03月15日 | movie
『ジェリーフィッシュ』

去年のカンヌ国際映画祭でカメラドール(新人賞)を受賞したイスラエル映画。
結婚式で骨折してしまったケレン(ノア・クノラー)とマイケル(ゲラ・サンドラー)はカリブへの新婚旅行を中止してホテルで過ごすことに。結婚式場のウェイトレス・バティア(サラ・アドラー)はある日テルアビブの海岸で迷子の女の子(ニコール・レイドマン)と出会い、週末だけ預かることになる。
フィリピンから出稼ぎに来たヘルパー・ジョイ(マネニータ・デ・ラトーレ)はヘブライ語がひとことも話せず、世話をするマルカ(ザハリラ・ハリファイ)とは意志の疎通もままならない。

イスラエルといえばどうしても報道のイメージから宗教問題や民族衝突など物騒なことばかり思い浮かぶが、この映画には直接的にはそういう面は描かれない。でもそれでいて、ちゃんとイスラエルという国の香りが濃密に漂う、非常にイスラエルっぽい映画になっている。ってもぐりはイスラエルのことなんにも知りませんが。
映画全体にぎっちりと充満している、登場人物たちのよるべなさ、いたたまれなさが、あらゆるディテールを通して、観るものの心の奥の弱い部分に能弁に語りかけて来るのだ。
いうまでもないが、イスラエルは1948年に建国された新しい国で、国民の多くはよそから移って来た寄せ集めの国である。若い世代でもせいぜい2世か3世で親はそれぞれ外国生まれの、大抵が外国人のようなものだ。ユダヤ教という信仰だけは共通項ではあるけれど絶対的なほど信心深い国民ばかりではないし、何世代もそれぞれ別の国で暮して来た彼らのバックグラウンドはそれぞれ違う。価値観も違えば言語も違う。統一したアイデンティティというものが欠けている。そうなると世代間の溝も大きくなる。
わざわざユダヤ人のためにつくられた国に暮していながらユダヤ人が感じる理不尽な孤独感─でも誰も声に出してそういうのはついはばかられてしまう─で、ふわふわと頼りない映像がしっとりと染まっている。

キャスティングが素晴しくて、とくにまったく喋らないニコール・レイドマンがものすごくかわいくて和みました。フィリピン人のマネニータ・デ・ラトーレはもともと職業俳優じゃないらしいのだが、とてもそうはみえない名演技が素晴しい。
初日なのに劇場ガラガラで淋しかったー。いい映画なのに、なんでやろ・・・。

人生はバラ色じゃない

2008年03月15日 | movie
『ノーカントリー』
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2007年度の映画賞総ナメの超話題作。
原題は『No Country for Old Men』。「おっさんにはキツい国」みたいな意味でしょーかね?大体?まーこの意味のない邦題は毎度のことですが困ったもんだね。原作小説の邦題は『血と暴力の国』だから興業的にはもっとありえんのでしょーが。
内容については説明するまでもないですね。ヴァイオレンス・ウエスタン・サスペンスとでもいいましょーか。カネと血と男の映画です。おもしろかったですー。噂に違わず。絶対原作読んだろー。

けどコレ、たぶん、観た人ごとにまったく違った解釈ができる、すごく幅の広い映画でもあると思う。とにかくいっさい説明ってもんがないからさ。主要な登場人物がほとんどのパートで単独で行動してて、向かいあって会話するシーンが極端に少ない。向かいあっても余計なことは口に出さないか、言葉を交わす前に撃ち合いになっている。ムチャクチャだ。そこには相互理解とか、言い訳とか、義理とか情緒の入り込む隙間はまったくない。要求されているのは血かカネか、どちらかしかない。
中でいちばんよく喋ってるのは保安官役のトミー・リー・ジョーンズ(上映前にBOSSのCM流すのはヤメてほしかったよ・・・)。喋るってゆーか、大体はボヤいてるんだけど。このボヤきがおもしろい。本人は全然ジョークのつもりはないし、ホントは笑えない話なんだけど、どうしても笑いがこみ上げて来てしまうのだ。

観てて怖かったのは、映画が進行するにつれてシガー(ハビエル・バルデム)の異常さにこっちがなんとなく慣れて来てしまうところ。画面でやってることは徹頭徹尾カンペキにおかしいのに、観てるうちにあんまりおかしくなくなって来ちゃうんだよね。そんなワケないのに。
でもこれはこの映画だけじゃなくて社会全体についていえることで、たとえばこの映画では血かカネ以外に答えはないということになってるんだけど、世界に目を向けてみれば血かカネでしか解決できない現実はそこらじゅうに満ちみちている。それは明らかにおかしいハズなんだけど、とっくに誰もがそれに慣れちゃってて、大抵のことには驚かなくなっている。毎日のようにニュースに流れる異常犯罪やテロや内戦の悲劇に、もう誰も大して心を動かすこともない。
もしかしてホントは、人間はもともと血とカネにしか頼れない生き物だったのだろうか?そんな筈はない、と考えるのは思い上がりなんだろうか?
そうじゃないといいんだけど・・・。

Those who cannot remember the past are condemned to repeat it.

2008年03月13日 | book
『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』 アイリス・チャン著 巫召鴻訳
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まず最初に断っておくが、ぐり自身はこの本に書かれた内容の真偽については何の意見も感想も持たない。
南京大虐殺、あるいは南京事件と呼ばれる出来事が事実であったかどうかという議論にも、正直いってあまり興味はない。
この本を読もうと思ったきっかけは、著者のアイリス・チャン氏がぐりとほとんど年齢的に同世代といっていいほど若く、しかもアメリカで生まれ育った華僑という、彼女個人の来歴による。
1997年にアメリカで出版された本書は世界中で異様なセンセーションを巻き起こした。日本では記事の真偽をめぐって激しい論争が起き、日本語版の出版は一旦中止に追いこまれた。今回読んだ邦訳は去年、原著の発表から10年も経って、当初版権を取得した出版社とは別な会社から出されたものである。

実際読んでみて、内容的にはさほど新鮮味は感じなかった。少なくとも、ぐりがもともと知識として知っていた南京大虐殺(あるいは南京事件)と、チャン氏が調べ上げた南京大虐殺(あるいは南京事件)の間にはそれほど誤差はない。分量からいえば大した本でもない。
読みながら、ぐりは自分がいつどこでこういう知識を得たのか、具体的に思いだそうとした。学校の授業で教わったのだとすれば小学校と中学校の歴史の時間だろう(高校では世界史選択だったので日中戦争よりもヨーロッパ線戦や太平洋戦争の方を詳しく習った)。あとはTVのドキュメンタリー番組や雑誌、戦争体験者の講演会や記録映画の上映会だと思う。そういう記憶は曖昧なのだが、自分ではそういった知識を特殊なものだと自覚したことはとくになかったし、高校時代くらいまでは常識だと思っていた。高校の同級生に南京大虐殺(あるいは南京事件)を題材にした絵や詩を書いていた友だちがいて、それを観たり読んだりする他の同級生たちもそれほどショックを受けたりしていた覚えはないから、ぐりの周りの似たような境遇の子たちにとっては、この本に書かれた程度の知識はやはり常識だったのではないかと思う。
だから、アイリス・チャン氏が1968年生まれの在米3世と知って驚いたのだ。なんでまた、そんなに若い人がわざわざこんな本を書かねばならなかったのかと。

著者はアメリカの哲学者ジョージ・サンタヤナの言葉を序文に引いている。
「過去を思いだせない者は、過去を繰り返すように運命づけられている」
この言葉を読んで、ぐりは映画『麦の穂をゆらす風』のケン・ローチ監督がカンヌ国際映画祭の授賞式で語った言葉を思いだした。
「過去について真実を語れたならば、私たちは現在についても真実を語ることができる」
繰り返しになるが、この本に書かれた内容には間違いがあるかもしれない。それがいったいいくつでどこがどう間違っていようが、ぐりはどうでもいい(訳者巫召鴻による解説書『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』は今後読む予定) 。
それよりも、なぜ、南京大虐殺(あるいは南京事件)から60年も経って、アメリカ生まれの華僑の女性がこんな本を書いたのか、どうして彼女が書く必要があったのか、そのことの方がぐりにとっては重要な疑問だし、主に日本の読者にとっても重要な課題であるべきではないかと思う。
本文によれば、アメリカをはじめアジア以外の世界各国では南京大虐殺(あるいは南京事件)はこれまでほとんど知られてこず、アメリカの華僑の若い世代にもまったく知らない者が多いという。原因は第二次世界大戦が終結して裁判になるまでに事件後8年もかかったことと、その後の国共内戦と中国の鎖国状態、日米が同盟国となって以降の長い冷戦時代の各国の情報操作など、複雑な要因が絡みあっている。そこは一概に誰の責任ともいえない。
けどやっぱり、いくらなんでもひどいよね。亡くなった人たちがたくさんいたことだけは間違いのない事実なのに、それがないがしろにされたままになってるなんて、ありえない。

人の生には二度の死があるという。
最初の死は肉体の死。肉体が滅び、姿が消える死。二度めの死は、人の記憶からの消滅だ。
この本は、あのとき亡くなった多くの人たちのために書かれた本だ。ただヒステリックに日本や日本人の罪を弾劾したかったわけじゃないと思う。それは読めばわかる。よしんばそうだったとしても、それだけがこの本の目的じゃない。
日本人が広島や長崎やその他各都市での大空襲での犠牲者を悼むように、ホロコーストの犠牲者を悼むように、中国で亡くなった人たちも世界中の人に悼んでもらいたい。単純に、人として著者はそう感じたのではないだろうか。あのときあの街で死んだ人たちにも、家族があり、生活があり、人生があったことを、誰にも忘れてほしくなかっただけではないだろうか。
幸いなことに、この本が出版されてから欧米での南京大虐殺(あるいは南京事件)の認知度は急激に上がり、去年が事件後70周年ということもあって映画化作品も各国で何本かつくられた。日本では今後そのうちの何本が公開されるのかはまだわからないけど、もし現在の国際世論をチャン氏が知ればさぞ喜んだろうと思う。残念ながら彼女は4年前に拳銃自殺で亡くなってしまった。36歳だった。

いろいろと問題のある本だとは思う。
でも、日本にいて内側からみているだけではわからない日本の姿を垣間見るひとつの手段として、ある意味では非常に有効な本ではある。
少なくとも、読みもしないで「どうせウソばっか書いたインチキ本でしょ」と決めつけるのはどーかと、ぐりは思うよ。

季刊 中帰連

ビョーキな国

2008年03月11日 | book
『誰が日本の医療を殺すのか 「医療崩壊」の知られざる真実』 本田宏著
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最近よくニュースになっている救急患者のたらいまわしだが、身近に経験したことはなくても、以前から気になる光景はしばしば目にするようになっていた。
事故や火災や急病人で救急車が呼ばれて、患者が車内に搬入される。そして車内で応急処置が行われるのだが、受入先が決まらないのか、救急車自体はなかなか発車しない。車内に患者がいて、救命士が動き回っているのが外からなんとなく見える。そんな救急車を路上でよく見かけるようになったのはいつの頃からだろう。
一刻を争う状態の患者がいて救急車が呼ばれているのに、肝心の行き先がない。救急車の数が限られているうえ高齢化にともなって出動件数は増えているのに、受入先がみつからないことで一件あたりの拘束時間が長くなり、結果的に救急車の稼動効率が低下する。

救急患者の受入先が足りないのは、日本の病院と医師の数が不足しているからである。
病院と医師の数が足りないのは、日本の医療政策が国民に必要とされる内容と逆行しているからである。簡単にいえば、日本の病院はどこも人手不足なうえに赤字経営で、医師はみんな死ぬほど苛酷な労働を強いられていてかつ賃金が安すぎる。それもこれも全部、国が医療にかかる負担を病院と医師と国民に押しつけて、国の負担を削ることにのみ専心しているからだ、と本書では書いている。
まず日本の医師の数は国が統制していて、現在では年間100名程度の増員に抑えられている。実際には日本の医師は単純計算で14万人も不足しているのに、である。日本の医師数は人口1000人あたり2人。OECD(経済協力開発機構)の平均は3.1人である。最も多いのがギリシャの4.9人、次いでイタリア4.2人。日本よりも少ないのは韓国、メキシコ、日本はビリから3番めである。アメリカは2.3人と日本と変わらない水準だが、実はアメリカでは医師数のカウント方法が違う。臨床医以外の医師免許取得者=ペーパードクターがここに含まれていないのだ。日本のデータではこれが含まれている。
昔は日本でも医師を増やして医療制度の充実が図られた時代もあった。しかし医療技術の進歩やIT化、医療保険の自由化にともなって、患者ひとり当たりにかかる医師の作業量も増大した。ふつう、科学技術は人の生活を楽に快適にするはずのものだが、医療現場に関しては逆なのである。単純だった診療行為が複雑化すれば、当然のことながらやることは増える。それなのに人手は増えない。すべてが医師ひとりひとりの努力と犠牲の上に成り立っている。

日本は世界一の高齢化社会で同時に少子化問題が深刻な課題になっている。
年をとれば誰でも病気や怪我などで病院の世話になることが増えてくる。少子化対策だって妊娠・出産・育児とすべての過程で病院と医師の協力がなければ現実には成り立たない。
それなのに、近い将来、日本では救急車を呼んでも何時間も救急窓口で放ったらかされるとか、ガンの手術を半年以上待たされてその間に亡くなってしまうとか、子どもを産みたくても自宅から2時間圏内に産科小児科がないとか、そういう事態が現実になろうとしているというのだ。なかでも産科小児科の不足は深刻で、一部地域では既にそうなっている。
それなのに、政府はまだ赤字財政を言い訳に医療費を削減しようとしている。高齢化や少子化と医療政策が絶対に切り離せない問題であることはぐりのような素人でもわかることなのに、なぜなんだろう。

著者は埼玉県の済生会栗橋病院の副院長。医療の現場で働く医師の証言として、目からウロコが嵐のように剥がれまくる衝撃の事実満載の本でした。
しかしコレ読んでるとホントに日本はヤバいんじゃないかとゆー気がしてきてコワイ。ぐりが高齢者になるころにはどーなってるんだかなあ。

行きはよいよい

2008年03月09日 | book
『放送禁止歌』 森達也著
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日本には制度上、放送禁止歌なるものは現在存在しない。
かつては日本民間放送連盟(通称「民放連」)が自主規制のためのガイドラインとして「要注意歌謡曲指定制度」というシステムを1959年から始め、指定曲の一覧リストを定期的に発行していた。このリストは5年間有効とされていたが1983年を最後に更改されておらず、88年に効力を失ってから既に20年が経過している。なので、今日では「放送を規制されている曲」など1曲もない。音楽の放送に対する規制もまったくない。アメリカの連邦通信委員会(通称「FCC」)のように法的強制力をもつ政府機関が日本にはないからだ。
それなのに、今でも日本人の感覚のなかには「放送禁止歌」という概念だけが存在している。TVを観る一般視聴者にもあるし、放送するメディア側にもある。それはなぜなのか。

本書はかつて名曲の数々が「放送禁止歌」に指定された背景を取材して番組にしようとしたTVジャーナリスト森氏が、取材の過程で「放送禁止歌」という概念そのものの本質に向かいあうことになった経緯をまとめたエッセイ。ルポルタージュというほど深刻な内容ではなく、あっさりと読みやすい分量にきれいにまとまった軽い本だ。
ぐりはここ数年TVを見ない生活を送っているが、子ども時代にも一部のアニメ番組以外はTVを見ないようしつけられていたので、この本に登場する放送禁止歌は最近映画の題材にもなった「イムジン河」を除いて1曲も聞き覚えがない。なので放送を規制された事実の重みがうまくイメージできなかったのがちょっと歯がゆかったけど、全体としては、TVというメディアの人にはなかなかできないアプローチをした、かなりチャレンジングな本になっているとは思う。

はじめはなぜ歌が放送できなくなったのかを取材していた森氏だが、調べてみると歌謡曲の放送を禁止する法律もルールも何もないことがわかってくる。現場で誰かが「この曲は放送禁止歌じゃなかったっけ?」といえば「じゃあやめとこっか」などといいう程度の思いこみで「放送禁止歌」という概念が漫然と受け継がれていただけだった。
「なんで禁止なの?」といえば「どうも民放連から圧力があったらしいよ」などという者がある。「いや解同(部落解放同盟)らしいよ」、あるいは「総連(在日本朝鮮人総聯合会)らしいよ」という者もある。しかしそれならば本当にそんな事実がいつあったのか、そしてそれはなぜなのかを誰も追求してこなかった。どうしてか?TVは忙しいからだ。ムダにめだつことをして後でクレームが来ても反論なんかするエネルギーが惜しいからだ。
「誰も傷つけない表現」が「差別のない表現」だとみんなが勝手に思いこんでいる。現実には「誰も傷つけない表現」なんかない。どんな表現にも傷つく人はいる。もし傷つく人がいても、傷ついたよと抗議する人がいても、表現者側にはっきり反論できる主張と誠意がありさえすればいいのに、忙しいから、めんどうだからという理由で誰もそれに触れようとしない。
結果的にはどうなるか。差別の意味や根拠が知られないまま闇に葬られ、差別という観念だけが受け継がれていってしまう。差別はいけない、人間は平等だという美辞麗句がどんどん形骸化する。
歌謡曲だけの問題じゃない。放送禁止用語から皇室問題、相撲協会などあらゆるメディアの「タブー」に対するあまりにも無責任な無自覚の問題なのだ。

ぐりは森氏の「放送禁止歌〜歌っているのは誰?規制しているのは誰?〜」という番組を観たことはないんだけど、機会があれば一度みてみたい。
しかしこの森さんとゆーヒトはスゴイ数の本を出してますけど・・・いつどーやってこんなに書いてるんだろー?謎。
あとデーブ・スぺクターって意外におもろいね(爆)。しょーもないダジャレしゃべってるよりマジメに喋ってる方がおもしろいよ。ははははは。

「放送禁止歌〜歌っているのは誰?規制しているのは誰?〜(1/6)」
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